いいわけ

無題

 私はとても単純な性格をしている。

「あれ、先輩。お疲れ様です、まだ残っていたんですね」

 最近は仕事でも擦れ違うことばかりで会えなくなっていた職場の後輩、もとい、自分の想い人と偶然会えたというだけで、「今日はラッキーな日だ」と思ってしまう程度には。

いずみこそ。まだ終わってなかったの? 何か手伝う?」

「いえ、この確認で、もう終わりです」

 彼女は手元のリストと、目の前にある備品を見比べながら言った。

 現在、弊社では大きなイベントを運営中であり、今私達が居る場所も社内ではなく、イベント用に仮設した事務所の一角だ。

「終わりました。ところで先輩はどうしたんですか?」

「ああ、私は……忘れ物を取りに来ただけ」

 彼女と遭遇し、浮かれて忘れていた。照れ臭い顔になったのはそのせいだが、忘れ物をしたことを照れているのだと思ったらしく、泉は可笑しそうに笑っていた。

 なお、この事務所にはもう泉しか残っていないとのことで、今から消灯と施錠をする予定らしい。ギリギリセーフだったと言うことだ。いや別に、明日の朝でも良かった忘れ物だから、施錠されていたら大人しく帰ったけれど。とにかく少し待たせてしまうことを泉に詫びつつ、私は忘れ物を取りに慌てて奥の部屋に入った。

「泉? どうしたの」

 無事に忘れ物を回収して戻ると、泉が窓の外を見てぼうっとしていた。私の言葉にきょとんとしてから、目尻を下げて微笑む。私は彼女のこの、優しげで柔らかな笑みが好きだった。

「西棟で『大人給食』をしてるじゃないですか。まだ明かりがついてるので、誰かが残ってるのかなーと」

 彼女が見ていた方向を見ると、確かに、まだ建物の光が消えていない。あの施設では、今日と明日に掛けて、懐かしの給食が食べられるという催しがされている。別に大人じゃなくても入れるが、大人以外が特別さを感じる催しではない為、敢えて『大人給食』という企画名になった。

「帰りに少しだけ見に行こうかな」

 ぽつりと泉が呟いた。そして、首を傾ける私に向かって、何処か照れ隠しをするみたいに笑った。

「給食の食器を見るだけでも、懐かしいですよね」

 既に片付けられている会場の何を見に行くのだろうかと不思議に思ったけれど、食器や雰囲気を懐かしみたいらしい。私には、わざわざ足を運ぶほどの想いはあんまり無かった。

「じゃあ、私も行こうかな」

 それでも単純な私は、可愛い後輩が真っ直ぐに帰らず寄り道をすると言うなら、それを口実にもう少し一緒に居られる、と思うだけなのだ。泉は目を丸めてから、小さく声を漏らして笑った。

「私に毒されないで下さいよ」

 泉の言うことは、時々難しい。意味が分からなくてまた首を傾けた私にも、泉はただ微笑むだけだった。

 事務所の消灯と施錠を済ませ、並んで西棟に向かう。事務所の窓からはすぐ隣にあったように見えた建物も、地上を歩くと思ったより遠かった。冷たい風が吹き付けてきて、泉と一緒じゃなければ私は一刻を争って帰路に就いたのだろうなと、今の状況を少し可笑しく感じた。

「時々ふと、寂しくなることがあるんです」

 徐に泉が呟いた言葉に、訳も分からず胸の奥が跳ねた。彼女らしくない言葉だと思って、驚いたせいだと思う。隣の彼女を見下ろすけれど、泉は前だけを見ていて、視線は絡まない。

「いえ、この言い方は語弊がありますね。うーん、『寂しい』と感じていた自分を思い出す、ような。『寂しい』という感情が胸の奥に漂う、ような」

「後半は……よく分かんないな。それって、寂しいとは違うの?」

 やっぱり泉の言葉は私には難しい。前半が違うものであるのは、何となく分かったんだけど。首を捻る私に、泉がくすくすと笑う。

「誰かに傍に居てほしいとか、会いたいと思うわけじゃないので、ちょっと違うかと」

「なるほど」

 そう応えてはみたものの、『違う』ということがほんのり理解できただけで、彼女の言う感情が把握できたわけではなかった。

「例えば……遠くに聞こえるエンジン音を、無性に恋しく思ったり」

 泉が静かに吐き出した息が、冷たい空気で白く染まって、彼女の表情を覆い隠した。彼女は今、何を思い返し、見つめているのだろう。車やバイクで帰ってくる、または会いに来てくれる誰かを、心寂しく思いながら待っていた日が、彼女にはあったのだろうか。

「今のように、給食の食器から子供の頃を懐かしみたくなったり」

 そう言って私を見上げた泉は、今告げた心の深い部分を誤魔化したがっているみたいにも見えたし、どうして西棟を見に行きたいと思ったのかを、説明してくれているようにも感じた。

