第4話・白銀

 その白い男は、振り下ろした剣を二、三度ばかり露を払うように振うと、すらりと背中に納めた。鞘に納めるには大ぶりな剣は抜身のまま、長身な男の背中でも尚、存在を主張するかのように、昏い輝きを放っている。

 辺りはただ、先ほどの喧騒が嘘だったかのように静寂のみが支配していた。

 目の前で起こった出来事に理解が追い付いていかない。そんな愛音を一瞥することもなく、まるで何事もなかったかのように、男は踵を返す。

 愛音は戸惑いのまま、立ち去る男の背中に向かっておずおずと声を出した。

「……あの…あなたは……」

 男は何も答えない。

 愛音は恐々と、自分の傍らのにちらりと目を向けた。

「……この人、死んでしまったん…ですか?」

 襲い掛かってきた暴漢の身体から湧き出すように纏わりついていた暗い靄は消え、怪物のように見えていた姿は、いつの間にか人の形をとっていた。

 注視することができず、愛音はすぐに目を逸らす。

「心の内に宿す『呼毒こどく』には逆らえない」

 遠ざかる足音が止まると、独り言を呟くかのように低い声が答えた。

「根が深ければ深いほど、それは癒えることがなく、まるで自我を持っているかのように膨れ上がり、やがては己の身を亡ぼすことになる。人間は、愚かで脆く、そして弱い」

「……『呼毒』? あの、のことですか?」

「あれは、のモノじゃない。目をこらせば、どこにでも転がっている」

 それ以上の言葉はなく、そのまま立ち去ろうとする男に向けて声を振り絞った。

 一刻も早く、この場から抜け出してしまいたい。反して、まるでこの状況を引き留めておきたいと感じている自分の心に、愛音自身も驚く。

 今度は強く、言葉を出した。

「あ、あの、助けてくれて…ありがとうございます……。その……」

「助けたつもりはない。を果たしただけだ」

 恐ろしいという気持ちもある。けれどそれ以上に、愛音は胸の高鳴りを感じていた。

 聞きたいことが、たくさんある。けれど何が聞きたいのか、自分でも分かっていない。

 でもその答えが、昔から決まった回答とは別の答えを与えてくれそうで……。そんな予感が愛音を突き動かしていた。

「はぁ……、どーすんの? 燻る灰~」

「きゃっ⁉」

「うわっ⁉」

 驚きの声が重なった。

 突然聞こえた面倒くさそうな女の子の声に、愛音はびくりと身を竦める。

 物珍しいモノでも見るかのような瞳が、愛音を見つめた。

「びっくりした~。アンタ、アタシの声が聞こえるの? ねーねー燻る灰、コイツ、アタシのことみたいだよ」

「そのようだな」

「呼毒も見えてるみたいだしぃ、これはやっぱり決まりだねぇ~。ここはもう、スパッと殺っちゃって──」

 ガキンッ、と金属が響くような音がして、同時に悲鳴が上がった。

「いった~~~っ! 何するかっ‼」

「少し黙っていろ」

「ぶぅ~~!」

 目の前でのやり取りに、愛音は目を見張った。それはとてもものだった。

 愛音を見下ろす視線は悪戯な色を見せ、あるじと愛音の間を忙しなく行き来する。小さな軌跡が闇に踊った。

 異国の剣士と小さな妖精さん、そんな話は子供の頃から幾度となく目にしたもので、けれどそれは、現実では決してあり得ない、物語や少女の想像の中だけの世界。その想像と現実の境界がぶれたような感覚に、愛音は戸惑いとも驚きともつかない声を上げた。

「あの…この子は……?」

「この子ってなんだ、この子って! アタシはアンタなんかより、ずーっと永く生きてんだぞっ! 子供扱いすんなっ‼」

「ご、ごめんなさい……」

 怒鳴られて、思わず頭を下げる。

 目の前のは宙に浮いたままふんぞり返ると、居丈高いたけだかに告げた。

「アタシは『フルーフ』。名だたる聖剣も魔剣も及びもしない伝説(になるかもしれない)の剣なんだから。よーく覚えておきなさい!」

「剣……?」

 言われた意味が分からず、愛音は疑問を声にする。

 男は立ち去る足を止めて愛音を振り返ると、かちゃりと剣を抜き、その切っ先を突き出した。

「こいつは、この剣の意識体……というものらしい。おまけみたいなものだ」

「おまけってなんだよ! おまけって‼ アタシがいないと、呼毒も斬れないくせに」

「それって……」

「呼毒を剣……。それ以外のモノは傷一つつけられんナマクラだ。安心しろ」

 愛音が、先ほどから傍らの暴漢が視界に入らないように努めていたことを察したのか、男はぶっきらぼうにそう告げる。

 斬り伏せられた暴漢は、それ以上襲い掛かってくる様子もなく、ぴくりとも動く気配はない。まるで魂が抜き取られてしまったかのように、今は呆然と虚空を見つめてへたり込んでいる。

 たしかに、暴漢は目の前の男に剣で斬られた。けれど外傷らしい外傷は一切見当たらない。刃物で斬られた形跡すらない。

 心ここに在らず、といった様子ではあるものの、暴漢は生きている様子だった。

「呼毒を……食べる……」

 愛音はちらりと暴漢のほうに視線を向け、ほっと息を漏らすと、再び白い男を伺い見た。

「あなたたちは、その……、呼毒というものを退治しているんですか?」

「きりはないが、目的を果たすには一番手っ取り早いからな」

「そうそう。にはそれが──痛い……」

 再びガキンッ、と金属を打ち鳴らすかのような音。

 頭を押さえるしぐさをするフルーフを無視し、男は無関心に告げた。

「人は誰しも、その心に負の闇を宿している。あいつが目障りだ、気にくわない、憎い、殺したい……。妬み、そねみ、憎悪……。そうした感情は、大小に関わらず歪みを生み出す。呼毒…ある意味、お前の言うように人の心が生み出すだ。呼毒が大きく育ち、呑み込まれれば、人は災いを作り出す。……人が存在する限り、呼毒がなくなることはない」

「そこっ! 何をしているっ‼」

「……え?」

 遠くから聞こえてきた呼び声と複数の足音に、愛音は急に世界が一転するような感覚を覚えた。ひどく懐かしく感じる声がする。

「愛音ーっ! 無事なのーっ⁉ 今、警察の人呼んできたからーっ!」

「水瀬……」

 一陣の風が吹いたような気がした。

 振り返るとそこにはもう白い男の姿はなく、先ほどまでの出来事が夢だったかのように闇が広がるだけ。

「あ……」

 とたん、身体からふっと力が抜け落ちた。

「ちょっと愛音、大丈夫? 愛音っ!」

 友人の心配する声とサイレンの音が、どこか遠い世界の出来事かのようで、そのまま愛音の意識はゆっくりと微睡まどろみの中へ落ちていった。




今、目の前で起きた出来事は、まるで、この前見た夢の続きのようだった。


月に輝く、銀糸のような白銀の髪──


夜闇に浮かぶのは、鮮血をしたたらせたような深紅の瞳──


透き通った肌は、まるで白磁器のよう──


彼の姿が、はっきりと胸に焼き付いている。

そのまま彼は、一陣の風と共に去っていってしまった。

結局、私の中に残ったのは──およそ信じることのできないだった。

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