第6話・決意

突然の死刑判決──


聞こえてきた言葉は私にとって、それくらい重たい言葉だった。


あの日──

検査入院で検査を受けていた私は、医師と両親とが話している内容を聞いた。


私の病気は治らない──


生きる意味もまだ分からない私は、それでも僅かな拠り所と、病気が治ることを信じて、我慢を重ねて生きてきた。


けれどその望みも頑張りも、飴細工のように脆く砕け散った。


気が付けば私は、夜の街を駆けていた。

頭の中はぐちゃぐちゃで……。何もかも忘れたい一心で、辛い現実から逃げ出した。

私には、生きる理由も希望もない。

今まで我慢して、我慢して我慢してきて……こんな顛末てんまつ

この世界に神さまなんて、いない──


……そんな私の目の前に、突然現れたのが『天使さま』だった。




「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……」

 止まって呼吸を整える。

 周りを漂う闇の靄は、愛音の様子を窺うように、付かず離れずを繰り返す。

 何体かの小さな闇が、愛音の視線を縫うように躱して身体に纏わりつく。そのたびに負の感情が心の中にみ渡っていくかのように感じるけれど、なんとかその意志で振り払うことができた。

 心は、身体はそれでも重い。けれど初めて呼毒を目の当たりにしたときに比べれば、僅かにではあるけれど、恐れの気持ちは抑えることができた。


『呼毒は心の在り方だ。自分の心を強く保っていれば、微弱な呼毒などに捕らわれはしない』


「だったら……」

 一呼吸おいて、愛音は大きく息を吸い込むと、闇を迎え入れるように両手を広げる。闇の靄が、愛音に吸い込まれるように向かってくる。

「付いてきてっ!」

 踵を返し、愛音は駆けだした。

 街の通りを抜け、路地裏へと足を踏み入れる。人通りを避けて、遮二無二しゃにむに駆けた。

 闇の靄は数を増し、大きさを増し、ゆっくりとではあるけれど、愛音に追い縋ろうと迫ってくる。

「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……!」

 呼吸が苦しく、身体が重い。

 まだ少し走っただけ……。けれど足はまるで鉛を付けられたかのようでいて、踏み出す一歩がなかなか前へと進まない。

 懸命に駆けているつもりだったけれど、現実は思っていたほど上手くいかず、身体の弱い愛音にとって、僅かな距離を全力で走るという行為すら、高い山を登るかのような苦労があった。

 後ろから迫ってきた闇の靄が、耳元を掠める。そのたびに、悪意の声が頭の中で囁いた。

 溢れだしそうな涙を堪えて、愛音は縺れる足に力を込めた。もう少し行けば、目的の場所に辿り着ける。

 やがて視界の先に、一棟の廃ビルを捉える。

 安堵の息が漏れた途端、がくりと膝から力が抜け落ちた。

「あっ……」

 勢いのまま、その場に倒れ込む。

 身体に走る痛みとともに、僅かに見せた心の隙間。

 そんな隙間を見逃さず、我先に、と獲物にたかる獣の群れのように闇の靄が飛び込んでくる。

「……っ!」

 愛音は、ぎゅっと目を閉じた。

 身体を抜け、頭に響き、心に入り込んでくる負の感情。重くのしかかり、心が、身体が蝕まれていくようで、意識が遠のいていく。けれどそれは一瞬のことで、すぐに悪意の重みは薄らいだ。

 ぶんっ、と風を薙ぐ重たい音。

 愛音はゆっくりと顔を上げ、今度こそほっと大きく息を吐いた。

「……グリィ…さん」

「言ったはずだ。呼毒がどういったものなのか」

 大ぶりな剣を背中に納め、呆れたため息を吐くグリィに愛音はおずおずと、けれどはっきりとした意志で答えた。

「だから、呼毒が集まってくるように願いました……。グリィさんに、会うために」

「……なに?」

「迷惑だってことは分かってます……。こういうやり方は、卑怯だってことも……」

「付き合いきれん。心の在り方次第だとは言ったが、あえて呼び寄せるなど馬鹿らしいにもほどがある。助けが来る保障なんてどこにもない」

「でもグリィさんは、こうして来てくれました。……ううん、本当はずっと気に掛けてくれていたんですよね?」

 呼毒に追われる最中さなか、悪意の籠った感情とは別に、愛音はこちらを覗うような視線を感じていた。どこか冷たくもあり、虎視眈々こしたんたんと獲物を狙う猛禽のような鋭さがある。その視線は数日も前から、愛音の周りに集う闇へと向けられていたのだ。

「……」

 くだらない。

 無言の言葉を残してグリィは背を向ける。

「私にっ!」

 立ち去る背中に愛音は精一杯の声を上げた。

「私に、グリィさんのお手伝いをさせてください」

「お前には関わりのないことだ。余計なことに首を突っ込んだりせず、引き返せ」

「引き返せって言われても、引き返せるわけなんて…ありません……」

 愛音は唇を嚙む。

 だいぶ薄ぼけてはいたが、それでも大小様々な闇の靄が、今にも襲い掛かってきそうな様相で辺りを漂っている。

 一度垣間見てしまったは恐ろしく、忘れろと言われたところで頭から消えてなくなるわけではない。

 どんなに心を強く持とうとしたって、人はすぐに強くなれるわけはなく、そんな思いに呼毒は集まってくる。

「そ、それにさっき試してみましたけど、私は呼毒を呼ぶことができるみたいです。呼毒を消していけば、グリィさんが追う魔女に辿り着けるんですよね? だったら私、きっと役に立ってみせますから」

「お前が思うほど簡単なものじゃない。邪魔になるだけだ」

「でも……」

「分かったのなら、帰れ」

「嫌ですっ!」

 しつこく縋りついた。

 引っ込み思案で、これまで『我慢をすることが生きるためのルール』だとしてきた愛音には、きっと初めてのことだ。

 けれどそんなことを考える余裕は今の愛音にはなく、ただ不安に抗おうとする人の本能だけに突き動かされていた。

「私だって、本当はこんな世界に関わり合いたくはない! でも耳を塞いで…目を塞いでいても、逃げることなんてできない。このまま逃げ続けて、怯え続けて生きていくなんて……」

 天使さまに縋った。

 救いを求める祈りのように、ただひたすらに願った。

「お願い…グリィさん……。私を…助けてください……。お願い……」

「忠告したはずだ。自分を保てなければ、また呼毒に呑まれるぞ」

「お願い……します……」

「……」

 長い沈黙。

 やがて男の声が、呆れたような諦めの言葉を漏らした。

「勝手にしろ」

「……グリィ…さん?」

「手伝いたいと言うのなら、勝手にすればいい。だが後悔することになったとしても、俺は知らん」

「ありがとう、グリィさん……。ありがとう……」

 聞き届けられた祈りに、少女は涙した。

 フルーフが小声で囁く。

「ねーねー燻る灰、ホントにいいの? あの娘に手伝わせちゃったりしてさ」

「やりたいと言っているんだ。好きにさせればいい」

「でもさ、そんなことしたら、あの娘……」

「結果が変わるわけじゃない。ただ早いか遅いか、というだけだ。それにあの手のやからは……」

 グリィは遠く、追憶の世界に意識を馳せる。

 無機質な男からほんの一瞬だけ、何かを懐かしむような苦い嘆息が漏れた気がした。

「やめろと言われて、素直に言うことを聞く玉でもないさ」

「ふーん。ま、燻る灰がそれでいいって言うんなら、いいけどね~」

「……」

 グリィは答えず、愛音から視線を逸らした。

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