「もう歳ですかね?」

「こら、私の方が年上なんだからやめて」

「ははは」

 私と泉は三つ違いだ。泉が一年目だった時、私が教育係を担当した。彼女は聡明で有能で仕事が早いのに、穏やかな雰囲気のせいか威圧感がなく、あんまり忙しそうにも見えない。私はと言うと周りから「怖い人」と言われがちで、「いつも忙しそうで声を掛けづらい」とも言われるので、多分、この子とは真逆なんだと思う。

「今、私と居ても、寂しい?」

 少し気恥ずかしく思いながら問い掛ける。こうして二人で並んでいても『寂しい』と言われると、私も『寂しい』なぁとちょっと思ったから。いや、泉の中にある感情は、私のような者が思う単純な『寂しい』ではないみたいだから、これは頓珍漢な問いだったのだろうか。

 補足や訂正をすべきかと頭を悩ませている内に、泉は小さく頷いて、口を開く。

「そうですね。先輩と私は、一人と一人なので」

 彼女がこの言葉に籠めた意味を百パーセント理解できたわけじゃない。だけど、妙に胸が痛かった。私は『二人』のつもりだったからだ。

「先輩が西棟に行かないと言っても、私は行くでしょうし。私が行かなくても、先輩は行ったかもしれません。こうして並んで歩くことが、一緒に居る為ではないですから」

「そっか」

 軽くそう応えつつも、自分の想いがまるで伝わっていないことに内心では苦笑していた。私は泉が行かないなら寄り道なんかしないで帰っているし、今はただ泉と一秒でも長く居たいと、そんなことしか考えていない。返す言葉が思い付かなくて黙ったら、数秒後に泉が「でも」と呟いた。

「私が情けない話をしたので。優しい言葉を掛けて下さっているのは、分かります」

 うーん。私は、乾いた笑いを漏らした。それが彼女にどう伝わったのだろう。彼女も笑っていた。

 もし私が今、何故一緒に来たのかを包み隠さず伝えても。例え、泉のことが好きだと伝えても。おそらく『慰められている』としか捉えてもらえないのだと思う。実は私の気持ちに気付いていて牽制したのかと思うくらいに、見事に何も言えなくなってしまった。

 そうこうしている間に到着した西棟からは、ほんのり、懐かしい給食の匂いが漂っていた。

 既に明日の分の仕込みが始まっているのだろうか。泉が見たがっていた給食用の食器は窓際に並んでいた為、窓からちょっと中を覗けば簡単に確認できた。泉は静かにそれを眺めていて、私はその横顔を盗み見てから、同じように中の食器を見つめる。

 やっぱり私には、そこまでの思い入れは無かった。懐かしいな、とは思う。だけどそれだけ。むしろそれより、まだ奥の方で明かりを灯し、仕事をしているだろう同僚らの方が気になってならない。彼らは今日ちゃんと帰って休めるのだろうか。

「やっぱり、ただ、寂しいだけかもしれません」

 泉の声が震えているように聞こえた。寒さのせいだったのかもしれないのに、単純な私はそれを感情的になっているのだと思った。

「今のこの時間が終わってしまうのを『惜しい』と思うのは、先輩とまだ、一緒に居たいからかも」

 先の言葉に下らない思い込みをしたせいだ。続いた言葉があまりにも私の心を強く揺さぶって、笑って顔を上げた泉に身を寄せた私は、そのままの勢いと感情で彼女に口付けた。冷たい唇だった。

「おぉ」

 唐突に私からされた痴漢行為にも、泉は呑気な声を漏らして目を丸める程度である。

「どうしたんですか、先輩」

「あのね。……好きな子にそんな可愛いこと言われたら、喜んじゃうでしょ!」

 酷い言い分である。泉は思ったことを口にしただけ。身勝手な思いを寄せているのは私で、そんなことで痴漢を正当化されては堪ったものではないだろう。明日もこの会社に、私の椅子はあるのだろうか。謝らなければと思うくせに、私の身体は頭より先に動いて、泉を強く抱き締めていた。私より数センチ低いだけの身体は、いざ抱き締めてみれば酷く小さく感じた。

 ただ、残念なことに、互いにコートを着ているから、その温もりを感じることは出来なかった。

 泉はポケットに両手を突っ込んだままで、私を抱き返すようなことは当然ない。だけど、抵抗は示さず、私の腕から逃げようともしなかった。むしろ少しだけ、頭を傾けて私の首に寄り添ったように思う。いや、都合のいい妄想かも。

「先輩の言うことは、私には難しくて、よく分かりませんが」

「泉にだけは言われたくないんだけど……」

 思わず返した言葉に、泉が笑った。その振動が腕に響いて、愛おしさだけが増した。

「今、少し嬉しくて、……離れがたいです」

 堪らず、腕の力を強める。これでこの子は私を刺激しているつもりなど全くなく、誘っているわけでもないのだから本当に難しい。今の私は、好きな子を抱き締めているという状況が嬉しくて幸せだとしか考えられないくらいには、単純に出来ているのに。

