第12話・ワタシハ


 寝覚めはとても爽やかで、ここ数日の鬱屈とした気持ちが嘘かのように身体が軽い。蕾から花へ、蛹から蝶へと変貌を遂げたかのように、生まれ変わったような気分だ。

 部屋のカーテンを開けると、日の光が差し込んできた。冬のこの時期には珍しく、今日は晴れ日だ。

 着ている寝間着を脱いで、ハンガーにかけてある制服に袖を通す。パリっと糊のきいたシャツの感触が素肌に心地いい。スカートを普段より高めに止め、胸のリボンを襟の下に通す。ブレザーを羽織って、最後に姿見でチェックすると、唇にうっすらとリップを乗せた。

 少し焦げ目の入ったトーストをかじって「いってきます」と外に出る。エレベーターを使って一階に下り、マンションのエントランスを抜けると、両手にゴミ袋を抱えたご近所のおばさんに会った。

「おはようございます」

「あら、夢前さんのところの」

 愛音が声を掛けると、ご近所さんは驚いた顔を見せたけれど、すぐに挨拶を返してくれた。

「今から出るところ?」

「はい」と答える。

「今日はペットボトルの日だったんですね。うちもそろそろ溜まってきたから、来週あたりに出しておかないと」

「気が利く娘さんがいて羨ましいわよね。うちも主人に出掛けに捨てに行くように頼んでるんだけど、この通りよ」

 両手に抱えた袋を掲げるご近所さんに、愛音は苦笑いを浮かべる。それから二、三言、言葉を交わすと「いってきます」と頭を下げて、愛音は学校へと向かった。

「あんな子だったかしら?」と首を捻るご近所さんだったけれど、別段おかしなことではない。抱えたゴミ袋をゴミ捨て場に運ぶと、いそいそと家へと戻っていった。




 授業の合間の休憩時間は外に出るには短く、一人でぼんやりと過ごすには少々長い。教室では、気の合う友達同士のグループで会話に盛り上がっていた。

 クラスのグループは、大まかに三つほどに分かれている。

・流行りに目ざとく、お洒落好き。異性ともよく話をしている元気系なグループ。

・好きなアニメやゲームに夢中で、趣味の話に盛り上がるオタク趣味なグループ。

・人付き合いが苦手であったり、一人でいることが好きであったり、どこかクラスメイトと距離を置いている人たち。

 特に意識をしていたわけではなかったのだけれど、いつのまにか愛音はクラスメイトと距離を置いているように色分けされていた。

 これまで愛音は引っ込み思案な性格であったり、どこか他人に遠慮しているようなところもあり、周囲のクラスメイトたちも愛音に対してどう扱ってよいものか分からず、そのうち愛音のことを空気のように気にする人も少なくなった。

 授業終了のチャイムが鳴って、クラスメイトたちがいつものグループに分かれだすと、愛音は元気系のグループに声をかけた。

「それ、月9でやってるドラマの話?」

 会話が止まり、クラスメイトたちが愛音に顔を向ける。

「夢前もドラマとか見んの?」

「うん。好きなドラマの話をしてたから、気になっちゃって」

 愛音は興味深々と言ったていで頷いた。

 元気系のグループに話し掛けたのは、ちょうど話題が先日目にしたドラマの話だったからだ。

 余命僅かな捜査官と、はみ出し者の刑事がコンビを組んで事件を解決していくというバディもので、イケメン俳優の雅山まさやまとバラエティ俳優の今泉いまいずみという人気の二人がダブル主演していると話題になっている。放送前からの、キャストや物語に関するドラマの話題性も高く、特に余命僅かにも関わらず、明るい性格で優秀な捜査員という主人公の設定は、愛音の印象に強く残っていた

