第5話・呼毒

『なにもたもたやってるのよ。レジに並ぶなら小銭くらい先に用意しときなさいよ』

『くっそー。なんだよ、あのクソ担当。あの会社、早く潰れてくんねーかな』

『は? なんで俺ばっかり注意するんだよ。同じことやってる奴なんて他にもいるだろ』

『あの若造、立とうともしない。ここは優先座席だ。年配に席を譲るのが当然だろう?』

『ちょっと邪魔なのよ。そんな所に突っ立っていられたら、通れないじゃない』

 エトセトラ、etc.……

 好きにそんな言葉を面と向かって放つ人はいないし、そんな気持ちが沸き起こったとしても、心とは裏腹の仮面を被ったままに心の内だけに留める。それが人の社会という群れの中で上手く生きていくためには必要なことで、考えるまでもなく当たり前の行動。

 少なくとも、そうすることで無用な争いは避けられるし、余計な反感を買うことがないということは、誰しもが理解はしている。

 早朝。

 通学に通勤に、街を行き交う人々の様相は普段と変わらない。たとえ心にもやもやを抱えていたとしても、それを表に出すこともなく。

 だから普段なら感じないそんな苛立ちや悪意を、けれど愛音はそんな負の感情たちに、耳を塞いで駆けだした。




 放課後を告げるチャイムが鳴った。

 授業を受けている最中も、お昼休みの時間も。学校にいる間でさえ直接頭の中に響いてくるかのような負の感情の声たちは聞こえていた。

『なに男の前でだけ可愛い子ぶってんだよ。普段は全然ちげーだろ?』

『結局、顔かよ。あーあ……、俺ももっと格好良かったら人生楽しいのに……』

『あのエロ教師、マ・ジ・で・くたばれっ! 調子くれてんじゃねーぞ』

『は? 成績が悪いからって何? 学校の授業なんて、社会でくその役にも立たねーだろ?』

 別に自分に対して向けられた悪意ではない。けれど誰かに向けられるその感情は決して快いものではなく、まるで自分がそう思っているかのような錯覚に捕らわれる。

 そんな負の感情たちから逃れるように身を縮めていると、現実から居場所が失われていく気がして怖かった。

 すぐにでもこの場所から離れたい。けれど逃げ場なんて限られている。

 人がいるところであれば、この声は聞こえてくるし、心の中へと入り込んでくる。ならば結局、人を避けて閉じ籠るより他はない。

 重い気持ちで愛音が帰り支度をしていると、遠慮がちな声が掛けられた。

「あの……、愛音……」

「水瀬……」

 暴漢に襲われた、あの出来事から数日。

 久しぶりに会った水瀬の声はどこか余所余所しく感じる。それは愛音も同じで、水瀬に対してどのような態度をとって良いのか分からず、しばらく気まずい時間が流れた。

「えっと……、身体、大丈夫だった? 学校休んでたから、心配だったって言うか……」

「うん、私は平気……」

 精一杯の強がり。

 思えば、あの出来事が気が付くきっかけになったのかもしれない。

 自分の身の回りに不思議なことが起こっていて、愛音は言い出すことのできない不安に苛まれていた。

 初めは気のせいかな? と思えるくらいのわずかな囁き声だった。

 けれど数日前から聞こえだした、この負の感情の声は日を追うごとに大きくなり、ついにははっきりとした声として聞こえてくる。

 聞こえてくる感情の声。そのことを医師に持ちかけてもみたのだけれど、結局は理由も分からず、事件のショックがもたらした精神的な負荷、と診断された。

 きっとそれは、いくら専門の医師だったとしても、経験した者にしか理解はできない苦痛。だからこの苦痛は、誰にも理解してもらうことはできない。

『生きるためには、我慢しなければいけない……』

 いつも心に言い聞かせるときの呪文。

 そっと呟き、愛音は努めて平気な声で返した。

「怪我をしたのは水瀬でしょ? 水瀬のほうこそ大丈夫なの?」

「あたしは……平気。怪我だってちゃんと治療したし、だから、大丈夫……」

 ぱたぱたと振る手が痛々しい。

 両手にはしっかりと包帯が巻かれ、あの出来事が夢ではなかったことを伝えている。

 水瀬ならひょっとして、という思いもあったけれど、それを確かめるのが、やはり愛音は怖かった。

 言葉の間のちょっとした沈黙。

 水瀬は他に何か伝えたいことでもある様子で、何かを言いかけるたびに言葉を飲み込み、別の言葉を探すように俯く。

 察して、愛音は告げた。本当に優しい友人なんだな、と心から思う。

「ありがとう」

「……え?」

「この前、水瀬が誘ってくれて、本当に嬉しかった」

「あ……」

 ただ、一言。

 その一言にほっと大きな息を吐くと、水瀬は憑き物が落ちたかのように脱力した。きっと水瀬のことだから、事件に巻き込まれたのは自分のせいだ、なんて思い詰めていたのだろう。

