第3話

 朝。アルマが私への注射を終えて部屋を出ていくと、私は意気揚々とベッドのシーツを剥がし、ベッドの下に隠した本を包んで結く。シーツと毛布を、毛布とカーテンを結んで、それをゆっくり下に垂らした。

 アルマには、「女の子の日で大変だから、絶対に入らないで!勝手に入ったら怒るから」と言って、窓から出たシーツも毛布も干してるから触らない様にと忠告した。

 呆気にとられたアルマに、「海へ行ってくる」と言って私はそそくさと家を出た。

 注射のおかげか、体はもうほとんど痛みが無くなっていた。

 シーツを解いて本を抱き抱え、一旦、海の方へ向かう。そして家から死角になったのを確認して、森の中へ入って行った。もしアルマが来てもバレない様に。

 森は家から歩いて数分の所にある。ヒノキが沢山生えている森で、私とアルマはよく、その森を通って川に向かう。

 私は普段とは違う道から入り、森を突き進んだ。

 見慣れない地形に黄色や茶色の落葉がふんわりと敷かれている。その中に、丁度良い加減に曲がった木があったので、そこに座り込んで木にもたれかかった。

 近くで流れる川のせせらぎだけが届き、後はとても静かなものだった。

 両膝を立てて、そこに本を開く。丁度良い塩梅に降り注ぐ木漏れ日に文字を宛てがいながら、昨日の続きを読み始めた。

 

 読み始めてすぐに分かった事は、この本の主体が燈の母親だという事だった。母親がどういったものかは、動物学の本で学んでいた為、すぐに理解が出来た。

 私はお腹の上辺りが熱くなるのを感じた。指が僅かに湿って、ページを捲り易くなった。

 本の内容がやがて少しずつ、この母親の話になってゆく。仕事、というものについては、特務的多元研究開発機構区という長い名前の建物の中で働いている、と書かれていた。そしてその内容は、人間の研究、とあった。

 私は生唾を飲んだ。アルマの本で見た、動物の解剖写真が脳裏に蘇る。

 私は少しずつ、恐る恐る目を先に進めた。

 

 しかし、書いてある事は予想に反して、穏やかなものだった。人間はどの様な時にどう思うか、や、宗教といったものや団体行動についてなど、人間の思考や行動に関する内容だったのだ。

 私は安心すると、改めて本の表紙を握り直し、読書を続けた。

 

 この母親は、とても頭が良いボスらしい。頭が良い事は文章を読んでいても分かる事だったが、沢山の人間を従えていた事も書いてあった。そして国、というものに研究を任された、と書かれていた。

 研究は、学者さんやアルマの様に頭が良くないと出来ない。そして団体を率いる訳だから、動物と同じく「ボスやリーダー」という存在なのだろうと理解した。

 

 しかし、その段落の最後に書かれた内容が、私にはよく理解出来なかった。

 段落の最後には、こう書かれていた。

 「私が犯した人生最大の罪もしくは功績は、いずれにせよ、この研究を引き受けた事自体になるだろう」と。

 そこから幾分か読み進めてみたが、研究の事は一切書かれなくなった。代わりに、その建物の中の説明だったりと、どうでも良さそうな内容が続いていた。

 そうして漸く、百ページ程を読んだ次第だった。

 私は、息を深くまで吐き出して本を閉じると、手を上へ思い切り伸ばした。

 森の中は変わらずの静けさを保つ。変わったものがあるとすれば、時折聞こえた鳥の囀りが遠くなった位だった。

 

 私は、まだまだ余る本の厚さを暫く見つめた。そして、とてつもない発見がここに隠されているかも、と自分を鼓舞して引き続き読み進めた。木漏れ日がどんなに位置を変えても、それに従った。夢中になって、本に没入した。

 

 私は本が大好きだった。知るという事がとても好きだったからだ。何かを知る瞬間というのは、私にとっては、頭の中に青い空が広がるという様な感覚だった。そこに吹く清涼な風が、頭の中の草原に、気持ち良い程新鮮な空気を吹き込んでくれる、そんな感覚だった。

 私の唯一の幸せが、知るという事、だった。

 この本を読むまでは。

 

 「最悪で、気色悪いものを生み出してしまった」

 

 「カプセルの中の、最低のゴミ」

 

