本文(擬人化と異化)

 この評において重要になる「擬人化」と「異化」という言葉についてまずは説明しておく。Wikipediaにおいては、


擬人化とは、人間以外のものを人物として、人間の性質・特徴を与える比喩の方法である。

異化は、慣れ親しんだ日常的な事物を奇異で非日常的なものとして表現するための手法。


のように説明されている。ここでいう異化は生化学におけるそれとは異なることに注意されたい。また、ここでは異化は擬人化の逆過程、つまり「人間を人間以外のものとして、人間以外の性質・特徴を与える比喩の方法」の呼称として用いる。具体的に擬人化の歌と異化の歌を冒頭の連作『Dance with the invisibles』より一首ずつ引く。


 擬人化

 灯油売りの車のこゑは薄れゆく花の芽しづむ夕暮れ時を

 /Dance with the invisibles(P.11)


 異化

 お辞儀して音楽を待つ数秒をつめたい鍵のごとく向き合ふ

 /Dance with the invisibles(P.13)


 それぞれ「花の芽しづむ」「鍵のごとく向き合ふ」が擬人化/異化パートである。

「しづむ」という動詞は、結句「夕暮れ時を」の助詞「を」による言い差し(これは倒置法由来)によって立ち上がる夕暮れの広い空間(広いというのは水平方向にも鉛直方向にも)において、花の芽の相対的な位置(夕暮れの空間に対して下側)を表すという点で納得感がありながらも、夕暮れの空間を液体のように感じさせるという点でポエジーを生み出す。この「しづむ」を擬人化というのは少々無理がある気もするが、「花の芽」という動かないものに「しづむ」という動的な(ようにわたしは感じる)動詞をぶつけているという構造*1から、擬人化様の効果は期待されるだろう。

「鍵のごとく向き合ふ」という異化を成功させているポイントは、第四句で「つめたい鍵」と鍵の描写をしているところだろう。この「つめたい」で読みの方向性が定まる。ダンスパーティーでダンスが始まる直前、音楽が鳴りはじめるまでの緊張感を帯びた静寂が「つめたい」という形容詞によって前に出てくる。緊張による身体のこわばりのような部分も、「鍵」という金属製品を比喩としてぶつけることで表現されているだろう。


 このように、納得感(必然性)とポエジーを両立した擬人化/異化の秀歌がこの歌集には多く登場する。


 あかねさす銀杏並木のはつ冬の黄葉くわうえふするつてきもちがよささう

 /Sleeping Rhino(P.19)


自身が黄葉するときのことを想起しているという点で異化の歌である。下の句の「くわうえふするつてきもちがよささう」という旧仮名の異形感が黄葉する人体という異形感とひびく。


 低気圧近づく夜もそこにゐてスワンボートはすこし俯く

 /Swan boat(P.26)


擬人化の歌である。スワンボートは意思を持たないため、どんな日であれ池に浮かび続けるしかないのだが、「そこにゐて〜すこし俯く」と言われれば思わず感情移入してしまう。結句「すこし俯く」には納得感もある。


 イーピゲネイアの喉の白きを思はする花瓶ありたり古りし生家に

 /十七月の娘たち(P.46)


これは擬人化の歌であると同時に異化の歌でもある。イーピゲネイアはギリシア神話に登場する王女で、父によって女神アルテミスの生贄に捧げられた。花瓶のくびれが人間の首を想起させると同時に、生贄として捧げられたイーピゲネイアの繊細さ(これは「王女」という単語によるイメージでしかないが)が増幅される。第二句「喉の白き」と単に喉を思わせるだけでなく、喉の白さまでを思わせることを指摘する措辞に仕上げているところが擬人化と異化を一首の中でうまく共存させている鍵であろう。


 人らみな羊歯の葉ならばをみなともをのこともなくただ憂ふのみ

 /十七月の娘たち(P.52)


異化の歌である。京大短歌の歌会ではたびたび指摘したことがあるが、これは「飛躍+論理」の型である。詳しく説明すると、「人=羊歯」という異化を伴う飛躍パートとそれを受けて「ただ憂ふのみ」と展開する論理パートにこの歌は細分化できる。論理パートである種の納得感を伴わせることで、ポエジーを伴う飛躍パートをある意味で「わからせる」のがこの型の効果である。羊歯という単語が持つ湿度の高さが「憂ふのみ」という論理パートにより説得力を持たせている。