 水瀬が長年自分のことを見てくれていたように、この友人の考えることであれば、愛音もなんとなく想像がつく。

 水瀬は照れたようにはにかむと、いつもの笑顔をのぞかせた。

「とにかく、愛音が無事で良かった。じゃあ、あたし部活に行くから。……また、明日ね」

「うん、また明日」

 別れの挨拶を交わして水瀬が教室から出ていくと、愛音はまた不安の中へと引き戻された。




 足早に帰路を急いだ。

 街中は人通りが多く、それに比例して聞こえてくる負の感情も多くなる。大きいもの、小さいもの。はっきりしているもの、薄ぼけているもの。聞こえてくるだけではなく、その感情は目にも飛び込んでくる。

 暗く浮かび上がる闇のもや。はっきりと形を成さないもやもやとした闇は、先日の出来事を思い起こさせる。

 路地裏で愛音たちを襲った男に、まるで絡みつくように纏わりついていた暗い闇。

『目をこらせば、どこにでも転がっている』

 そんな言葉を聞いた気がする。

 人の集まるところには、まるでそこにあるのが当然であるかのように、そこかしこに闇の靄は漂っていて、けれどその靄に気づいている人はいない。

 誰にも気に掛けられもしない存在。その存在が、自身に向けられる怯えの視線に気が付いたのだろうか。闇は身を竦ませる愛音を目掛けて、まるで遊んでくれとでも言わんばかりに向かってきた。

『いい格好ばかりで調子に乗りやがって』

『なんで私じゃなくて、あいつなのよ!』

『ずるいずるいずるい。あの子ばっかり依怙贔屓えこひいきして』

 闇の靄は、吸い込まれるように愛音に纏わりついてくる。纏わりつかれるたびに負の感情が、声が頭の中で響き、心が重さを増す。

 必死に手で払いのけようとする。無駄な足掻きだとは分かっていつつも、愛音は耳を塞ぎ、目を瞑り、闇から逃れようと駆けた。

 やめて……

 やめてやめてやめてっ!

 そんなもの見たくないっ! 聞きたくないっ!

 私の中に、入ってこないでっ!

 助けて、助けてっ!

「天使さまっ……」

 救いを求める呟きが、意図せずして口から溢れた。

……………………

…………

……




「……ん…んうぅ……」

「お、やっと起きたよ、この娘」

 背中にひんやりと、固い感触を感じて薄っすらと目を開ける。

 耳元で聞こえてくる声に、ぼんやりと目をやった。頭ははっきりとせず、意識の半分はまだ眠りの中にいるかのように感じた。

「呼毒の集まる気配を辿って来てみれば……。お前か」

 いたずらな女の子の声に続いて、抑揚のない低い声。

 はっと息をのむ。すぐさま意識がはっきりとした。

 待ち望んだ救いがそこにあるかのような気がして、愛音は声を詰まらせる。

『天使さま』の姿があった。

 は愛音を一瞥すると、ふらつくように立ち上がる。男のぎこちない動きに、とっさに愛音は声を掛けた。

「あ、待ってください。その怪我……」

「ん? ああ、これか……」

 男の白い肌に浮かび上がる赤黒い痕は生々しく、今も尚、幾重もの筋を滴らせている。一目見て重症だと判断できるその傷で、動くことができるなど到底考えられない。

 けれど男は、大して気にした素振りも苦悶のかおも見せず、僅かに息を吸い込むと静かに目を閉じる。刻まれた傷が、ゆっくりと塞がっていった。

「傷が…治って……」

「あはははは。だからって、調子に乗ってるからそんな怪我しちゃうんだよ~」

「不死…者……?」

「怖いか? なら逃げたらどうだ?」

「い、いえ……、そんなことは……」

 恐怖は感じない。

 けらけら可笑しそうに笑う妖精さん(たしか『フルーフ』と言っただろうか)のからかう声を無視して傷の治療に集中する男に、愛音は目を奪われていた。

 得体のしれない暗い闇の群れに追いかけられたことを思えば、たとえ目の前の妖精さんを従えた『天使さま』が死なないと言われたところで、信じられない話だとも思わない。

「そういえば、私……」

 だいぶ落ち着きも取り戻し、改めて辺りを見回してみる。

 剥きだしたコンクリートの冷たい床と壁に囲まれた一室。使われなくなった、どこかの雑居ビルらしい。積もった埃が久方ぶりの人の侵入で舞い上がり、西日を受けて輝いている。