 きっと、いつも複雑なことを考えている泉にとって、私は余計に理解が及ばないのだと思う。

 それはそれとして私達は今、同僚らが残業をしている建物の横でこんなことをしているわけで。離れ難いとか離したくないという感情で居座るわけにもいかない。でも、折角少し彼女の心を知り、久しぶりに接点を得たこの状況を容易く手放したくもなかった。

「あー……泉、あのさ」

「はい」

「次の休み、一緒にどっか行かない?」

 一拍後。言葉を飲み込んだらしい泉の身体が強張った。しまった、嫌だったか。痴漢という言い逃れようのない罪を犯した上に更にパワハラとかになるかも。慌てて撤回しようと私が腕の力を緩めると、同時に、泉は堪え切れない様子で笑った。声を抑えていたものの、肩が酷く震えている。……身体が強張ったのって、もしかして笑うのを我慢したからか。

「先輩って本当、ふふ、よく分かりません」

 泉こそ私には難しくて、分からなくて。だけど多分、そのせいで余計に気になって、知りたくなって、好きになった。

 一方。泉にとっての私は、『分からない』から『可笑しい』のだとするなら。……沢山笑ってくれるから、同じ気持ちじゃないけど、それで良いような気になってくる。

「もう、帰ろうか」

「そうですね」

 締まらない空気と会話のままで、私達は互いの身体を離した。最寄りの駅までは一本道。使う路線が違うはずだから駅でお別れだけど、そこまではまだ、二人でいられる。

 道中、ようやく「痴漢してごめんね」と呟いた。泉は今度こそ堪える暇が無かったのか、大きな声で笑った。

「その発想はなかったですね。確かに、相手を間違えると問題ですね」

 もしも『相手』が恋人なら、まず問題にならないだろう。場所はちょっと、いずれにせよ問題だったかもしれないが。

 しかし話す機会も減ってしまったやや縁の遠い後輩が相手である場合、明らかに問題である。口をへの字にしている私を見た泉は、また楽しそうにくすくすと笑った。

「別に私は、いいですよ」

 つめたい風の音に紛れるように彼女は言う。絶妙な言い回しだと思った。『私には』と言われていれば単純な私はすぐに期待して前のめりになったのだろうに。

 期待したくなる思いはある。ただ、難しい泉のことを上手く読み取れたことが一度も無いという事実が防波堤となった。結果、私はそれを押し込めた。

「ええと、どういう意味……」

「うーん」

 間違えないよう改めて真意を問うも、泉は苦笑して、まるで難しいことを問われたような困った顔で首を傾ける。

「会社に訴えるような話ではない、と言うことです」

「う、うん、そう……」

 明日以降も会社に私の椅子はあるらしい。ありがとう、と言うのも変なので、曖昧な返事になってしまった。

 沈黙が落ちる。聞きたいことはもっとある気がするのに、最寄り駅の光が近付いている。呼び止める理由が無いし、あったとしても明日も仕事である私達が、帰りをこれ以上遅くするわけにもいかない。

「じゃあ、泉、今日もお疲れ様。気を付けて帰ってね」

 まるで何も気にしていないように装って、ちょっと格好も付けて。いつもと変わらない職場での挨拶を告げる。

「はい、お疲れ様でした。――あ、先輩」

「ん?」

 自分の使う路線の発車標を見上げようとしていた私は少し気が逸れていたし、油断していた。

「何処に行くか、考えておいてくださいね」

「え」

 私の戸惑った声は駅の雑踏に掻き消されたかもしれないが、顔を見れば戸惑いは見て取れたはずなのに。泉は笑みを深めて小さく会釈をすると、躊躇いなく背を向けて歩いて行ってしまう。

「えぇ……?」

 あの誘いって、有効だったんだ。

 話が流れて全く返事を貰っていなかったことで、『無かったこと』になったと思った。

 私も一度は撤回しそうになっていたし。泉は大笑いしていて、本気にしていないように見えたのもある。うーん、やっぱり泉は、捉えどころがなくって難しい。自分で誘ってみたはいいけれど。出掛ける日にも私はきっと、何度も彼女の言動に首を傾けて、知恵熱を出しそうなほどに沢山悩んで考えるんだろう。

 そんな風に悩む時間までを含めて愛おしいと思ってしまうのだから、救いようも無く私はおめでたい頭をしている。こんな私の単純さが少しくらい彼女に伝染して、いつか、私の分かる言葉で教えてくれたらいいのに。

 私のことを、どう思っているのか、とか。

『一人と一人』から晴れて『二人』になるには、一体どうしたらいいのか、とか。

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