 夜のプールに脚をひたすやうに降りてゆく階段が地下劇場へと続く

 /クラウン(P.67)


擬人化の歌である。睦月都の短歌にはこのように大胆な字余りが散見される。ここでは「夜のプールに/脚をひたすやうに/降りてゆく/階段が地下劇/場へと続く」という7/9/5/9/7と切って読む。どことなく揺らぐようなリズム(ジャズにおけるswingっぽい)が上の句「夜のプールに脚をひたすやうに降りてゆく」という措辞による水面感をより感じさせる。ここだけを読めば作中主体がナイトプールに梯子を使って入っていくような景が立つが、実際に「降りてゆく」ものは「階段」であり、その階段を作中主体が地下劇場へ向けて降りてゆく、という複雑な構造をとっている。


 鍵屋に鍵ひしめく夜よ 輪廻するたましひの待合室のごとくに

 /家を売る(P.106)


擬人化の歌。前半の「鍵屋に鍵ひしめく夜よ」といったような、ある意味で当然のことを再度指摘する措辞はわたし好みである。売れるまでは使われずに鍵屋に置かれており、買われて初めてペアとなる鍵穴が決定するという構図が「たましひの待合室」という措辞に納得感をもたらす。


 食卓を囲む椅子たち 立ち上がりその中心にともるを消す

 /家を売る(P.107)


擬人化の歌。「椅子たち」という擬人化様の措辞による椅子への生命感の付与(英語でいうanimate)が、ディズニー映画の動くアンティーク家具(『美女と野獣』などに登場するイメージ)を想起させる。薄暗い部屋の中、燭台が置かれた木の食卓を木の椅子たちが囲んでいるとても静かな景が浮かぶ。近世ヨーロッパの静物画を思わせる構図である。「その中心に」という措辞により、具体的に燭台と食卓の位置関係が示されることが静物画感の要因だろう。


 生きてまた百年先のデニーズで季節の鉱石のミニパルフェを

 /真夜中の偏食家たち(P.180)


これまでの擬人化・異化とは少し様相が異なるが、この歌についても触れておきたい。「季節の鉱石のミニパルフェ」には無機物である鉱石を有機物的に見ようとする試みが感じられる。先ほどの歌でも触れたが、擬人化の措辞の本質はモチーフへの生命感の付与(animate)にあると考えるため、この歌でなされている試みは擬人化に近いものを感じる。柘榴石や苺水晶といったような、果物の名前を冠した鉱石は多く存在するため、「季節の鉱石のミニパルフェ」という措辞には驚くほどの説得感があるように感じられる。また、「生きてまた百年先の」という措辞からは、なんとなく果物が取れなくなってしまった荒廃した世界で、果物の代わりとして鉱石を使ったパフェを娯楽品として提供している、といったような文脈を想起したくなる。((パフェのためのアイスや生クリームは作れるんですね、という指摘は置いておく。))


 最後に気に入った歌をいくつか引いておく。


 にはとりは恐竜のすえうつくしき恐竜族の胸ひらきゆく

 /けはひなく降る春の雨(P.33)

 スモークをまとふ裸の踊り子の奥歯に銀のかんむりを見き

 /クラウン(P.67)

 無数の本が床につみあげられてゐて知らないけどきっと砂丘のやうだ

 /Kitten blue(P.152)

 心にも客間がほしい 客のない夜も贋作の絵などをかけて

 /ひとりと猫一匹の食事(P.169)

 心臓に部屋がいくつもあることの それも光の当たらぬ部屋の

 /夏の影(P.209)


*1

以下の二つの措辞の比較がわかりやすい。


 ①花の芽しづむ夕暮れ時を

 ②夕暮れ時をしづむ花の芽


①は②と比較して花の芽が能動的にしずんでいこうとしているような感覚がある。これはおそらく、読み手が「花の芽(が)しづむ夕暮れ時を」といったように花の芽を明確に「しづむ」という動詞の主語であると認識するからだと考えられる。

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