第13話・生きる


 拡がる闇はどこまでも深く、目を凝らしてみたところで視界が何かを捉えることはない。

 耳に届くのは静寂。自らの心臓の音さえも聞こえず、自分が生きているのか死んでいるのかさえもわからない。

 闇、晦冥かいめい、虚無……

 ここには何もなく、何も生まれない。

 果てもなく、始まりもなく、永久とこしえに続く世界。

 それでも『仕方がない』と思う。

 心の中には逃げ出したくなるような感情が渦巻く。逃げ出した先に拡がるのは、こんな暗闇なんだろう。

 私は暗闇の中で、一人膝を抱える。

 何度も繰り返すこの光景に、胸が悲しみでいっぱいになる。

 不安に怯え、でも逃げるしかなかった。

 このまま、ここで消えてしまうのではないか? そう思うと怖くなった。

「でも、しょうがないじゃない……」

 自然と口から漏れる言葉は、諦めに縁取ふちどられたものだった。

 このまま深い闇の中に身を沈めていれば、いずれこのやりきれない感情も消える。

 だから私は、またこうして我慢する。

(やっぱり私は逃げてきたのね)

 何もない、誰もいない暗闇の中……

 零れ落ちる自分の声とは、また別の声が聞こえた。顔を上げる。

 私の目の前には、じぶんが立っている。見つめるじぶんの顔には、絶望の色が浮かび上がっていた。

(けっきょく最初から、そんなことは分かってた)

 その声は一つではない。

 じぶんが……じぶんたちが、取り巻くように膝を抱える私を見つめていた。

 小学生の頃、皆と同じように運動会に参加できなかった脆弱なじぶん

 放課後、一緒に遊びに行こうという誘いを足手まといだからと断った卑屈なじぶん

 旅行や進路、いろいろな場面でという言葉で逃げ出した諦めの中のじぶんたち。

 すべてが愛音の心の中に蘇る。

 押し込めてきた気持ちが胸を締め付ける。それは後悔の色に染まった過去の記憶だった。


『生きるためには我慢しなければいけない』


 そう信じて、不公平を受け入れてきた。嫉妬や絶望を避けるために、自分を納得させてきたのだ。

 けれど、その結果は深い後悔を生み出した。

 ほら、今こうして私が…私たちが感じているように……

 疑問。

 本当にこんなことを望んだのだろうか?

 我慢して、我慢し続けて、本当の気持ちを蔑ろにして、こんな結末を望んだのだろうか?


──そうじゃない。


 過去のじぶんたちが一斉にこちらを向く。どの顔も諦めが宿り、生気がない。きっと今の私も同じ顔をしているのだろう。

 不安から逃れたい。けれど抱え込んだ不安だけ大きくなる。

(だったらどうすればいいの?)

(生きるってどういうこと?)

 過去のじぶんたちが問う。

 自問する。

 心の奥底では、きっと後悔している。それを分かっているのだ。だからこそのじぶんの問いかけなのだ。

(あなたはどうしたいの?)

「それは……」

 問いかけられたじぶんに答えられない。私がどうしたいのか、本当の気持ちが分からない。

 我慢して我慢して、結局諦めて、逃げ出してしまった。

 そして辿り着いた先は、この暗闇だった。

 それは仕方がないことだと思った。そうしなければ、生きていけないのだから。

 だけど……


──だけど、本当は嫌だ。


 こんな暗闇に囚われているなんて、嫌だ。

「教えてよ……だったらどうすればいいっていうの……?」


『それを他人に言われて、お前は『はい、そうですか』と納得できるのか?』


 そんな言葉が胸をよぎった。

 それは突き放しているようでいて、実に明快な導きの言葉だった。

 強い想いが胸に灯る。諦めるのは、もう嫌だと。


     〇


「おいこら、燻る灰! しっかりしろ!」

 焦りと苛立ちにフルーフが声を荒げて呼びかけるが、魔女の攻撃にさらされるグリィからはなんもいらえもない。ただ好きになぶられるがまま、グリィの身体は宙に打ち上げられ、地面に叩きつけられ、ぼろ布のように転がるだけだ。

