第2話・救い
報われない者は何をやったって報われない。世界はこんなにも不公平なのだ──
その日、私はそう思い知らされた──
小さい頃から幾度となく入退院を繰り返し、ただ漠然と過ぎていく日々──
生きるという意味さえ分からなくなってしまったのは、いつの頃からだったんだろう──
そんな私を、神さまが少しは哀れんでくれたのかもしれない──
私は、『天使さま』の夢を見た──
「……うん、問題はないね。脈拍も正常。二、三日もすれば、容体も落ち着くだろう」
初老の医師は、少しの問診をしたのちに聴診器から耳を離すと、にこやかな笑顔を浮かべた。
「ありがとうございます……」
そう、抑揚なく返事をすると、
初老の医師の
幼い頃は、それこそ「おじいちゃん先生」と呼び、毎週一度は検査することになっているこの町医者への通院にも、愛音なりの楽しみを見出していたのだ。
もちろん今でも、この医師が愛音にとって、頼れるおじいちゃんであることには変わらず、医師のほうも、愛音を本当の孫かのように可愛がってくれている。
数少ない拠り所。けれど最近は、その気遣いが少しだけ重荷に感じてしまうこともある。
「それにしても愛音ちゃん、どうしてあんな無茶をしたんだい? 大学病院の
「すみません……」
「ああ、責めるつもりはないんだ。ただ、心配だっただけなんだよ。きみの身体のこともあるのだし、無事でいてくれたらそれでいい」
心配させてしまったというのも、至極当然のことだ。
検査入院していた患者が勝手に病院を抜け出し、
なんであれ、咎められても仕方がなく、いろいろと迷惑をかけてしまったことには変わりない。
「もし何か、悩みを抱えているのなら話してくれると嬉しいね。私で良ければ、いくらでも相談に乗ろう。さて、それじゃあ今日の分の薬を処方しておくよ。いつものように、処方箋から受け取ってもらえるかな」
机に向き直り、診察内容をPCにまとめる医師に、愛音は呟くように口にした。
「……私の病気は治りますか?」
その言葉は答えを求めるためのものではなく、ただ、口から漏れ出た言葉だ。
愛音の言葉に、キーボードを打つ指先をほんの僅かに止めると、医師は何事もなかったかのように再びキーボードをたたき始めた。
「もちろん、きみは必ず治る。愛音ちゃんは安心して、私たち医師に任せてくれればいい。ほら、それよりも今から学校に行くんだろう? のんびりしていると、午後の授業まで終わってしまうよ?」
「はい……。ありがとうございます」
愛音は無理やりな笑顔を作ると、モニターに顔を向けたままの医師にお辞儀をして、診察室を出た。
授業の終了を告げるチャイムの音が流れると、教室はにわかに活気づく。
ときおり窓を鳴らす冬風のざわめきも、生徒たちの高揚感に圧されて大人しく感じた。
特に冬休みやクリスマス、年末行事など、冬のイベントが目白押しなこの月には、放課後の話題にも事欠かない。
わくわくと醸し出す周りの雰囲気も相まってか、放課後の予定を話す生徒たち、部活の準備に勤しむ生徒たちも、普段より浮かれているかのように感じられる。
それは別段おかしなことでもなんでもなく、愛音と同じ高校生の年頃の少年少女であれば、至極当たり前のこと。
「……」
異郷の国にでも取り残されたみたいだな……
心を躍らせたクラスメイトたちの様子を横目に、手早く鞄の中に荷物を詰め込むと、愛音は避けるように窓の外へと視線を向ける。
手を伸ばせばすぐに届きそうなそれは、けれど、目に見えないぶ厚い壁に遮られていて……
望んでいても絶対に手の届かない宝物を目の前で自慢されているようで、愛音にはそれがとても苦々しく思えた。分かっている。これは完全に
そそくさと帰り支度を整え、賑わう教室を後にする。その矢先に、真後ろから愛音に声が掛けられた。
「あ~い~ねっ」
「……水瀬?」
声を掛けてきた
週に決まって病院通いをしていて、さらには引っ込み思案な性格も影響していたためか、愛音に友人と呼べる友人はなかなかできなかった。
遊びたい盛りの子供たちにとって、愛音は付き合いづらく、面白みもない。一人、また一人と、愛音の周りからは人が離れていく。