 私は、本を閉じ、そこらへんに放り投げた。そして膝を抱えて泣いた。声を上げて泣いた。

 どれくらいかはわからない、ただひたすら泣いていた。落ち着いては泣いてを何度も繰り返した、壊れた様に。耳が痛くなる程に泣き叫び、目の下がふやけてしまう程涙を流し、呼吸が定まらない程、泣く事を続けた。

 

 陽が翳り、地面の黄色い落葉が見上げる、ただ上を。

 私はそんな落葉を見て、最早ここに居てはいけないという事に気がついた。それは、私の様な気色悪い者が居ると、森が汚れてしまう、そう思ったからだった。

 落葉にまみれた本に目を落とし、力無く持ち上げ、抱き抱える。落葉に沈む足を、一つずつ引き上げる様にして、前に進んだ。

 森の中を抜ける風が、私の背を何度も押してきた。その度に、落葉に足を取られた。何度も躓きそうになりながら、私は歩いた。

 

 森を抜けて、いつもの道。すっかり暗くなった道は、いつもより長い道のりを私に歩かせてくれた。

 道を見つめながら、読むんじゃなかった、と後悔した。

 

 やがて、アルマの家の光が視界に入ってきた。

 私は、足を止めて思った。

 

 私はもう、あの家にいちゃダメなんだよ。

 このまま、居なくなった方がいいんだよ、と。

 

 風が、まだ私の背を押している。

 

 いいよ、もう。

 勘違いをしてたんだ。

 私の、生きてる意味はあるって。

 勝手に。

 

 風は、深緑の草を騒がせていた。草達は円やかに踊る。

 

 最悪で、最低の、ゴミ。

 作った人が名づけたのなら、それ以外に正解は無い。

 

 「草達は良いね、風が吹けば賑やかに踊れるから」

 私は、草に嫉妬する程になっていた。

 

 でも、この本だけは返さないと。それで、お別れしよう、と思った。

 

 私は笑顔を作った。なるべく胸を張って、足をいつも通りに。

 でも、何度も足に力が入らなくなり、しまいに崩れて蹲った。

 アルマとの日々が、勝手に思い起こされ、その度、力が抜けてしまっていた。

 

 私は、これじゃ駄目だと思い、頬を叩いた。

 

 「しっかりしろ、私!お前の感情なんかに、価値なんか無いだろ!」

 

 何度も叩いた。強くする程、寂しさが薄れていく。

 暫くして大分楽になると、私は家に辿り着くまで意気揚々と歩く事が出来た。「アルマ、ありがとう」と、何度も呟きながら。

 

 玄関を開けると、テーブルの向こうに、いつものアルマの背中があった。

 アルマは私の帰宅に気づき、ゆっくりと振り返ってきた。

 

 「ごめん、アルマ」

 笑顔で謝った。赤い本をきつく抱きしめながら。

 

 アルマは、赤い本に気づくと、目を見開き、口は穴の様に開けたままにした。

 

 「この前、本を探そうと思って、勝手に入っちゃって、たまたま見つけちゃって……ごめん」

 苦笑に変えて謝った。

 

 アルマはまだ固まっていた。

 

 アルマの顔へと登る湯気が、不意に私の視界に入る。

 アルマの手には、暖かそうに湯気をやんわり立てる、器に入った黄色いスープ。

 

 私は、もう立てなかった。

 不意に見たそれが、あの時のスープだったから。私が初めてアルマと会った時に、アルマが私に差し出した、暖かいスープと器だったから。

 

 私はとうとう床に座り込む。力が入らなくなってしまった足を見て、どうすれば良いかを考えた。

 けれど、どうする事も出来なかった。

 立ち去る事も出来ない私は、どうしようもない無価値なゴミだと絶望し、項垂れるしかなかった。

 さすが、ゴミだと納得した。

 

 

 アルマが駆け寄って、私の両肩を優しく掴み、私を向き合わせた。アルマの表情は優しくも険しい。

 

 「中を、読んだのかい」

 

 「ううん」

 私が答え終わる前に、私を胸へ引き寄せ、「バカな事を!」と言って、きつく抱きしめてきた。

 アルマは目一杯、泣き叫んでくれた。

 

 「ごめんなさい」

 

 私も泣き叫ぶ。何度も謝った。

 

 その度、悔しそうに泣き叫ぶアルマ。

 その声が、じんじんと響く、私の芯に。

 