 そんなグリィの姿に、魔女は落胆を浮かべながら言葉を投げかける。

「もう終わってしまったの? 本当につまらないね」

 いたぶる手を止めると、魔女は馬乗りになってグリィの深紅の瞳をのぞき込む。

 憎悪に燃えるグリィの瞳には、自分が奪った少女の姿が映っている。

 けれどその瞳に映るかつての執着は緩やかに、雨風が岩を摩耗するように、永い刻がそれを薄れさせたかのようだ。

 魔女は嘆息を漏らすと、笑みを浮かべる。

「あなたが復讐の炎を纏って再びわたしの前に現れたときは、本当に嬉しかったのよ。だから永遠にわたしを追ってこられるように、あなたに祝福不死を与えたんだ」

 一瞬浮かべたその柔らかな笑みが、恍惚な冷笑へと変わる。

「永劫を生きるわたしに唯一生まれた楽しみ。唯一生まれた暇つぶし。唯一生を実感できる瞬間……」

「何が祝福なものか。そうやって貴様は命を弄ぶ。今も昔もそれは変わらない」

「それの何がいけないの?」

「俺は貴様のおもちゃじゃない」

「今のあなたは、おもちゃ以下の存在だよ。いっそこのまま、完全に壊してしまおうか」

「ふん。壊せるものならさっさと壊せ。生憎、貴様のせいで死ぬに死ねない身体だ」

 動かない身体でグリィは唾する。

「さあ、いつものように身体を壊せ。心を殺せ。そのたびに蘇り、必ず貴様をコロシテヤル」

「哀れなものね。そうしてあなたは弱くなるばかり」

 魔女は壊れたおもちゃでも見るかのようにグリィを見下すと、躊躇いもなく踏み潰す。

 壊れたおもちゃに未練はない。

「絶望した人間が最後にたどり着く感情って知ってる?」

「他人の感情など知ったことか。俺が望むのは貴様の死。そして俺自身の死だ」

「悲しいわね、本当に口先だけ。あなたは何も分かってないみたい。ふふ、呆れるわ。人間の本質を忘れた?」

「貴様に人間の何たるかを語られる覚えはない」

「人間の強さは譲れない感情があるからよ。あなたはそれを忘れてる。絶望して絶望して絶望して……最後に人間が辿り着く感情は──」

 言い掛けて、魔女は言葉を止める。

 身体の内から伝わる奇妙な感覚に眉をひそめた。

 苛立ちとともにグリィを嬲っていた右足の動きが鈍る。胸に熱いものが灯った気がした。

「……こういうことね。だから人間は侮れない」


     〇


(グリィさん、グリィさん、グリィさん!)

 感情はそのまま叫び声になって、目の前で倒れ伏す血まみれの男性の名前を呼ぶ。

 けれどその声が届くことはなく、事態を好転させるすべもない。

 強い否定の思いが胸に灯ると、急に視界が開けた。

 目の前でグリィが倒れ伏している。事もあろうか、グリィを傷つけているのは自分の身体だった。

 けれどどんなに頑張っても願っても、自分の指先さえ動かすことができない。このままあがいたところで、完全に支配された身体は言う事を聞いてはくれない。


 だったらまた、いつものように仕方がないと我慢するのか?


 浮かんだ問いにかぶりを振って、愛音は再びグリィの名前を呼び続ける。

 声がした。

「きゃんきゃん、きゃんきゃん、うるさいわね。捨てられた子犬じゃあるまいし、人の頭の中で騒がないでちょうだい」

「これは私の身体です。気に障るのなら、今すぐ出ていってください」

 受けた皮肉を皮肉で返す。

 目の前に現れたモノに向けて、愛音は敵意のまなざしを向けた。

 姿は同じでも、先ほど対話したじぶんたちとは明らかに異質な存在。

 愛音は目の前の自分の姿をしたモノが魔女であると、すぐに分かった。

「閉じ籠るのはもうやめたの? せっかく救いの場を設けてあげたのに」

「救いを求めた先が悪魔だったなんて、思いもしませんでした」

「あら人聞きの悪い。わたしはあなたの背中を押してあげただけよ」

 魔女は愛音の言葉に、にやりと笑みを返す。

「辛い思いをするのなら、いつものように現実から目を背けるといい。目を閉じて、耳を塞いで、感覚を閉じる。少し我慢すれば、今感じている辛さも痛みも感じなくなるわ。あとはわたしに任せれば、何も心配なくなる。あなたは楽になれる」