もちろん、いじめを受けているということではなく、気さくに愛音に話し掛けてくるクラスメイトはたくさんいる。けれど例えば放課後、どこかに一緒に遊びに行こうと誘い掛けてくる友人はいなかった。
そんな中、昔から変わらない態度で接してくれる友人が水瀬だった。
周りの人間が愛音に気を使って遠巻きになる中、水瀬だけはずかずかと、愛音が無意識の内に張っている心の境界を易々と踏み越えてくる。
それが遠慮のなさ故のことなのかは分からないけれど、愛音にとってそれは、くすぐったく、まるで小さい頃に読んだ童話の中のゆらゆら揺らめくマッチの炎のように、優しく温かなものだった。それは高校に進んで、別々のクラスになった今でも変わらない。
「もぉ~、心配したんだぞ。愛音ったら三日も学校休んじゃうんだから」
「ん、ごめんね。でも、大丈夫だよ。検査受けていただけだから」
「そっか……。愛音は昔から身体弱かったもんね。学校来て大丈夫なの?」
「ん……。お母さんは、あなたの好きなようにしなさいって……」
「あはははは、何それ? なんか、
「……」
「あ~、ウソウソ、じょーだん! そんなに落ち込むな。それより愛音、これから時間ある?」
「時間? そうだね……病院には学校に来る前に寄ってきたし、この後は特に予定もないかな」
「じゃあ、ちょうど良かった。今から愛音の復帰祝いを兼ねて、ケーキ屋でも寄っていこうよ。デザートくらいなら
「でも……」
「ちょうど新しいお店がオープンしてさ、でも一人じゃ入りづらくって」
「もう。結局、水瀬が食べたいだけなんじゃない」
「たはははは」
照れ笑いを浮かべる水瀬の様子に、愛音も自然に笑みがこぼれた。
「ふふ。まだかな~、まだかな~」
鼻歌を交えながら楽しそうに注文を待つ水瀬に、愛音は困惑の顔を浮かべる。
本屋さんで買い物をして、少しだけ繁華街を見て回り、当初の約束通りお店に入ったわけだけれど、そこには甘いはちみつの誘いも漂う紅茶の香りもなく。
パチパチと油のはねる音、思わず胃を刺激する香ばしい匂い。店内を流れるクラシックなBGMの代わりに、テレビから聞こえるニュースキャスターの、午後のニュースを伝える淡々とした声が流れている。
「ええと、水瀬? たしか私たちって、ケーキを食べに来たんだよね?」
「あはは……。お店の前通ったら急にいい匂いがしてきてさ。思わず……」
およそ高校の女子生徒が二人で入るには、やや抵抗のありそうな、いかにも下町情緒の漂う街の定食屋さんだったけれど、水瀬は気にした様子もない。
目の前の友人と付き合っていると、こういったことは日常茶飯事に起こるので、少し驚きはしたものの愛音にしても、それはある意味日常だった。
やがて運ばれてきた料理に、水瀬は「待ってました」と手を合わせる。
おすすめの品にあった小さめの小物を注文した愛音に対し、水瀬は皿に山ほど盛られた唐揚げ定食を頼んでいた。このお店で出すメニューがそもそも量が多めなのか、運ばれてきた料理はどれも標準の量より大盛りで、大の大人の男性であっても十分満足できるほどの量だ。
水瀬は、短めに揃えたボブのサイドをヘアゴムを使って頭頂でまとめると、揚げたての湯気を立てている唐揚げをがぶりと一口に、美味しそうに頬張った。
「そんなに食べて、大丈夫?」
「むぐむぐ……、平気平気。って言いたいけど、そろそろ記録会もあるし、一応レギュラーにも選ばれてるんだから、さすがに晩御飯の前に走りに行っとかないとだめだよね」
「まだ、食べる気なんだ」
「とーぜん! 運動選手は身体が資本なわけだし、腹が減っては戦ができぬって言うじゃない? いざっていうときのためにも、あたしはいつでも備えてるわけだよ」
「そんなこと言って本当は、ただ美味しいものを食べたいだけなんでしょう?」
「えへへ、聞こえな~い」
水瀬が美味しそうに二つ目の唐揚げを頬張るのを見ながら、愛音もちみりと小鉢に箸をつけた。
水瀬は、高校では水泳部に所属している。
運動選手、なんて冗談めかしに気取っていたけれど事実その通りで、水瀬が部活に対して一生懸命で、毎日努力を重ねていることは、彼女を知る者なら誰でも分かっていることだ。
