04

 その日僕はしっかりと昼寝をして、苦手なコーヒーを一気飲みして、夜に備えた。兄はいつも通り一日中勉強をして、夕飯にはそうめんを作ってくれた。これが兄と食べる最後の食事だと思うと物足りなさはあったが、夏の風情はあったのでまあいいだろう。

 一緒に風呂に入り、僕は自分と兄の傷痕を見比べた。色は白くなりかけていたが、十分目立つ。


「兄ちゃん……本当に、出て行くの」

「ああ。もうこの家には戻らないから。陽向とも二度と会うことはないだろうな」


 兄の決心は固い。ならば僕だって。


「兄ちゃんの気持ちはよくわかったよ」


 風呂からあがって、アイスを食べた。それから僕はタバコをせがんだ。


「あれやりたい。シガーキス」

「そんなのよく知ってたな。難しいと思うぞ」


 兄が先に自分のタバコに火をつけ、僕のタバコに近付けた。大きく息を吸い込み、何度かやっているうちにようやく火が移った。


「……できた」

「もうやらないからな」


 煙を肺まで入れると頭がくらりとしたが、吸いきらないとカッコ悪い。何とか一本終えた。


「もう寝るぞ、陽向」

「うん」


 僕は兄の胸に耳を押し付けて鼓動を聞いた。兄の生きている音。尊い音。兄は僕の伸びた汚い髪を指で弄んでいた。


「兄ちゃん……」

「んっ……」


 舌を絡め、兄の腹に固くなっているものを押し付けた。


「触ってよ……」

「だから、それはダメ」


 僕の望みは果たされなかった。でも、もういいんだ。兄が寝息を立て始めたので、そっと布団を出て台所へ行った。戸棚を開け、包丁を取り出した。

 そして僕は、兄に馬乗りになって包丁を掲げた。


「はぁ、はぁ、はぁ……」


 いざとなると勇気が出なかった。これで終わらせることができるのに。永遠に兄を僕のものにできるのに。


「ごめんね、兄ちゃん……」


 意を決して振り下ろそうとしたその時だった。


「陽向……?」


 兄が目を開けてしまった。その黒い眼差しはみるみるうちに燃え上がった。


「何してんだよ!」

「ぐっ……!」


 兄は上半身を起こして僕に掴みかかった。包丁を手放すわけにはいかない。とにかく振り回すも、空を切るだけだった。

 兄の手刀が手首にあたり、包丁をふっ飛ばされてしまった。すかさずそちらに手を伸ばすも、先に届いたのは兄の方だった。


「陽向ぁ!」


 包丁が僕の胸に突き刺さった。


「えっ……」


 すぐに抜いた兄は、今度は腹に刺してきた。


「ぐっ……あっ……」


 そうして、意識を失う直前に僕が目に焼き付けたのは、兄の歪んだ美しい表情だった。

 そうか……そうなるなら、それでもいいか……。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る