三
ちなみに、五月における怪談の話をしたからと言って、それがここに関連するわけではない。僕がこれを経験したのは夏の終わりごろといっていいのかはわからないけれど、九月末くらいの話だ。季節の区分についてはなんとなく八月終わりが夏の終わりと表現されるけれど、現代における機構は九月になっても夏の熱を忘れることはない。だから表現をいつも迷ってしまうけれど、ともかく九月末の夏の終わりごろの話。日の傾きが八月の時よりも少し早まっているような気がしたけれど、比較をすればそこまで大した差はないくらいの頃合いであった。
僕は新聞部でのことを想起しながら帰り道を歩いていた。新聞部、といっても特に活発な活動をしているわけではないのだけれど、その日は十月が目前にあるということもあって、特集を組むために久しぶりに全学年の部員が集まっていた。新聞部の部室は昔演劇部が使っていた空いた部屋を使っていたから彩にあふれている。床には赤い絨毯が敷かれているし、壁には青いビニールシート、その合間合間に演劇で使っていたらしい創作物がかけられていて、虹色とまでは言わないまでも五色の彩が相応にあった。でも、ペンキ臭さというものはどこか拭えないもので、呼吸を繰り返せば少しばかり頭がくらくらする。そんな中、部長の坂城は会議を始めていた。内容については至って単純なもので、十月にはハロウィンと関連した文化祭の出し物を新聞部が催すことだったり、それぞれがこの夏に体験したり聞いたりした怪談話を書くことになったくらい。そんなことが決まって思ったのは流石に時期を外れていないだろうか、という勝手な文句だったけれど、そんな文句は心の中にしまっておいた。九月の新聞は誰もやる気を出さなかったし、上級生である三年生は大学受験を控えていたので集まることはない。だから、九月に新聞を出さなかった。だから仕方のないといえることだった。
僕は新聞部のそんな会議を話半分に聞いていたわけだけれど、よくよくきちんと隣にいる同級生の華野から話を聞けば、本当に全員もれなく怪談を書かなければいけないらしい。体験も聞くこともしていなかった人間についてはどうすればいいのか、と恐る恐る部長に聞いてみたけれど、そんな人間は存在しないだろうと彼は意気揚々と答えやがって、僕は窮することになった。問題となるのはこの夏に体験、もしくは聞き及んだ怪談を書かなければいけないことだったのだけれど、僕は今年特にそういったイベントごとには恵まれなかった。理由をあげればたくさん見つかるだろうけれど、あげたところで時間は無駄にしかならない。僕は坂城に言葉を呑み込んで、そうして帰路についた。帰路について、掻く内容についてはどうすればいいのだろうかと再三考えてみた。昔聞いた祖父の怪談の内容を書いてみてもいいのかもしれないけれど、それにしては詳細がおぼつかなさ過ぎる。祖父はもう五年ほど前に亡くなっていて、怪談を改めて聞くということはできやしない。祖母なら知っているかもしれないけれど、認知症で老人ホームに預けられている状況で聞くことはできないだろうと思う。それならば脚色をすればいいのだろうけれど、どうにも創作というものが僕には苦手だった。伝奇とかファンタジーなるフィクションが苦手なのだからしょうがない。そう言ったものが得意であるのならば、僕は空き教室にて運営されている文芸部に入っていただろう。僕は物を書くことは好きだけれど、事実しか書けないのだから新聞部に入ったのだ。それしか選択肢がなかったから。
夕暮れの道、まだ暑さが拭えない環境のなかで息を吐いた。学校から家への帰り道は結構な距離がある。本来であれば自転車登校をするべきなのだけれど、夏休みに出かけた際に、駅前に駐輪した自転車を盗まれてしまったのでそれは叶わない。きちんと防犯をしていなかった僕の責任だと言われ、父親には自転車を買うことは許されなかった。戒めのように歩いている道のなか、そんなことも過ってため息をつくことしかできなかった。この先どうすればよいのだろう。目の前に広がる下り坂を心象に落とし込んで、どこかリンクするすべて。