「あなたのような非道な魔女に、これ以上私の身体を好きにはさせたくありません」

「あら酷い。こう見えても、あなたには感謝しているのよ? だから、お礼をしようと思ったの」

「そんな言葉には、もう騙されません」

「信じるのもあなたの勝手。信じないのもあなたの勝手」

 いぶかしむ愛音に、魔女はおどけたように言う。

「あの男に追い詰められたときは、さすがにもうだめだって思ったわ。偶然にもあなたが通らなければ、そのまま消されちゃってたかもね」

「そのとき、私の中に入り込んだんですね」

「ほとんど賭けだったわね。入り込むにも相性があるの。もちろん強引に入り込むこともできるけど、あのときは死にかけだったわけだし」

 命の危機だったというのに、魔女はどこか楽しそうに話す。

「呼毒は心の在り方……。その点、あなたは十分な素養を持っていたわ。あなたという魂は絶望に満たされていて、なんの希望も見出せない。わたしとの相性もばっちりだったわけ」

「皮肉…ですか?」

「すんなり受け入れてくれて、感謝してるって話。だから、わたしは見せてあげたの。妬み、嫉み、憎しみに怒り。この世界は、あなたの思った通りだったでしょう?」

「どうしてそんなことを……」

「お礼だって言ったじゃない」

「……お礼?」

「あなたは世界をうとんでいた。自分に厳しくて不公平で残酷な世界。怒って、妬んで、憎んで。……けれど本当は、誰よりも羨んでいた」

 魔女は言う。

「この世界は負の感情に溢れている。不公平に絶望して、友人に嫉妬して、自身に嫌悪する。世界を羨むあなたに、世界は羨む価値もないものだって教えてあげたのよ」

 魔女は諭す。

「『生きるためには我慢をしなければならない』。あなたはそうしてこの醜い世界を生きてきた。けれど、もうその必要はない。辛ければ目を閉じればいい。苦しければ耳を塞げばいい。わたしがすべて、代わってあげるわ」

 魔女は惑わせる。

「だからもう一度言うわ。わたしに身体を委ねなさい」

「……それはできません」

 静かに、けれどはっきりと、否定の言葉を口にした。

 今までの自分だったら、この甘言に耳を傾けていただろうな、と愛音は思う。本当は今も、逃げ出したくてたまらないのだ。

 そんな思いを心の隅に追いやり、愛音は続ける。

「たしかに、あなたの言う通りなのかもしれません……」

 魔女の語った言葉に、愛音は頷く。

 おそらく魔女の言い分は、ある意味において正しいだろう。

 世界は不公平。生きるのは苦しい。そんな辛さを味わうくらいなら、逃げ出してしまいたい。

 この先延々とこんな希望も見出せない責苦が続くというのなら、いっそ『死』という結末に救いを求めたくなる。意地悪な世界を呪って、壊れてしまえばと願う。

 けれどそれは単なる負け惜しみでしかなくて、本当の願いは別にある。本当はきっと、こう思っているのだ。

 愛音は考える。

 私にとって世界は意地悪だ。不公平で残酷だ。

 目を閉じたい、耳を塞ぎたい、逃げ出してしまいたい。

 だけど、その気持ちに取り込まれてしまったら前には進めない。

 理想の世界なんて存在しない。

 世界が呼毒に溢れているというのなら、それが世界の仕組みなんだろう。


『生きるためには我慢しなければいけない』


 ずっとずっと、言い聞かせてきた言葉。

 ああ、確かにその通りだ。

「けれど──」

 意地悪な世界で生きる意味なんて見出せない。だけど結局、最後はこんな答えに行きつく。

 世界は変わらない。けれど自分の世界なら変えることはできる。

 誰しもそれぞれに抱えた不安があり不満があり、それでも乗り越えていく。

 それができるのはつまり、人の根底にある本質。根本的な願いがあるからだ。


──散々悩んで迷った挙句、人である私の『願い』は最初から決まっていた。


「ふーん、そう……」

 愛音の言葉に、魔女は目を細める。

 穏やかだった口調は豹変し、苛立ちを見せる。

「だったらいったい、どうするつもりな…のっ!」

「グリィさんっ⁉」

 目の前で再びグリィの身体が宙を浮く。

 身体を蹴り上げた感触が足の先から伝わり、思わず愛音は声を上げた。

「結局、あなたは目を逸らすことしかできない。何を思ったところで、今までの生き方を変えることなんてできない。でも、いいじゃない。それがあなた。あなたは今まで通り、あなたらしく逃げていればいい」