 不意に街中での恐ろしい体験が呼び戻されて、愛音は震える自身の身体を押さえつけた。

「アンタ、あっちで倒れてたんだよ。たーっくさんの呼毒に寄ってこられてさ。でも感心だね~。あれだけの呼毒にたかられて、まだ壊れてないなんてさ~」

「また、助けられたんですね……。そうだ、二度も助けてもらったのに、まだお礼も言えてなくて」

 愛音ははっとして、おずおずと白い男を見上げた。

「私……、夢前愛音といいます。助けていただいて、ありがとうございました。その……、天使さま……」

「天使? 天使さま~?」

 男をどう呼べば良いのか分からず、心の中でずっと呼んでいた呼び名を口にする。とたん、フルーフは堪えきれないかのように噴き出すと、腹を抱えて笑い出した。

「天使さま、天使さまだって~。あはははは! 聞いた、燻る灰~?」

 よほど可笑しなことでも言ってしまったのか、フルーフは一頻ひとしきりその場で笑い転げると、涙目で愛音に向き直った。

「燻る灰に名前なんてないよ。ただの燃えっカスの敗北者。その癖、復讐心なんてもので、いつも身を燻らせているのさ。天使さま……ぷっ…うぷぷぷぷ! 燻る灰はなんの救いも与えない、得られない。燻る灰Grisがお似合いさ」

「……Gris? ……グリ? グリィ…さん?」

「呼び名なんてどうでもいい。もう会うこともないだろうからな」

「でも……」

 どこか他所の国の言葉だろうか? 言葉の発音は難しく、愛音は口の中で数度、その言葉を転がしてみる。結局、愛音は彼のことをすわりの良い『グリィ』という名で呼ぶことにした。

 白い男──グリィはその呼び名にさして反応も示さず、話を進める。

「俺は、俺の目的を果たすだけだ。助けただなんて思ってもいないし、お前も気にする必要はない」

「目的……?」

「お前には関係ない」

「ご、ごめんなさい……」

 ぶっきらぼうに言われて身を竦める。それでも愛音は、まだ会って間もない、正体も知れない男に縋りついていた。

 唐突に降りかかった問題は訳も分からず、自身で解決するにはあまりにも絶望的で、あまりにも現実の常識では測れないことだ。

 混乱していた。不安、恐怖…いろんな感情が綯交ないまぜになって、愛音は堰を切ったように溜め込んでいた思いを吐いた。

「あなたはいったい何者なんですか? 呼毒って、いったいなんなんですか? 暗い、闇の靄が見えるんです……。いろんな人の感情が聞こえてくるんです……。でも、誰も気にしていなくて。なのに、私には──」

「あはははは! そんなの簡単じゃん。そりゃ、アンタ自身が──いったぁ~~いっ!」

 ガキンッ、と金属が響くような音と悲鳴。

 頭を押さえるフルーフを無視して、グリィは息を吐き、無感情に愛音に告げる。

「どこにでも転がっているが、誰も見ようとはしない世界……。だが、お前はこの世界を見ようとした」

「そんなことは……」

 ない、と言い切れるだろうか?

 この世界は理不尽だ。

 生まれ持っての障壁は高く、その事実を隠すようにさらに壁を作ってきた。自分の殻に籠り、希望や願望を見ないことで、平気な自分を装ってきた。言い換えれば、理由をつけて逃げ込める世界を探していたのだ。

 でも本当は、それが自分の本意ではないことも分かっている。

「悔しい、悲しい、憎い、妬ましい。人が普段、自制の心で抑えつけている感情。だが、それを大きく育てすぎてしまえば、人はその感情に呑み込まれ、操られる。そして、それを糧とし増長させる者も存在する。俺の目的は、そいつを……『魔女』を見つけ出すことだ。奴には借りがあるんでな」

「魔女……?」

「これだけ聞けば充分だろう? 今のお前にできることは、見なくてもいい出来事などさっさと忘れて、自分のいるべき場所へ戻ることだ」

 踵を返して、今度こそグリィは雑居ビルの表へと足を向けた。

 弱々しい声が、背中を呼び止めた。

「……私は、どうすればいいんですか? 忘れろって言われても見えるものは見えるし、聞こえるものは聞こえる。それに、また襲われたら……」

「呼毒は心の在り方だ。自分の心をしっかりと保っていれば、微弱な呼毒などに捕らわれはしない」

「でも……」

 足音が遠ざかっていく。

「待って、まだ聞きたいことが──」

 応える声はない。

 呟きは、掠れて消えた。

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