部活に、遊びに、水瀬は常に全力投球で、そんな水瀬だからこそ、彼女の周りは笑顔で溢れている。
時には、そのやる気が独り歩きして、暴走するきらいはあるけれど、それでも愛音には友人の性格が誇らしく──裏腹にそれはとても眩しく、自分にとっては身を焼く炎のようにも感じていた。
「んぐっ……⁉ 喉に……」
「慌てて食べるから」
空になったグラスを持って水瀬が新しい水を汲みに席を立つと、急に自分の周りだけが静かになったような気がした。
ごまかしていた気持ちに、再び影が差す。
『本日未明、都内アパートの一室で男性の遺体が発見されました』
「……」流れてくるテレビの音を、愛音はなんとはなしに聞いていた。
『遺体で発見された無職、
知らない人、知らない事情。命を絶つことを選んだ関わりのない誰かの結末。
失業、生活苦、もろもろの事情。キャスターが事件のあらましを読み上げ、コメンテーターが社会の情勢だの拡がる困窮の問題だの、しきりに意見を述べ合っている。
「不公平だから……」呟きが漏れた。
不公平──ううん。ある意味においては、それは公平なのかもしれない。
ただ単に『勝者』と『敗者』とが存在する。それだけのことだ。
世界は最初から、それらを振り分ける。
それが世界のルーチン。世界のルール。
『抱え込まず、生きる選択をしてください。相談窓口は下記の通り──』
テレビから淡々と語られる言葉はどこか他人事で、内容はもう耳に入ってこない。
だったら生きるって、どういうこと?
仕分けされた敗者に希望なんて見いだせない。
努力をすればいいって──けれど、努力ではどうにもできないことがある。
『勝者』と『敗者』。世界は最初から、それらを振り分ける。
やっぱり世界は不公平だと思う。だから、それが世界だっていうのなら、
いっそ壊れてしまえばいいのに──
突然首筋に感じた冷たさに、愛音は「ひゃっ」と短い声を上げた。
「はい、お水。愛音も飲むでしょ?」
ほっとした。
暗い感情に引っ張られていた気持ちが、ぐいっと引き戻された気がした。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
「ううん、そうじゃなくて……」
二人分の水を手にテーブルに着く水瀬に、愛音はもう一度「ありがとう」と口にした。
「本当は水瀬、今日は私を慰めるために誘ってくれたんでしょ? わざわざ部活まで休んで」
「さて、なんのことでしょ」
おどけた口調。水瀬は照れ隠しに唐揚げを一つ、口に放り込んだ。
「たはは……、やっぱりバレバレだったか。今日の愛音、いつもと様子が違うなって気になってたからさ」
「分かるんだ……?」
「そりゃ、昔っから愛音見てたら、何か違うなってことくらい気づくよ。何があったかは知らないけどさ、ほれ、言うてみ? 話してみたら楽になるかもしれんよ?」
「ごめんね……」
「なんで謝るの?」
「私、いつも気を使わせて迷惑掛けちゃってるよね」
友人の気遣いはとても温かい。けれど、それが友人の負担になっているのだとすれば、それはとてもとても悲しいことだ。
「水瀬には他にもたくさんやることがあるんだし、もし重荷になるんだったら、無理して構わなくても、私は大丈夫だよ」
「そんなふうに思ってたんだ。愛音にとって、あたしの行為ってただのお節介だったんだね」
「違う、そんなんじゃなくて……。もし水瀬に負担を掛けているんだったら、私は……」
「がっかりだよ」
愛音の言葉に水瀬はそれ以上の言葉を告げず、無言のまま食事を続ける。
感謝を伝えたかった。
けれど、そんな愛音の気持ちとは裏腹に、口から出たのは思いとは反対のものだった。
すぐに後悔した。弁明の言葉を探したが、けれど見つからなかった。
「ごめんなさい……」
「許さない」
「……」
「許さないけど……」
お箸でつんつんと愛音の小皿を指すと、水瀬はにっこりと笑顔を向けた。
「おかずを一品くれたら許す」
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