 鮮血が散り、力なく跳ねるグリィの姿に、目を背けたくなる。

 けれど愛音は目を逸らさず、その光景に目を向けた。

 魔女の言う通り、思い直したからって、すぐにこれまでの生き方を変えることなんてできない。

 それでも願うことならできる。

 だから愛音は願った。心の底から願いを思い描いた。

 その願いは、希望という小さな光──

 願いが強くなるにつれ、強固なものになるにつれ、光は大きくなっていく。

 暗い闇だった辺りは光に触れ、明るく照らし出されていく。

「……なっ⁉」

 魔女が驚愕の声を上げた。




「おい燻る灰、返事しろっ! 燻る灰っ!」

「うるさい……少し…黙っていろ……」

「燻る灰!」

 耳元で響くフルーフの金切り声に、グリィは飛びかけた意識をむりやり引き戻した。血の混ざった唾を吐き出す。からからと音を立てて、欠けた奥歯が転がった。

 さて、どうするか……

 返事をするのが精いっぱいで、身体は指先さえ動かすこともままならない。全身の骨はばらばらに砕け、意識を保つことさえ難しい痛みが身体中を駆け巡っている。

 地面に倒れ伏したまま、対峙する魔女を睨みつける。

 魔女の姿に、数日行動を共にした少女のことを思うが情にほだされている余裕などない。

 悠久の刻を追い続けた怨敵が目の前にいる。あとほんの少しで、この永劫の地獄に終止符を打てるのだ。

 僅かに心に浮かんだ少女への情念を振り払い、かぶを振る。身体の奥からゆっくりと息を吐き出すと、手にした剣に力をこめる。

「あと一撃…といったところか……」

「やれんのかよ、燻る灰?」

「問題ない」

 皮肉なことに、魔女から与えられた不死の身体は徐々にではあるが再生を始めている。渾身の力を使えば今度こそ身体はばらばらになるが、一撃くらいなら放つことはできるだろう。

 狙うは決定的な隙。

 それを見極め、全身全霊の一撃を繰り出すのみ。

「……ん、なんだ? おい、燻る灰」

「……」

 フルーフが怪訝な声を上げる。

 もちろん魔女を注視するグリィも、そのことには気づいていた。

 先ほどから、魔女は動きを止めている。まるで魂の抜け落ちた器のようだ。

 だがこれは、狡猾な魔女の罠かもしれない。慎重に慎重を重ね、魔女の動向を探る。

 そんなグリィの耳元に声が届いた。

(グリィさん、グリィさん……聞こえますか?)

「お前…か?」

 聞こえてくる声に、グリィは僅かに戸惑いを見せる。

 声の質こそ同じではあるが、あれは魔女ではなく数日間行動を共にした少女の声だ。

 少女はグリィに願う。

(私の身体から魔女を……この負の感情を引きはがしてください)

 言葉の意味を考える。

 グリィは軽く息を吐き、頷いた。

「死とは永遠の解放だと聞く。苦しみを抱えながら生きながらえるよりも、死によって全てを終わらせたほうが幸せ……か」

(それは違いますよ、グリィさん。私は『生きたい』……生きていたいんです)

「ならなぜ……?」

 矛盾する答えに、グリィは疑問を呈する。

 死を願うくせに生きたいという言葉の意味が理解できない。

 怪訝な顔を浮かべるグリィに少女は続けた。

(ずっと考えていました。生きるってどういうことなんだろうって。他の人たちのような普通もなくて、我慢して我慢して我慢して、諦めながら生きている私が生きる意味ってなんなんだろうって。……でもそんなこと、分かるわけがないんです。生きるということは、死ぬときになってやっと分かるんだなって)

 声はどこまでも澄んでいた。迷いはなく、まっすぐな言葉だった。

(死ぬときは、笑っていたい)

 少女は穏やかな声で、そう願った。


私の願いが、やっと分かりました──

私が生きる意味が、やっと分かりました──


辛いことから目を逸らして──

嫌なことから耳を塞いで──

境遇を嘆いて、最初から諦めて──


我慢して、我慢して、我慢して、我慢して──

逃げて、逃げて、逃げて、逃げて──

でもそれは、言い訳でしかなくて──


生きることは、自分を閉じ込めることじゃない──


いつか本当に死んでしまうときに、私の人生はなんだったのか──

その人生を誇れる自分でありたい──


(だからこそ、今を精一杯んです。最期に笑えるように)

