リライト・ザ・ブルー
縹麓宵
Re:10 Regret
どれほど暑い日差しが降り注いでいても、お墓の隣というのはどうも空気が冷たい。
シャワシャワと名前の知らないセミが鳴くのを聞きながら、ぼんやりとスマホを見つめる。開いたLINEには〈絶対来てよ!〉と同期からの連絡が入っていた。
「
〈分かってる〉と返信していると、横からお線香を渡された。ご丁寧に火をつけてもらった後で、その先端からは、煙と、独特の香りが立ち上っている。
「ううん、ない。どうして?」
「どうしてもなにも、あるのかなあと思ったのよ。高校卒業してから一度も帰ってなかったでしょう」
お祖母ちゃんのお墓にお線香をさす。お祖母ちゃんが死んだのは、私が高校二年生のときだった。
「逆でしょ、高校卒業してから一度も帰ってないってことは会う友達もいないって思うもんじゃない?」
「はーっ、あなた本当にうるさくなったわね。弁護士になってから余計によ」
プンプンとでも聞こえそうなお母さんを無視して目を閉じる。お祖母ちゃんが死んで十三年目のお盆は一週間前に過ぎ、親戚の集まりはそのときに終わっていたから、今日お墓参りをしているのは私とお母さんだけだった。
「そんなんだから彼氏もできないんでしょう」
「同期はみんなこんな感じだから」
その同期とは、いままさしくLINEで会話の真っ最中だ。お墓から数歩離れながら確認すると、今週末の合コンに関する話題が続いていた。
「〈お相手って同い年だっけ?〉」
「〈浪人とかはあるかもだけど基本はそう〉」
「〈
……浪速大学、同い年の、医者?
慌てて合コンのグループLINEを開いた。「8/28(土)20:00~(7)」なんて無愛想なグループ名を見て、誰が合コンだなんて思うだろう。
そのメンバーには、招待中も含めて、彼の名前はない。そのことに胸を撫で下ろした。
「英凜、このバケツ持って行って」
お母さんがずいと差し出した掃除道具を受け取る。拍子に、柄のひび割れた柄杓が、鐘でも鳴らすような音を立てた。
ガランガラン、ガランガラン、そんな間抜けな音を響かせながら、本堂の隣にある掃除道具置き場まで歩く。陽光は松の木に遮られ、その道もおかしなくらいに涼しい。掃除道具置き場には、他の
シャワシャワと、まだ名前の知らないセミが鳴いている。ジジッと、そのセミが飛び立つ音を聞いて顔を上げると、松の葉の隙間から真っ青な空が見えた。
青い海を、思い出す。十余年前に訪れた、白い砂浜と青い海の光景が頭に浮かんだ。
それをきっかけに、次々と思い出が
車の近くに戻る頃には、肌はじんわりと汗ばんでいた。お母さんは叔父さんの車の扉を開けて換気しているところだった。日陰に停めておいたとはいえ、この炎天下に十五分放置すれば立派な蒸し風呂のできあがりだろう。
「お母さん、私、ちょっと出掛けてくる」
「ちょっと出掛けるって、どこに?」
会う友達はいないんでしょう、そう言いたげな顔が振り向いた。
「……懐かしいから、ちょっとぶらぶらしようかと」
お祖母ちゃんの家に行きたくなった、とは言う気にならなかった。
「そう? いいけど、夕飯は
「そうする」
もう三十歳の娘が見知った田舎町を散歩するのに何を心配することもない、そんな様子で、お母さんはさっさと車に乗り込んで行ってしまった。
シャワシャワ、また、名前の知らないセミが鳴き始めていた。歩き始めると途端に暑くて、やっぱり車で送ってもらえばよかったかも、と後悔した。ここからお祖母ちゃんの家は近いけれど、駅が遠い。帰りは汗びっしょりになってしまうに違いない。
そうして、昔とあまり変わらない景色を眺めながらお祖母ちゃんの家があった場所に着く。
十年前に取り壊されたそこは、何もない空き地だった。申し訳程度の夏の風に吹かれ、伸び放題の雑草が揺れている。お祖母ちゃんが死んだ後、その家は土地も含めてお父さんが相続した。しかし固定資産税がかかって困るという理由で家は取り壊し、土地は宅地から畑にしたそうだ。だからこの雑草の中にはニンニクの芽でも混ざっているだろう。
