グリノエンケン

政木 亮

第1話・螺旋

『生きるためには、我慢しなければいけない』


それは私、夢前愛音ゆめさきあいねにとっては至極当然で──


まるで、人が生きていくために呼吸をするのと同じくらい、当たり前のこと──


そして、それは私の中でずっと──


これからも変わることのないルールだと思っている──




 びゅう、と何かが吹き抜けるような音がした。

「うわっ、なんだぁ⁉」「すごい風だったわねぇ」

 一陣の風に上がった声も、すぐに夜の繁華街の雑踏の中へと吸い込まれた。

 それは誰しもが気に留めるようなことでもなく、日常の中で起こった驚きともなり得ない、ほんの些細なこと。数秒もすれば人々の記憶からは忘れ去られ、まるで最初からそんなものはなかったかのように消えていく。

 当たり前がゆえに、考えるまでもなく通り過ぎる些事。

 けれどその風は、確かにそこにあり、それでも誰に気づかれることもなく往来を横切った。

 風は二つ……

 雑踏を抜け、人気ひとけもない裏路地に入ると、二つの風は獣のようにぶつかり合った。

 日常の音からは程遠い、耳をつんざくノイズが続けざまに奏でられる。

 ガキンッ、と音がした。

 続けて、一つ、二つ。立て続けに何かがぶつかり合う音。金属が弾かれるような硬い音が上がる。暗闇に響く甲高い悲鳴──それはの悲鳴だった。

「痛っ! 痛い痛い痛ぁーいっ! ちょっとぉ、ブンブン乱暴に振り回さないでよ!」

「少し黙っていろ」

 どこかまだ幼さの残る女の子のような金切り声に、低く無感情な男の声が被さる。

 そのことに腹を立てたのか、女の子の声は怒ったようにまくしたてた。

「黙ってろって何よぉ、相棒に対して。このフルーフちゃんが、困るのは──」

 その声が言葉を言い終える前に、ぶぅんと風切り音がした。

「ひゃあっ⁉」

 再び女の子の短い悲鳴。次の瞬間、ぞぶりと……

 肉を引き裂くような不快な音と、獣の咆哮にも似た叫び声が響いた。

 息遣いも荒く、男がうずくまっている。

 痩せこけた頬。薄汚れた衣服。みすぼらしい身なりではあるが、別段、異質な姿をしているというわけではない。

 彼の足元にはぼろぼろになった通帳が落ちていた。『依代純也よりしろすみや』と名前が書かれている。

 残高はゼロ。数か月もの間、入金もない。それでもその通帳をよすがとしていたのか、肌身離さず懐に仕舞い込んでいたようだ。

 どこにでもいそうな一般的な中年の男性。変わっているところがあるとすれば、逃げ場を失った獣のようにうなり声をあげ、血走った目で憎々しげに辺りを睨みつけていること。

 やがてその憎々しげな光は、目の前の暗闇へと向けられた。

「えっへへ、大当たり♪ ん~、この味、たまらないね~。もっとよ、燻る灰Gris~」

「言われなくても、分かっているさ」

 暗闇から一歩、また一歩と足音が近づいてくる。

 街の光が届かない裏路地で、月の光が何かに反射した。

 それは大ぶりな鉛の塊のよう。けれど鉛の塊というにはその造形は鋭く、やいばを思わせる鈍い輝きを放っている。物語の中の西洋騎士が使うような、一振りの両刃の剣だ。

 その剣を手に、一人の男が暗闇からゆっくりと姿を現す。

 年の頃はまだ若く、青年と言っても差し支えないように見える。ただそんなことより、彼はひと目見て異質だった。

 暗闇をまとっているかのような漆黒の外套がいとう。その外套とは対照的に、すべての希望を抜き取られたかのような灰がかった白髪。色素の抜けたアルビノ肌は陶磁器のようで、まるで温かみを感じない。彼の鮮血をしたたらせたかのような深紅の瞳は、暗闇で爛々と憎悪の光を放っていた。

