五
僕が結局どうしたのか、と言われれば、どうすることもできずに人形に近づくことしかできなかった。帰るべき道を見失っていたのだ。後ろを見たところで元居た道に戻れるわけでもない。それならば、この世界の象徴として存在する人形に何かしらの干渉をした方がいいような気がした。でも、干渉といってもさしたることでもない。ただ近づくだけで案山子の様子を眺めることしかできなかった。他の人間だったらどういう行動をとるのかはわからないけれど、きっとホラーの作品の主人公であるのならば、おそらく触れるなりするんだろう。僕にはそんな勇気はない。実際にその案山子を見ればわかることなのだけれど、触れれば崩れてしまうほどにその青黒い案山子は腐り果てていた。腐り果てていた故に悪臭さえも感じなかった。でも、臭いを感じないからと言って短絡的にそれに触れようとすることはできなかった。触らぬ神に祟りなし、ともいうことはできるし、よく触るという行為は障るにかけて災いが起こるというじゃないか。別に僕はフィクションを信じているわけではないけれど、それでも宗教的な倫理観を一部は持っているのだ。お守りを踏むことはできないし、歴史の授業で踏み絵の話題が出たときに罰が当たりそうだというくらいの価値観を持っているのだ。だから僕は触ることができなかった。ただ、そうして時間をつぶしていても仕方がない。数分ほど案山子を眺めていたけれど、結局変化らしきものは起こることはなく、僕はそろそろ違うことをするべきなのではないか、そろそろ夢みたいな世界から目覚めてくれるのではないか、そう期待をして案山子から目を逸らして、後方へと振り返った。奥の方の道にこれ以上進むことに意味を見いだすことはできなかったし、先ほどの場所に戻れば元居た世界に帰ることもかなうかもしれない。そんな淡い期待を抱いて振り返った。そして、そこには案山子があった。
目をくりぬかれている案山子があった。青黒い案山子があった。腐り果てていた案山子、触ることを躊躇った案山子がそこにあった。
景色は変わっていなかった。後ろを振り返ったはずなのに、それでもそこには案山子があった。地面に突き刺さっているはずの案山子が移動していた。移動していた、というか、後ろの世界には前の世界が広がっていたというべきかもしれない。平坦な道で地平線しか見えない現状において、どちらが北か南なのかもわからないけれど、それでも前の世界には後ろの世界が広がっていた。一瞬心臓がぐっと締め付けられる焦燥感に駆られて、僕はまた後ろを振り返りそうになった。でも、その時にまた案山子がいれば僕はどうするべきなのかを考えてしまって、半分衝動的に振り返りそうになった身体をなんとか理性で留めた。動揺している気持ちに偽りを抱くように、僕は少し笑って見せた。笑って、案山子に動揺をしていないことを示そうと思った。案山子に意思があるなんて思っちゃいないけれど、それでもそうすることが正答であると思った。だから、そう考えを働かせた。なにせ、案山子が僕の表情を伺っているように見えたのだ。目をくりぬかれて見ることは叶わないはずなのに、それでも案山子は僕の様子を見ているようだった。だから仕方のないことだった。
さて、これからどうしようかと考えたところで後ろに振り返ることもできないのであれば前に進むしか選択肢がないことに気づく。後ろを振り向けば案山子がまた出てくる。そんな風に出てくるということは振り返らず前に進め、と言われているように感じたのだ。だから引きずられる重力に逆らいながら前に進もうとした、が、案山子の前を進んだところで僕の左手は何者かに掴まれた。何者か、と表現したところでわかりきっている部分ではあるけれど、案山子が腐っていた腕で僕の左手を掴んでいた。おおよそ、腐っているとは思えないほどの力強い感触で。
逃がさない、と言われているような気分になって振り払うようにした。振り払えば、ぼとっとした音が聞こえた。僕を掴んでいた案山子の腕が腐って落ちた音だった。とうとう本気で嫌悪感と焦燥感が身体を支配した。僕は身体を突き動かして、奥の道を走り抜けた。
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