 ゴミでごめんなさい。

 最悪でごめんなさい。

 気色悪くてごめんなさい。

 からだを震わせて、それらを吐き出させた。

 

 いつしか、叫んでいたのは私だけだった。

 

 「燈、もう謝らなくていいんだよ。君はゴミでも最悪でも、気色悪くもない」

 

 アルマはそう言って、私の頭を撫で続けた。

 

 気づけばスープがすっかり冷めた頃。

 アルマが、「冷めたスープは、味が深まるし、体にも実は良いんだ」と言って、笑ってきたから、私もつられて笑った。

 

 アルマは私を支え、椅子に座らせた。赤い本をゆっくりと、テーブルの端に置き、スープの入った器とスプーンを用意した。

 「さあ、食べよう。いただきます」

 「いただきます」

 スープはとても冷たくなっていたけれど、とても甘くて美味しい。

 アルマも「美味しい」と言って何度も頷く。

 

 私は、これがアルマとの最後の晩餐だったとしても、何も不幸せな事なんか無い、そう強く思えた。むしろ、今までが幸せ過ぎたという事を自覚して。

 

 

 「ごちそうさま」

 「ごちそうさまでした」

 私は器を下げて、流しで洗った。その間にアルマはミルクティーを作ってくれていた。

 アルマは自分の所に一つ置くと、私のコップを向かいでは無く、自分の隣に置いた。

 

 「さあ、燈。暖かくて美味しいミルクティーを飲もう」

 

 ミルクティーはいつもより白い。湯気もいつもより甘い。

 

 「美味しい」

 飲んだアルマがそう言ってまた頷く。

 私もミルクティーを啜った。

 「うん、美味しい」

 

 並んで飲むミルクティーは、とても安心する味がした。

 

 「私は、この時間が一番好きだ。何よりも大切な時間なんだ、燈と一緒に食事をして、ミルクティーを飲む、この時間が」

 

 「うん」

 

 「燈……今から言う話をよく聞いてくれ」

 アルマはそう言いながら、赤い本を目の前に引き寄せた。

 そして、本を見つめながら言った。

 「この本は君の事も書いてある。読むのが早い燈なら、そこはもう読んだね?」

 

 「うん」

 

 「この本には、燈が人工人間であると書いてある。燈は人間ではない。残念ながら、それは事実だ」

 

 「うん」

 

 「だが、この本を書いた者は、決して燈を酷く思ったりしていない。それは間違いないんだ」

 

 「どうしてそう言えるの?」

 

 「それは、この本を書いた人の事を、私が良く知っているからだよ」

 

 「この本を書いた人って?」

 

 アルマは優しい笑みを向けて言ってきた。

 「燈が思っている通りだよ。この本を書いたのは、燈のお母さんだよ」

 

 「お、母、さん」

 

 「私は君のお母さんを昔から良く知っている。どんな人だったか、何が好きか、君の事を、どれだけ愛していたか、もだ」

 

 「愛していた、って何?」

 

 「私は燈を大切に思っている。こうやってミルクティーを一緒に飲んで美味しいと言い合える、こんな普通の事がとても大切に思える。燈はどうだい?」

 

 「うん、私も。アルマとの時間は全部好き」

 

 「愛、というのはつまり、そういった普通を、大切なものに変えてしまう魔法だよ。誰しもが持っているけれど、大切な人にしか使えない魔法、心の平和を作る魔法、それが愛だ」

 

 「また魔法?」

 

 「はっは、いや例えだよ例え。でも、それだけは間違い無いんだ、お母さんは、燈を大切に思っている」

 

 「でも、気色悪いって」

 

 「燈。君はとても賢い、お母さんに似て。だから、しっかりと聞いてよく考えるんだ、この本の事を。この本は、私が燈の乗っていたカプセルから見つけたものなんだ。お母さんは、君がいつか、この本を読んでくれると思って、この本を君に託したんだ。敢えて、君の事を酷く書いたのには、きっと大きな理由があるのだろう。そして私はこの本を見つけた時に、すぐに最後まで読んだ。だが、私では理解出来なかった。この本は、日記の様で日記ではない。彼女らしい文でもあり、けれども何かが隠されている様な違和感がある。きっと、お母さんは、君なら理解してくれると信じて、この本を書いたのだよ」

 

 「そうだとしても、私なんかに、解るはずない。人間じゃない自分なんかに!」

 