ジジジジとアブラゼミの鳴き声を聞きながら、目を閉じる。
私の頭は、鮮明にお祖母ちゃんの家を思い出す。どんな玄関だったか、どんな木が植えてあったか、どこに何の部屋があったか。中学と高校の六年間住んでいた家なのだから当然といえば当然だった。
私が聞かれると困る質問のひとつは「出身地はどこですか?」だ。生まれてから中学生に上がるまでは東京だったし、大学も東京だし、実家はずっと東京にあったけれど、中学と高校の六年間はここ――
中学生のとき、私はお祖母ちゃんと一緒に暮らすことになった。原因は、私が“グレーゾーン”にあることを危惧したお母さんが環境療養を提案したからだった。
もちろんそんな療養は無意味だし、なんなら私のグレーゾーンはそう騒ぎ立てるほどのものではなかった。ただ、お母さんにとって、小学生の私が「共感性が低すぎる」「他人への配慮があまりに欠けている」なんて言われた挙句、IQテストでそれらしい結果を出してしまったことは由々しき事態だった。
だから、あの頃の私は、自分のおかしさを気に病んでいた。
ぱちりと目を開く。
ここで、跡形もなく消えたお祖母ちゃんの家が
肌を焼くような陽光の下を歩きながら、当時よく使っていたバスに乗った。タクシーを使わなかったのは、見当たらなかったからではなく、郷愁にかられたからだ。
効きの良すぎる冷房に当たり、駅に着く頃にはすっかり汗は引いていた。そのまま海辺まで出ると、海が見える前から
最後に遊びにきてから、十四年が経っていた。それでも、海は記憶と何も変わっていない。透き通るような鮮やかな青と、光を反射する明るい白のコントラスト。見るだけで暑さを忘れるほど美しい景色だ。
少し離れたところから、話し声が聞こえ始めた。顔を向けると、制服姿の男の子が三人、アイスを食べながら歩いてくるところだった。
「な、知ってる? ここ、十年くらい前に殺人事件があったんだぜ」
「マジ?」
半袖シャツにただの黒いズボンだから、一見どこの制服か分からなかった。でも通りすぎるとき、そのカバンを見て分かった――
「ここってか、向こうのほうだろ? 倉庫があったっていう」
「ま、同じじゃん同じ」
「え、んじゃ殺人事件があったのってマジなの?」
「マジだよ、高校生がバットで殴り殺されたんだよ。うちの高校に伝説の不良がいてさ」
その子達は、私のことなど気にも留めずに通り過ぎていく。でも、まだ声は聞こえる。
「その先輩がさ、クソ野郎って有名だった不良をぶっ殺したんだよ」
「え、違うくね? そう言われてたけど、実は殺してなかったって話だよ」
あと数秒その返事が遅ければ、私が話に割って入ってしまっていただろう。
「あれ、そうだっけ」
「そうそう、俺、兄貴に聞いたもん。そんで兄貴は先輩に聞いたらしいんだけどさ」
「めっちゃ又聞きじゃん」
「でも本当なんだって。人情派っていうか、弱きを助けるみたいな感じの格好いい不良だったんだよ。そんで伝説だぜ、マジ憧れる」
そのまま、その子達は歩いて行ってしまった。
伝説、か。海にもう一度視線を戻して、溜息を吐き出した。
帰りの電車に乗るとき、ホームの柱に花火大会のポスターが貼られているのを見つけた。タイトルは『令和三年八月一日
本当に、懐かしい。東京とは違う雰囲気の電車に乗って、座って窓の外を眺める。山より高いものが空以外ない景色は、昔と変わらない。町というのは十余年経てば様変わりするものだけれど、田舎はそうではない。新しいものが入ってこない田舎は、ずっと時を止めているのだ。
たまに、失くなるものもあるけれど。
その景色に、雨粒が割り込む。ほんの少し窓に斜めに貼りついていたそれは、あっという間にバケツを引っ繰り返したような水に呑まれる。でも、遠くの空は明るいオレンジ色に照らされているから通り雨だ。叩きつけるような豪雨に襲われ、電車の音に雨音と雷鳴が混ざり始めた。
……あの日も、大雨だったな。
電車が地下に潜り、見る景色もなくなり、スマホに視線を落とす。ちょうど事務所のアドレスにメールが届いている、担当事件の期日が決まったという連絡だった。手帳を開いて予定を書き込んで――……挟んである紙切れを手に取る。十三年前の週刊誌の見開き一ページだ。