 そんな人気ドラマが先日最終回を迎え、クラスメイトたちはその話題で持ちきりだった。

 突然話しかけてきた愛音にクラスメイトたちは驚きはしたけれど、愛音がドラマに興味があることが分かるとそこから話は盛り上がり、話題は膨らんでいった。

「やっぱ雅山、かっこいいよね~」

「わたしは今泉さんの演技が好きだったな。最後の相棒とのお別れシーンは泣いちゃった」

 愛音が印象に残ったシーンの感想を話すと、クラスメイトたちもうんうんと頷いた。

「あ、分かる~。普段、すべったことばっかり言ってて、またいつもの今泉かって思ってたけど、あの演技は涙腺崩壊っしょ」

「そうそう。最初はあのドラマ、雅山人気一択だって思ったけど、今泉の株爆上がりだわ」

 ドラマの話で盛り上がってると、休憩時間の終わりを告げるチャイムの音が聞こえてきた。

「夢前、けっこう見てんだね。何気なにげにうちらより詳しいし」

「実はあのドラマ、原作もあるんだよ。マイナーな作家さんが書かれた小説なんだけど」

「ああ、原作専ってやつ?」

 他にも気になるドラマの話やドラマ化しそうな小説の話をすると、クラスメイトたちは興味深そうに聞いてくれた。

「やば、もう先生来るんじゃね?」

 ぞろぞろと他のグループのクラスメイトたちも自分の席に着く。そろそろ次の授業の準備もしないといけない。

「そうそう。帰り、うちらみんなでカラオケ行くけど、夢前も来る?」

「ごめんね、今日は寄るところがあるの。また今度誘ってくれる? そのときは、あのドラマの主題歌お披露目するから」

「あはは。おーけーおーけー、楽しみにしてんね」

「うん」と返事を返して、愛音は自分の席へと戻った。




 帰宅して自室に戻ると、机の上にカバンを置く。皴にならないようにブレザーだけを脱いでハンガーにかけると、そのままベッドの上に横になった。若干の疲労感はあるものの、それもなんだか心地いい。何気ない普通の一日が、今日も終わろうとしている。

 気を抜いて力を抜くと、一瞬眩暈のようなものがよぎった。

 愛音は特に焦った様子もなく、身体の調子を確かめるように手を開いたり握ったりを繰り返す。上半身だけ起き上がると、誰に向かうでもなく話し掛けた。

「不満そうね。理想通りのを演じてあげたのに」

(返してください!)

 頭の中に、もう一つの声が重なった。

「閉じ籠ったのは、あなたじゃない」

 呆れた、とばかりにそんな声に答える。

 重なったのは、自分の声。それはまるで、もう一人の自分が身体の中にいるような感覚だ。

 彼女はそのことに驚きもせず、平然と言葉を続けた。

「今日は楽しかったでしょう?」

 身体の中のもう一人に、笑いながら語り掛ける。その自信に溢れたような様子は、いつもの愛音とは別人のようで──いや、そもそもがさかさだった。愛音の意識は、一日中ずっとにあったからだ。

 愛音は自分の身体を動かす何者かにもう一度語り掛ける。

(返してください、私の身体)

 泣き出しそうな声で訴える。

 朝起きると、何もできなかった。

 身体は自分の意思とは別に動き、口は勝手に言葉を紡ぎ。それはまるで、魂が身体を離れて自分を俯瞰ふかんして見ているようでもあった。

「何処か気に食わないところでもあった? みんなのこと、受け入れてたじゃない」

 愛音の口が、意識とは別の言葉を話す。

「評判は良かったわよ。ご近所さんも感心していたみたいだし、クラスメイトのウケも良かったわ」

 身体を動かす声は、愛音の顔に自信に満ちた笑みを浮かべて愛音に尋ねてくる。

「どうだった? 理想の一日を過ごしてみた感想は」

(困ります……)

「どうして? 生きてるって感じがしたでしょう?」

(違う……)

 声に圧されながらも、愛音は気丈に答えた。

(それは全部あなたに向けられたもので……私じゃない……)

「別に構わないでしょう? 得られたものは同じなんだから。これはあなたへの祝福プレゼント。あなたは普通が欲しかったのでしょう? だったら素直に受け取りなさい」

 身体は羽のように軽い。なんでもできそうな気さえする。そんな感覚が伝わってきた。

 これは声の主が感じているものだろうか?