 「燈、私が何で、この本を捨てなかったか、分かるかい?君なら、意味のあるものに出来る、この本を。君しかいない、そう思ったからなんだ。私はそう信じたんだ」

 

 「だから、何?人間じゃないものと言われた私の気持ちなんて、アルマになんか分からないよ!」

 私の手はコップを振り払った。

 燈、と書かれたコップは床に叩きつけられ、粉々に砕けた。白いミルクティーが容赦無く、辺りを汚した。

 

 アルマは強く、私の肩を掴んだ。

 「関係ない!お前はもう私の娘だ!愛する娘だ!人間かどうかなんて、何も関係ない!」

 

 アルマの迫力ある言葉が、私の目を通って頭の中に直接響いた。

 

 「燈、君は世界の事を何も未だ知らない!何故、燈の様な人工人間が作られたのかも、燈のお母さんが、どんな思いで君を誕生させたのかも!そして、どんな思いで……。世界が本当はどれほど悲惨で、残酷で無慈悲なのか!私は、私は!君と海で出会った時に、奇跡を信じたんだ!この世界にはまだ奇跡がある、と!だから私は、今日までこの本を捨てられなかった!本当は、君に、辛い思いをさせたくなかったから、何度も捨てようとした!見せない方が幸せなんじゃないかと、何度も迷った!奇跡が起こったのだとしても、お前の辛い顔を見たくなかった。お前の辛い顔を見るくらいなら、奇跡なんて私が断ち切ってやると。だから、本を、隠したままにしたんだ、私は。でも、捨てられなかった。それは、奇跡とか関係無く、お前と、お母さんの唯一の、繋がりでもあるから」

 

 アルマは私から手を離すと、事切れた様に、酷く項垂れたままだった。

 私も酷く疲れ、俯いていた。

 私とアルマは暫く、そのままだった。

 

 風の、窓ガラスを叩く音だけが、部屋に響き続けた。

 

 「アルマ、辛い思いさせてごめんね。もう大丈夫、私は、ちゃんとこの本に向き合う」

 私の体には、それなりの力が戻っていた。

 私はテーブルの上の本を、アルマの前から手繰り寄せ、しっかりと抱き抱え、部屋へと向かった。

 

 階段を登り終わる頃、下からアルマの啜り泣く声が聞こえた。

 私は立ち止まらず、淡々と足を進めた。

 

 ベッドの上でうつ伏せになると、早速と本を開く。今までで一番早く、文の上で目を走らせた。

 それから私は、一夜のうちに本の全てを読み終えた。

 まだ理解が出来ていない部分は多いが、たしかにアルマの言う通り、違和感がまとわりつく。それは文の良し悪しなどでは無かった。人間の一貫性が複数個、それぞれが完全に存在している様な感覚だった。互いに邪魔をせず、それでいてしっかりと主張されている。それはとても芸術的な、余りに芸術的なものだった。

 「人間性で出来た、織物みたい」

 私はそう言って、本の上で力尽きていた。

 

 夢が始まる。

 広い黒の夢に、私は包まれていた。

 その中で、私はずっと考えていた。

 何で、私は一人なんだろう、と。

 気づけば、周りには星の様な煌めき達が沢山いて、それらは互いに光で繋がっていた。

 私も、と手を伸ばしても、それらの遥かなる遠さを、まざまざと知るばかりだった。

 

 煌めき達はどうしようもなく遠く、私は果てしなく一人だった。

 

 じゃあ、私は黒と繋がろう。

 私は、指からゆっくりと黒になる。

 その中で感じたのは、黒にも暖かさがある、という事だった。

 

 黒い視界が破れ、眩さが目の前に迫ってくる。

 

 「おはよう、燈」

 アルマが、いつもの様にカーテンを開けて起こしてくれた。

 

 眩い陽の傍に佇むアルマに、私もいつもの様に笑顔で言った。

 「おはよう」

 そして、付け加えた。

 「良い朝だね」

 

 私は、いつもの朝ごはんの時を過ごすと、アルマに、本への見解を述べた。

 「あの本には、沢山の人間性が居る。研究者だったり、一人の女性だったり、夢見る子供だったり、本が好きな人だったり、そして母親だったり。そんな人間性が、織り混ざって本が出来てる。多分、その人間性を一つずつ解いていけば、何か分かる気がする」

 