 闇。一言でその異質な男を表現するとすれば、彼はそういったものだ。

「ねえ燻る灰、早く早く~」

「せっつくな」

 お菓子を待ちきれない子供のように、女の子の声が急かす。けれど女の子の姿はどこにも見当たらない。どうやらその声は、男の手にした剣から発せられているようだ。

 ぶっきらぼうに答え、『燻る灰』と呼ばれた男は蹲っている男に向かって歩を進めた。

「永かった……」

 燻る灰は吐き出すように、呪詛じゅそのような言葉をぶつける。

「この数百年、ずっと貴様のことだけを考えてきた。貴様のことだけを追い求めてきた」

 先ほどの一撃で致命の傷を負ったのだろうか、地面に蹲る男はその場から動くこともできない様子だ。けれど、これといった外傷は見当たらない。

 動かない身体を引きずり、うなり声をあげ、男は目の前の闇を見上げた。

 暗がりの中、見上げた相手の表情までは分からないが、ただ分かるのは、このまま為す術もなく自分が狩り取られてしまうということ。

「俺の憎悪も願いも、今、やっとここで──」

 燻る灰が刃を振り上げる。蹲る男の目に、初めて恐怖の色が宿った。

「──っ⁉」突然、何者かの息をのむ音が聞こえた。

 わずか、一瞬の出来事……

 ほんの少し、気を逸らした燻る灰の隙を男は見逃さなかった。

 気が付いたときには、燻る灰の身体は宙高く打ち上げられ、遥か後方のコンクリートの壁へと跳ね飛ばされる。

 ごぅん、と衝撃音が響き、叩きつけられた身体にぱらぱらと瓦礫の雨が降り注いだ。

「あーあ、最後の最後で油断するなんて、らしくないなぁ~。アイツ逃げちゃったじゃないさ」

「仕方がないだろう。突然が飛び出してくるなど、思いもよらん」

 あれだけの衝撃にもかかわらず、燻る灰は身体にかぶった砂埃を顔色も変えることなく払い落とすと、ゆっくりと身を起こした。

「人間? まぁ、いたとしても、今ので死んじゃってるんじゃな~い?」

 先ほどの、異形同士のぶつかり合いが夢ではなかったことを証明するかのように、燻る灰の叩きつけられたコンクリートの壁には大きな穴が穿たれ、一面には衝撃の残骸が生々しく跡を残している。

「ま、死んじゃってたとしても、それはそれでしょーがない。人間の命なんて蠟燭の炎みたいに吹けばあっさり消えちゃうものだし、いちいち気にする必要もない。もし手向けの言葉があるとすれば、不幸な事故に巻き込まれて、ごしゅーしょーさまってことで」

「……いや」

 けらけら笑う剣の声に、燻る灰は着ていた外套の前を開くと、一人の少女の姿があった。

 年の頃は十六、七の学生といったところか? 成熟しているというには、まだまだその顔には幼さが残る。

「なに? わざわざ助けたっての? には関わらないようにってのが、アタシのルールじゃん」

「好きでを見たわけではないだろう」

「ん…んぅ……」

 気を失い、眠る少女の艶のある黒い長髪が、濡れた頬に張り付いている。垢ぬけているふうでもなく、一目見て控えめで大人しい印象を受けた。

 そんな少女が、なぜこんな時間に、こんな場所にいるのか?

 けれど彼にしてみれば、少女の事情は自分とは関係のないことで、いちいち気にかけるようなことではない。たとえば、彼女がで街中を出歩いていようと、彼には知ったことではない事情だ。

 燻る灰は無言で少女を抱え直した。

「ふーん、燻る灰がいいなら、別にいいけどさ。けど、どーすんの? まーた、探し直しだよ? せっかくみっけたのに……」

 剣からの不満の声をさして気にする様子もなく、燻る灰は少女を抱えたまま、ぶっきらぼうに答える。

「あれだけの手傷を負えば、奴も数日は身動きが取れまい」

「身動き取れないのは燻る灰のほうじゃない? 右足なんか、綺麗に反対側向いちゃってるじゃないか?」

「こんなものは、傷の内にも入らん。それに奴を狩るのにく必要もない。……時間なら、腐るほど持ち合わせているんだからな」

「さっすが、さまは言うことが違うねぇ~」

「ふん……」

 遠くから、サイレンの音が聞こえてきた。先ほどの騒ぎの音を聞きつけたどこかの誰かが、気を利かせたのだろう。

 踵を返し、男は何事もなかったかのように暗闇の中へと歩いていく。

 その場に残ったのは、奇妙な大穴とうずたかい瓦礫の山。ちょっとした事故の話題が、翌朝のニュース番組を賑わせるかもしれない。

 夜が過ぎていく。

 異常は通常を覆すにはあまりにも密やかで、ほんの数刻で日常の中へと溶けていった。

 誰の意識にも止まることもなく……

 何も変わることもなく日常が流れていく……




「う…んん……」

 何かが、私を追いかけてきていた。

 名前を呼んで、甘い誘いで私に語り掛けてくるのだ。

 私はその声が怖くて必死になって逃げるのだけれど、その足はやけに重くて、まるで纏わりつく泥の中を進んでいるようで。必死に足を動かしても、藻掻もがいても、決して抗うことができなくて。

 だから私は、やがて抵抗をやめて、その泥に身をゆだねてしまう。

 心を殺し、期待を持たなければ、これ以上苦しむこともない。

 そう、これは毎晩のように私が見る夢……

 結末は決まっていて、私はいつだって聞こえてくる声の渦に取り込まれてしまう。


 ナニモ、カワラナイ──


 カエルコトモ、デキナイ──


 けれど、今日見た夢は少しだけ違っていた。

 それは、ある種の予兆だったのかもしれない。

「──っ⁉」

 唐突に目が覚める。

 気が付くと私は、見慣れた景色の中にいた。

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