02

 兄が高校に行っている間、僕は縁側に出てぼんやりとおにぎりを食べていた。兄が毎日作って置いていてくれるものだ。それを昼食にしていた。

 庭は荒れ放題。昔は花でも育てていたらしく、割れたプランターが転がっていた。兄が干してくれた洗濯物が頭上にあった。

 せめて、掃除くらいはしたら、兄も褒めてくれるかな。僕は掃除機をかけた。うちは平屋で、そんなに部屋の数はないし、父の部屋は入るのを禁じられていたから、すぐに済んだ。

 慣れないことをして疲れてしまい、僕は麦茶をごくごく飲んで畳の上に寝転がった。セミが命を散らしていて、それが頭の中にぐわんと響いていた。

 インターホンが鳴った。兄はネットで日用品をまとめ買いしているから、それが来たのかと思って出てみたら、違った。


高原たかはらくん。こんにちは」

「……こんにちは」


 担任の……確か、須藤すどう先生といったっけな。さっぱりと短い髪をした若い女の先生だった。


「今、一人?」

「はい」

「ちょっとだけ、お話いいかな?」

「……どうぞ」


 僕は須藤先生を中に通した。何も出さないのも失礼だろうと思って麦茶を入れた。


「ありがとう。今日も暑いね」

「そうですね」


 兄以外の人と話すのは久しぶりだった。まともに顔も見れない。僕は安易に玄関に出てしまったことを後悔した。


「高原くんはおうちで何してたの?」

「特に、何も……掃除機かけたくらいです」

「偉いね。食事はきちんと食べてる?」

「兄が用意してくれるので」

「そう。見た感じ、元気そうだね」


 他の大人と違い、公立中学の先生はよそから転勤でここに来ると聞いていたから、いくらか気は楽だった。けれど、須藤先生だってわが家の事情なら知っているはずだ。有名な話だから。


「高原くん、無理に教室においでとは言わないよ。図書室に行ってみるだけでもどうかな?」

「本とか……読まないので」

「保健室でもいいよ。少しずつ、お話聞かせてほしいな」


 そして、須藤先生は茶色い封筒を取り出した。僕はそれを受け取った。


「これ、お父さんに渡しておいてくれる? お父さんともお話したいの。じゃあ、高原くん、いきなり来ちゃったし、先生もう帰るね。熱中症には気を付けてね」


 須藤先生は麦茶を飲み干し、立ち上がった。僕は玄関まで見送りに行き、ぺこりと頭を下げた。

 残された封筒。どうせ父に渡したって読まないに決まっている。僕は勝手に中身を見た。ちょっと難しいことが書かれていたのだが、なんとなくわかったのは、このままでは内申点が足りないこと、どこか病院を受診した方がいいとのことだった。

 兄に見られるのも嫌だったので、僕はそれをゴミ箱の底の方に捨てた。

 夕方になり、兄が帰ってきた。


「ただいま陽向」

「おかえり」


 部屋にあがるなり、兄は机の上を見た。


「コップ二つ出したのか?」

「あっ……」


 片付けるのを忘れていた。


「その……今日、担任の先生が来て」

「学校来いって?」

「うん」

「はぁ……確かに休みすぎなんだよな。高校行けなくなるぞ?」


 僕だって高校くらい行かないと、ろくな就職先がないことはわかっていた。けれど、今から行っても勉強に追いつける気がしないし、他人と話すのが嫌だ。


「僕、行きたくない、行きたくないよ」

「甘ったれやがって」


 兄の拳がまともに鼻にあたった。僕は膝と手をついた。ポタポタと鼻血が畳に染み込んでいくのが見えた。


「いい加減開き直れよ。俺たちは男にだらしないアバズレの息子なんだよ。地べた這いずり回って生きていくしかないだろ」

「……うん」


 兄は僕の鼻にティッシュを詰めてくれた。


「いいか、陽向。お前もこんなクソみたいな田舎出たかったら、きちんと努力しろ」

「僕は……兄ちゃんみたいになれないから……」

「陽向は陽向なりにできること探せ。もうすぐ夏休みだし……一学期はもういいけど。二学期からは行けるようになってくれ。なっ?」


 夕飯はレトルトカレーだった。僕は未だに辛いものがダメで、幼児が食べるようなキャラクターの絵柄のカレーだ。それにはシールがついていて、この年になるというのになんとなくそれを集めていた。

 いつも通りの夜を過ごし、僕は兄に昨日のようなキスを求めた。


「はっ……陽向っ……」

「兄ちゃん……」


 ぴちゃぴちゃと音を鳴らし、ねっとりと長く。こんなこと、普通の兄弟はしない。だけど僕の世界には兄しか居ないから。


「陽向、これだけで勘弁な……? これ以上は取り返しつかなくなるから」

「うん……わかってる……」


 いっそ、兄が僕の身体に溺れてくれて、やっぱり離れないと言ってくれればいいのに。兄を変えたい。僕の欲望はむくむくと大きくなっていった。

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