 少女はグリィに笑顔を向ける。

「……」

 ふらふらな足を踏ん張り、立ち上がった。

 長剣を握るグリィの腕に力がこもる。その切っ先を少女に向けた。

 今こそが、待ちに待った千載一遇のチャンス。

 けれどグリィはそのまま動かず、改めて少女に問う。

「……それが、お前の願いか?」

(はい)

 その問いに、少女は力強く答えた。

 グリィは頷く。

「その願い、叶えよう」

 魔女に向けた長剣を、ゆっくりと振り上げる。

「お、おい……⁉」

 動くことのできない魔女の、くぐもった焦りの声が零れた。

 今ここに、永劫に続いた宿縁はついを迎える。だが、そこに去来する感情はない。

 何が起きたところで、何を聞いたところで、男が魔女に向ける憎悪は変わらない。

 魔女には報いを。

 そして少女には幸を願う。

 振り上げた長剣に力がこもる。そして切っ先はそのまま──




 闇が晴れ、光が包むその場所で、魔女は息を零した。

「こういう終わり方も、それはそれでまた一興なんだけどさ」

 支配から離れた身体の目を通して見る男の姿に目を向ける。

「消えられない理由が、わたしにもあるからね」

 呟く。

 振り返ると、この身体の主である少女に声を掛けた。

「あなた、このまま死んじゃうわよ?」

「いいえ、私は死にません」

 魔女の問いかけに、愛音は笑顔で答えた。

「だって私には、やりたいことがたくさんあるんです。今まで我慢していた分」

 魔女は呆れたように、ため息を吐いた。

「絶望して、絶望して、絶望して。逃げて、逃げて、逃げて。最後に行きつく感情は『生きたい』という感情。それこそが人間の本質で強さでもあるわ。あの男も見習ってほしいものね」

「人の強さはそれだけではありません。グリィさんの思いも、きっと──」

「高説を賜る気はないの。どちらにしたって、わたしには興味のないことなのだから」

「……」

「お望み通り、あなたの身体から出ていってあげるわ。あなたの呼毒すべてはもらってね。でも、わたしがいなくなったら、負の感情で凝り固まっていたあなたという存在は残ることができるのかしらね?」

 くすりと笑って、魔女は踵を返す。

「魔女の力の源は、人間の負の感情。月並みだけど、人間がいる限り、わたしの存在が消えることはないんだもの」

「あのっ……!」

 背中を向ける魔女を愛音はとっさに呼び止めた。そして頭を下げる。

「ありがとうございました。私を救ってくれて」

「……は?」

 意味の分からないお礼の言葉に、魔女は思わず愛音を振り返った。

「あなたがグリィさんにしたことは許せないし、今でも私はあなたに腹を立てています。それでも──」

 愛音はまっすぐに魔女の目を見つめた。

「私はあのまま……きっと世界に絶望したまま、救われることはなかったって思うんです。そんな私にも……絶望の中にいた私にも分かったことがあって……」

 たどたどしくはあるけれど、心から溢れ出す思いをそのまま言葉にして紡ぐ。

「今まで諦めていました。仕方がないんだって本当の心を押し込めてきました。……でも世界はそんなことはなくて。思い次第で、いくらでも変えることができるんだって……」

 まっすぐに、魔女へと視線を送る。

「私は気づくことができました。あなたがチャンスをくれたから──」

「だから『ありがとう』って? 馬鹿馬鹿しい。そんなのは単なる思い込み。わたしは本気であなたを利用した。そこに善意なんて欠片もないの。あなたの得たモノなんて、わたしには関係のないこと。見当違いもいいとこよ」

 すんっとそっぽを向いて、魔女はひらひらと手を振って歩き出す。

「最後に教えてください」

「……ん?」

「『わたしはあなた、あなたはわたし』って、あなたはそう言ってました。それって……」

「ああ」

 愛音の問いに、魔女はあっけらかんと答えた。

「単純な話よ」

 魔女は愛音に向けて、薄っすらと笑いを浮かべるように目を細めて言う。

「わたしはの」

 呆然とする愛音に、悪戯気に片目を閉じる。

「じゃあね、誰よりも世界が羨ましかったお嬢さん」

 煙のように、魔女の姿が掠れて消える。そこにはまるで、最初から誰もいなかったかのように。

 魔女の気配が消えると、完全に光が視界を覆った。

 何もかもを飲み込むかのような光の奔流。愛音の意識もまた、その光に飲まれていく。

「そういえば、まだグリィさんに名前を呼んでもらえてなかったな」

 最後にふと、そんな考えが心によぎった。

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