そんなときのことだ。歩いていると、近くの中学校から聞こえてくる完全放課のチャイムと重なって、市役所の方から聞こえてきたのは帰宅を促すアナウンス。夕焼けは夏のころよりやはり傾いていて、世界に自分の影が伸びている、そんなことを想像しながら僕は地面を見た。地面を見てしばらくは違和感に気づかないまま歩いた。歩いて、よくよく気づいてまた地面を見つめた。あるべきものがなかったことに気が付いた。常識を疑いそうになりながら、改めて目をこすってから地面を眺めてみた。やはりそこにはあるべきものがなかった。何がなかったかと言えば、夕暮れに伸びてそこにあるはずの影がそこになかった。つまり、僕には影がついていなかった。そんな事実を反芻する度に、一瞬動揺を起こして、何度も目をこすった。確かに日は陰っていたし、影が見えないという可能性はあるけれど、それにしたって世界は明るすぎた。そんな明るい世界の中で影がないというのは違和感しか覚えなかった。違和感しか覚えていないのだから、きっとそれは夢というものではなかっただろうと思う。夢というものは認識が及んでしまうと流れのままに状況を呑み込んでしまうことがある。でも、状況を疑うときができたその時のことを思えば、僕は夢なんて見ていなかった。
それから周囲の状況を見てみた。そんなときにも気づいていたのだけれど、先ほどまで聞こえていたチャイムやアナウンスはいつまでも終わることなく、止め処なく音を鳴らしていた。断続的であることを知らせるように時折ノイズや低い音が混じっていた。それに対して嫌悪感を催せばよかったのだろうけれど、それ以前に周囲の状況が先ほど見ていたものと異なり過ぎていたから、そんな余裕は心の中には生まれなかった。下り坂だと思っていた場所は平たんな道のりになっていた。平坦な道のりになって、それでいて、どこか重力が淀んでいるようにも感じられた。歩く足を止めれば地面に引きずられる感覚があり、僕は背負っていた鞄を下ろしたくなるほどの衝動に駆られた。結局、背中から鞄は下ろしたのだけれど、手に提げたところで重さは変わることなく引きずられる感覚は続いた。一度、落としてしまうことも考えたけれど、落としてしまえばもう二度と引き上げることはできないかもしれない。そんな想像が働いてしまって、結局僕は持つことしかできなかった。
平坦な道には電柱があった。見慣れた電柱、職人が上るための鉄の棒の足場がそれぞれにかかっている、いつも通りの電柱だった。だか、電線がかけられていない。それぞれが普通の世界であることを証明するように電柱を示していたけれど、電線がないことで非現実的な感覚を覚えさせた。そして、地面には影が伸びていなかった。僕は太陽の光が嫌いで、電柱の影に潜むように歩いていたはずなのだけれど、それでも電柱には影がなかった。太陽があるだろうと考えられる橙色の空が広がっているはずなのに、どこにも影が存在しなかった。
世界は常識を失いつつあった。僕が今いる自分の道でさえおぼつかないものになった。そもそも下り坂を歩いていたはずなのに、平坦な道へと変化していることがどうしようもなく気色悪く感じて仕方がなかった。気色悪く感じたのもそうだけれど、平坦になった道の中、その先に広がっているはずであろう住宅街はそこになかった。奥には地平線と電柱だけが広がっていた。それに奇妙な感覚を覚えながら、よくよく見れば電柱ではないものが紛れていることに気が付いた。短く立っている其れは、おそらく電柱などではなかった。両腕を横に伸ばして、漢字の十の形をとっている人間の姿が見えた。僕はその存在を疑うべきだったのだろうけれど、とりわけ以上となった世界でそんなことを考えるゆとりはなかったから、すぐに僕は重くなっていく足を無理矢理に動かして、そうして人間の方に近づいたのだ。
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