 けれど感覚は共有できるものの、身体は言う事をきかない。意識が身体の外にあるみたいだ。

(私は…望んでいません……)

「我儘ね。あなたができないって言うから、わたしがやってあげたのに。まあいいわ、当面この身体は、わたしが使わせてもらうから」

 あっけらかんと告げる声に、愛音は一瞬何を言われたのか分からなかった。

 なんとか気持ちを落ち着けて、言葉を絞り出す。

(……どういう…意味ですか?)

「言葉通りの意味よ。だってあなた、逃げ出したでしょう?」

 びくりと肩が跳ね上がる。

 言葉が詰まって、愛音はとっさに返事を返すこともできなかった。

 声は構わず続ける。

「そんなあなたに代わって、わたしが有効活用してあげるっていうんだから。望み通り、あなたはそこに閉じ籠っているといいわ」

(私はそんなこと、望んでいません)

「いいえ、これはあなたが望んだことよ」

 否定する愛音の言葉を声はぴしゃりと遮る。有無も言わせない圧力があった。

「現実はいつも辛いことばかり。世界は優しくなくて不公平で、努力を重ねようにも努力をすることさえ許されない。自分にとって世界は残酷だ。それなら何も見たくない。そんな世界ならいらない。……あなたは常に逃げる場所を探していたのよ」

(……)

「そんな中、ようやくあなたは逃げる先を見つけた。グリィという哀れな捌け口をね」

(グリィさんは、そんなのじゃありません)

「ううん。あなたは彼を利用した。常軌を逸した彼の世界は、この世界を疎むあなたにとって、格好の逃げ口だった」

 反論さえ許さず、声は言う。

「だってそうでしょう? 本当は、よく分からない怪物なんか見たくない。怖い思いもしたくない。だというのに、あの男に関わったのはなぜかしら?」

(それは……)

「失望したでしょ? あんなに頑張ったのに、あの男の生き方は自分が欲しかった希望こたえじゃなかった。むしろ、反対」

 生まれてこの方、これだけ自分から何かをしようと動いたことはなかったと思う。

 最初はただ怖さから逃れるために、いつものように流されるだけだったもの。けれど、いつ頃からかそれは自分の意思へと変わっていた。

 自分とはまた違う厳しい世界で呼毒を狩り続けるグリィは、彼の生きる意味をまざまざと体現しているように愛音には思えた。

 それは、過酷な困難に挑む物語の主人公のよう。

 艱難辛苦をものともしない強さへの憧れ。

 希望もない、生きる意味も分からない。こんな自分でも、しるべになるよすがが見つかるかもしれないと思ったから。

 同じようにすれば、希望を閉ざされた自分にも『生きる意味』が分かるかもしれないと期待した。その意味が分かりかけていた。

「──そう、思い込んでいた」

「ふふ」と笑って、声は続ける。

「憧れたあの男の生き方は絶望だった。物語のように綺麗な理想は存在しない。憧れは憧れ。現実はやっぱり、物語のようにはいかないの」

 心にある隙間が強引にこじ開けられたかのように、言葉がするすると滑り込んできた。

「あなたは自分の理想をあの男の生き方に押し付けた。身勝手ね。勝手に期待して、失望して。結局うまくいかないのは、みーんな他人のせい、世の中のせい。……でもそれは仕方ない。これまであなたは、そう考えて生きてきたんだもの」

(そんなことは…ないです……)

「あら、そうなのかしら?」

 嘲笑うかのような声。

「常日頃、こうも思っているでしょう? 理不尽なこんな世界なんて終わってしまえばいいって。世界がどうにもならないなら、いっそ消えてしまいたいって」

(そんなこと……)

「取り繕わなくてもいいわ。あなたの中にいたのだから、その絶望は伝わってきたもの。それはとろけるくらいに濃厚だったわ。まるで数百年寝かせたフルボディのワインのよう」

(……)

「別に責めているわけではないわ。あなたの考え方を否定するつもりはないの。人は誰しも、好意に興味を持ってもらえなければ敵意を抱くもの。世界があなたに興味を示さないのなら、その気持ちは当然だわ」

 責め立てながら、それでも全てを受け入れて包み込むかのような優しい声が言った。

「安心して。わたしが全て引き受けてあげる。苦しかったのでしょう? もう疲れたのでしょう? 生きる意味が見出せないのなら、無理に固執する必要もない。怖いのなら、そこで大人しくしていればいい」

(でも私は……)

 流されそうな気持ちに、かろうじてせきをした。声に綴られる認めたくない自分の嘘の中に、僅かばかりの本当もあるのだ。

 彼の目的はどうあれ、自分の理想がどうあれ、彼の強さに憧れた。

 グリィは自分とは比較にならないほどの、不条理な運命を背負っている。それが永劫に続くというのは、どれほど過酷だったというのだろうか?

