ここまで読んでいれば流石にフィクションだろう、と大概の人が思うだろう。僕もそう思う。僕自身も、これがフィクションであれば箔がつくなぁ、とか、自身の才能を誇示することもできるのだろうけれど、あの時に体験したことは確かな現実としてある。生来、僕は傷を受けたことがない。自慢というほどでもない。それだけ経験が乏しいともいえるだろうし、痛みを知らない人間だということもできる。それだけ安全に気を配っているともいえるだろうし、臆病な人間だとも表現することができるかもしれない。それを幸運と表現することも、経験をしていないことを不幸と表現することもできるだろう。ともかく、僕は傷を受けたことが今までなかった。だからこそ、その時の状況が僕の経験を現実だと認識させてくれる。確かに残った傷跡のようなものが、夢や非現実ではなかったということを知らせてくれるのだ。

 ともかく、僕はその人間に近づいた。正直、人間かどうかなんて把握はつかなかった。でも、帽子のようなものを被っていたし、夕焼けの中に紛れる人間の黒い影は印象的だった。人間と見間違えても仕方がないと思えるものだった。僕は重くなった足を動かして、その人間らしきものに駆け出して行った。運動は苦手だったせいか、どうにも前に進むことを遅く感じたけれど、それはきっと重力の生ともいえるだろう。彼に近づくたびに重く沈んでいく感覚を僕は忘れていない。運動不足というのもあるかもしれないけれど、それだけを理由にして片づけることはできないと思う。僕はともかく彼に近づいて行った。

 先ほども書いたけれど、その人間は帽子のようなものを被っていた。夕焼けに紛れるような橙色、もしくは黄色だったかもしれない。夕焼けが世界の色を染めているのだ、確かな色の把握など難しいものであり、彼がそんな明るい彩の帽子をかぶっていることは理解ができた。距離が近づくたびに僕はその人に声をかけた。距離が近づくほどにそれが人であることを認識した。人であることに安堵を覚えながら、やはり何度も声をかけた。でも反応は特に得られることはない。距離はおおよそ数十メートルというほどにもなって、僕は足を止めた。足を止めるしかなかった。人だと思っていたものに近づいて、人ではないということをだんだんと視界の情報から理解してしまった。

 それは案山子だった。案山子でしかなかった。案山子とは本来畑などを野生の動物に荒らされないために置く人形のことであり、その両の手は十の形に縛られている。昔、畑を営んでいた祖父はよく生贄だとか言っていたような気がするけれど、その言葉の通りだなと思うほどに、それは生贄のような案山子だった。案山子は人形であるはずだ。人形である限りは作り物であるはずだった。でも、それは作り物とは言えないものだった。作り物であればよかったのだろうけれど、目の前にあったのは子供の死体のようにも感じられた。おおよそひと肌とは思えないほどに青黒くなっていた人間の子供が、腕を無理矢理に広げさせられ、両足では不安定だと片足を捥がれて十字の方で地面に刺されて置かれていた。それが僕はあまりにも非現実的すぎてじろじろと視線をうろつかせてしまった。そのせいで未だに夢に出てしまうことがある。子供の目はくりぬかれていた。それ以外にも凄惨だと思える要素はあったけれど詳細を語るのは嫌なので省く。そんな人形が平坦である夕焼けの世界に、主人公であるかのように飾り付けられていた。

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