そのページは、〈一色市のレンタル倉庫において、新庄篤史くん(18)の死体が発見された〉という一文から始まる。
〈一色市内を席巻していた当時の“不良”は、まるで反社会勢力の雛であった〉〈彼らの行いは未成年飲酒、無免許運転、暴行・傷害、強姦なんでもあり。その果てが、今回の殺人である。〉――〈事件の犯人はK.Sくん〉。
じっと、その一文を見つめる。〈K.Sくんは、事件の数日後、自ら警察に出頭した。〉……。
暗記してしまうほど読んだそれをもう一度読んで、また手帳に挟んでしまいこみ、涙が溢れるのを止められなくて目を閉じた。
今から十三年前、私が高校を卒業した年の三月十日、同い年の男の子・新庄篤史が殺された。彼は今でいう半グレで、彼が反社の雛だったという表現は誇張でもなんでもない。事件当時も、少年院を出所してほんの数ヶ月かそこらだったはずだ。
その彼を殺した犯人だと名乗って自首したのが、少年K.S――私がずっと大好きだった、
昴夜が事件を起こした本当の原因は、週刊誌には書かれていない。どんな捜査資料にも載っていない。
それでも私は、それが“私”だと知っている。
だから、もしも、私があのときに違う行動をとっていれば、昴夜が事件に巻き込まれることはなかった……。
「〈まもなく、中央駅、中央駅……〉」
アナウンスが聞こえて、目を開ける。まだ涙は渇ききっていなかった。
昴夜に会いたい。心に浮かんでいたのはそれだった。昴夜の家は、何度か遊びに行ったことがあるから知っている。ちょうど中央駅から南北線で数駅、そこから歩いてすぐだ。
もうあそこにいないことは知っているけれど、それでも、昴夜がいたあの場所に行きたい。
「〈中央駅、中央駅……お降りの方を先にお通しください……〉」
電車を降りて、地下のホームから階段を上る。近くにエスカレーターはなかった。一段一段に「0.2kcal消費!」と掲出された階段を眺めながら、一歩ずつ上っていく――。
あれ?
その途中で、カロリー消費の表示が消えた。
張替えでもしているのだろうか。はて、と首を傾げながら足を踏み出したとき、ガクンと階段を踏み外しそうになって慌てて手すりを掴み――目を見開く。
「……え?」
見下ろした足は、オープントウのサンダルの代わりに、シンプルなスポーツサンダルみたいなものを履いていた。それだけではない、ブラウスの代わりにティシャツを着ているし、ショートパンツはティシャツの裾に隠れそうなほど短くなっている。
何かがおかしい、訝しみながら階段を上りきったけれど、私が立っているのは、中央駅の改札口だ。
でも何か……。行き来する人々に、何か違和感がある。その正体は分からないけれど、どこか現実じゃないと思えてならない、妙な違和感が……。
ここは、本当に中央駅なのか。反射的にスマホに頼ろうとバッグに手を伸ばし、自分が持っているのはクロスボディの安っぽいカバンだと気付く。
「……あれ?」
そして、その中に入っていたのはガラケーだった。
これは一体、どういうこと?
「英凜」
つるっと光沢のあるガラケーの表面に映っている自分を見る。一瞬誰か分からなかったけれど、間違いなく自分の顔だ。
「英凜」
――ただし、高校生の。
「英凜、こっち」
ハッと顔を上げると、改札の向こう側で手招きしている男の子がいた。
銀髪の、よく知っている男の子。
駆け足で改札を出ようとして、なぜか
「……ゆ……」
声が出なかった。狼のように流れる厳つい銀髪、それとは裏腹の優し気な双眸と、そんじょそこらの女子なんて目じゃない美人な顔立ち。
「どうした、英凜」
言葉を失ったままの私に、彼は“英凜”と呼びかける。
「なんかあったの?」
私は間違いなく、
「……ゆ、うき?」
「なに、俺がどうかしたの?」
昴夜の親友にして高校生のときの彼氏――
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