 「複数の人間性、立場か。どうやら、私の読みは正しかったみたいだね。この本を読み解けるのは、間違いなく、燈、お前しかいない。お前なら、あの人の母親であるそれを感じられるだろう」

 

 「分からない。けど、やってみようと思う。アルマ、私思ったんだ」

 

 アルマは私の言葉を聞くと黙って俯き、私と目を合わせない様にして、静かにキッチンへ消えていく。

 暫くすると、燈とマジックで書かれた新しいコップを用意してきて、それにミルクティーを入れて私の前に置いた。

 

 アルマは、椅子に座っても私と目を合わせないで、ミルクティーを啜る。「美味しい」とだけ言った。

 

 アルマは私の、決断を悟っていた。

 それでも私は続けた。

 「もし、私がこの本に意味があると思うなら、この繋がりを用意してくれたお母さんの行動もきっと、意味がある事になる。でも私がこの繋がりに意味がないと思ってしまったら、お母さんの行動の意味も無くなってしまう。私は、一つたりとも、私のように意味の無いものになって欲しくないの」

 

 アルマは険しい表情で言った。

 

 「自分に意味が無いなんて言ってはダメだ。お前は未熟だ。もっと自分を大切にしなければ」

 そう言って、またキッチンへ向かおうとする。

 

 私はその背中に、明るく言った。

 「ううん、良いの。意味が無くても生きているって事を自分で認められたから。何も悲しくないし、そんな事なんてどうでも良い。今、生きているから。意味が無くても生きていられる、こんなに嬉しい事は無いの。意味を探さなくていいなんて、私は恵まれてる。なんて最高な人生なんだって。だから、アルマが泣くとさ、私が生きられない気がするから、もう、なるべく泣かないでね」

 

 アルマの肩はもう揺れていた。

 

 「だから、そういうのがダメなんだって」

 私は明るく笑って言った。

 

 「泣いてないさ、生意気な事ばかり言うもんだから、笑えてきただけだ」

 アルマはそう言いながら、目を袖で擦った。

 

 私はその背中に、旅立つ事を告げた。

 アルマは、「頭が良くて、好奇心の強いお前は、いつかそう言うと思ってたよ」と言って、振り返って笑顔を見せた。

 

 私は早速準備に取り掛かった。

 僅かな食べ物、着替え、そして本をリュックに詰め込んだ。

 私は自分の部屋を閉じると、廊下から脇目も振らずに玄関へ向かった。

 

 外で待っていたアルマは、こちらに背を向け、空を仰いで立っていた。

 空は青く、風もなければ白い雲も無かった。広大な青だけがある世界だった。

 

 「綺麗だね、空」

 私が言うと、アルマは嬉しそうに笑って言った。

 「燈、君は変わったな」

 「もう、雲を数えるのは卒業したよ」

 

 アルマはまだ背中を向けたまま言った。

 「燈。次の誕生日まで、もしくはその次の誕生日までなのかもしれない。何をするんだい?」

 

 私は笑って言った。

 「ふふ、十分だよ。十分幸せだから、死ぬのなんか怖くない。でも本が沢山読みたい、そしていつか、本を書いてみたい。私の好きな言葉で、本を埋め尽くしてみたい。そうしたら、この本を書いたお母さんの事も、もっと分かる気がするから。私が本を書いたらさ、アルマに真っ先に見せにくるね」

 

 「ああ。楽しみに待ってるよ」

 アルマは私を抱きしめ、背中をぽんぽんと叩いた。

 「行ってらっしゃい。だが、これだけは約束してくれ。誰にも、人工人間の事と赤い本の事は言っちゃ駄目だぞ」

 

 「うん、行ってくるね」

 

 「ああ、くれぐれも気をつけるんだぞ。そして必ず帰って来なさい、これも約束だぞ」

 「うん」

 

 私は、家が見えなくなると、海と森の向こう側が左右に見渡せる丘へ向かった。

 

 海を見下ろすと、黒い鉄くずや大きなゴミが、海岸から数キロ先の方まで滞留している。

 森の向こうには、灰色に輝く鉄の建物がいくつも聳え立つ。

 私はどちらへも行った事が無かった。

 この広大な草原と森だけが、私の住んできた世界。

 カプセルの中と、アルマの世界に閉じこもった私。

 今度は、私の方から会いに行く。知らない世界に。

 

 私を楽しませてくれよ、世界。

 


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