 彼の境遇と比べるのは烏滸おこがましいと思う反面、やはり愛音は自分の境遇と重ねていた。そして、その強さを自分も欲しいと思った。

 だからグリィの願いは、そのまま自分の願いに繋がっていた。

「それは本当に、あなたの願い?」

(そう思っています)

 声の問いに、愛音は力強く頷く。

「あらそう……。でも残念ね。だったら尚更、あなたにその願いは叶えられないわ」

(そんなの分かりません)

「あらそう? あなたが本当に望むのなら、わたしはあなたの中から出ていってもいいわ。どうせあなたは抵抗するでしょう? むりやりあなたの意思を抑え込んで身体を動かすのって、けっこう疲れるのよ」

(だったら……)

「でも、それじゃあどうやって、あなたはその願いを叶えるの? わたしが出ていったら、あなた、まともに動けるの?」

 愛音は、はっと息を呑む。

 あえて気が付かないように、意識はそこから逃げていた。その自覚はあった。

「考えてもみなさい。あなたがこの世界を儚む理由」

 無茶をしていることは、重々承知していた。それでも身体は思った通りに動いてくれて、まるで自分の思いに応えてくれたかのようだった。グリィの役に立てている──さすがにそこまでは思わないけれど、足手まといにならないくらいには、なれているのではないだろうか? そういう自信にも繋がった。

 けれど、そこがもっとも単純で大きな矛盾だったのだ。

 頭から追い出していた。

 自分の身体が、医師でさえ匙を投げたほどに脆弱だったことを。

 人は気力を振り絞って力を得ることができる。そんな話はよく耳にするけれど、それはしょせん「そうあれば」と望む理想で、燃えつきる前の蝋燭のようなもの。

 医師の診断は覆せない真実で、その範疇を超えるというのなら、それはまさに奇跡というより他ない。奇跡は起こることがないから奇跡という。そのことを愛音は十分すぎるほど知っていた。

 愛音の心情を察したのか、声は愛音の顔でにやりとする。

「はっきりと言葉にしましょうか? あなたはなんの役にも立てない。わたしが出ていけば、はっきりと気が付くはずよ? あなたの積み重ねは、すべてわたしの恩恵があってのこと」

(それは分かっています……、でも……)

「その気持ちだって、ただの自己満足。そうすることで自分の存在意義を得たいだけ。あなたは空っぽの器。どうせ何かを頑張ってみたところで、本当に叶えたい自らの願いなんて、空っぽのあなたにはないのでしょう?」

(だからこそ、私は──)

「あの男の役に立ちたいって? ふふん、それこそ勘違いでしょう。そもそもあなた、大切なことを忘れていない?」

(大切なこと……?)

「わたしはあなたの願いを叶えてあげた。『死にたくない』っていうあなたの願いをね」

(それは……)

「それともわたしを追い出して、やがて来る死に怯えて暮らす? わたしはそれでも構わないわよ。選ぶのはあなた」

 選択するまでもない。声の主は知っていたのだろう。

「もし、本当に死にたくないと願うなら、わたしに身体を委ねなさい。従っている限り、あなたは死なないわ」

(あなたは、誰?)

「そうね……」

 声は少し考えて、

「しいて言うなら、わたしはあなた。あなたはわたしよ」

 禅問答のような答えを返す。

「望めば何かが手に入る、そんなに世界は優しくないの。こんなこと、わたしに言われるまでもないんじゃない? 生きることは我慢をすること。あなたは知っていたはずよ?」

(私は……)

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