向日葵が揺れる
惣山沙樹
01
母は男を作って出ていったと聞いていた。僕は顔も覚えていない。写真すらこの家には残っておらず、僕は妄想の中の母に迎えに来て欲しいと願い、夢を見るのだけれど、それが叶うことはないだろう。
父は金だけは兄に渡してくれていたから、食べ物や着る物には困らなかった。ただ、父はほとんど家には寄り付かず、帰ってきても目すら合わせてくれなかった。
僕がすがれるのは兄だけだった。
「兄ちゃん……今日のご飯、何?」
「ラーメン。作るから待ってて」
僕は中学に行かなくなってしまって一日中家に居たけど、兄は頑張って高校に行っていた。早く就職して早くこの家を出るのだという。僕のことは連れて行ってくれないらしい。なので、兄が卒業してしまうのが憂鬱だ。僕一人になったらどう暮らせばいいのだろう。
兄は鍋でお湯を沸かし、袋麺を入れて茹でた。粉末スープを溶いて終わり。具は何も無いけれど、これでも兄の手作りだ。嬉しい。
畳の上であぐらをかいて、兄と机に向かい合ってラーメンをすすった。窓は開けていて、気持ちのいい夏の乾いた風が、時折吹いてきていた。
兄はラーメンのスープを一滴残らずすすった後に言った。
「
「うん……」
母のことはこの田舎じゃすっかり知られていて、僕たち兄弟は後ろ指を指されていた。兄は強いから、そんなの気にしていないみたいだけど、僕は違う。同級生の視線が気になる。何か噂されているのではないかと怪しむ。そうして僕はすり減っていった。
「前にも言ったけど、兄ちゃん陽向のことは置いていくからな。自分のことは自分でできるようになってくれよ」
「けど……兄ちゃん……」
「ああもう……その顔、苛つくんだよ……」
兄は立ち上がって僕の顔を蹴った。僕が倒れると、腹を何度も踏んできた。せっかく作ってくれたものを吐き出すわけにはいかない。僕はギリギリのところで耐えた。
兄の気が済んだようで、優しく髪を撫でられた。
「陽向がいけないんだぞ。兄ちゃんのこと苛々させるから」
「ごめんなさい……」
僕は兄の切れ長の目を見つめた。兄の瞳の色は深い黒色だ。僕はどちらかというと明るい茶色だから、兄弟でもずいぶん違うんだなぁと思う。
「ほら……ぎゅー」
「んっ……」
どれだけ酷いことがあっても、終わればこうして抱き締めてくれる。だから身体の痛みもいくぶん楽になるし、やっぱり僕は兄のことが好きなのだと実感するのだ。
「僕……頑張る……」
「よし、いい子だ」
バスタブに湯を張って、兄と一緒に入った。兄の背が高くなるにつれて、長い手足が邪魔になり狭くなったけど、それでもこの時間は好きだ。
「陽向、髪伸びたなぁ。いい加減切りに行けよ」
「こわいんだもん……」
「前髪なんてアゴまであるし。女みたいになってるぞ」
凛々しい顔立ちの兄と違い、僕はなよっとした顔だ。だから余計になめられるのだと思う。声変わりはしたけど兄よりも高いし、背も伸びる気配はないし、こんなので大人の男になれるのだろうか。
「まあ……陽向はそれでいいか。可愛いから」
兄が近付いてきたので、ちゃぷんと湯が揺れた。目を閉じて唇の感触を味わった。そっと触れるだけなのだが、それでも僕の鼓動を早めるには十分だった。
「暑っ。そろそろあがろう陽向」
「うん」
扇風機にあたりながら、棒についたアイスをかじった。箱で買っていて、夏の間は欠かすことがない。兄はタバコも吸っていた。商店の佐々木さんのところでは、高校生になればこっそり売ってくれるのだという。僕も一口吸わせてもらったことがあるけれど、むせてしまってこりごりだった。
「兄ちゃん、勉強するから先に寝てろ」
「わかった」
僕は布団を敷いて寝転がった。昼寝をしてしまったから目が冴えていた。兄がカリカリと問題集を解く音がすぐ側の机から聞こえていた。
兄はどうやら公務員を目指すようだった。寮にも入れるし潰れない職場だし安泰だと。兄は賢いからきっと受かるだろう。そうすればいよいよ僕は一人ぼっちだ。
顔のわからない母のことを考えながら時間を潰していると、兄は勉強を終え、部屋の電気を消した。そして、僕を後ろから抱き締めてくれた。
「陽向……まだ起きてるだろ」
「うん……兄ちゃんと一緒じゃなきゃ寝れないもん……」
「まったく。そんなんでどうするんだよ。中学生にもなってさ」
多分僕は他の子供よりも幼いのだろう。とっくに兄離れをしている時期だ。けれど、僕の家庭は特殊だから、と言い訳をしていた。
「兄ちゃん……して……」
「はぁ……わかったよ」
僕は振り向いて唇を重ねた。とくん、と心臓が跳ねた。いつもならそれで満足できるのに、なぜかその夜はダメだった。舌で兄の唇をこじ開けた。
「んっ……陽向っ……」
兄は僕の頭を掴んでやめさせた。
「もう……」
「ごめんなさい」
「いいよ。少しだけならな」
兄はいずれ遠くに行ってしまう。僕の手の届かないところに。僕は何としてでも引き止めたかった。
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