第2話

 私は、海の近くに椅子を置いて座る。そして空を見上げ続けた。私は、空を見上げるのが好きだった。

 はっきりとした白と青。横から来る海の音。強かったり弱かったりする、肌と同じ温度の風。変な匂いのする空気。

 それらがオレンジを超えても、私はそのままでいた。黒く、つまらないものと感じる頃、輝く星を気にも止めずに私はアルマの家に戻る。

 木のドアを開け、私は黙って部屋の真ん中にあるテーブルにつく。一つしかない明かりに照らされた狭い範囲の中に、いつも収まっているアルマの背中をまた黙って見ていた。


 「燈、今日はどうだった?」

 アルマは何かをしていた手を止め、ゆっくりと振り返りながら笑顔を見せて言った。


 「昨日より、雲が三十個多い。風も百八十六回多く吹いた」

 私はアルマの笑顔に散りばめられた皺の数を、頭の中で数えながら言った。


 「はっは、今日はそんなに多かったんだね。ご苦労様」

 アルマはまた背を向けて、コップを取りに行く。その背中は私が出会ってからの約九年の間に、どんどんと曲がっていった。そのせいか、振り向く速度も、私にコップを差し出すまでの時間も、年々遅くなっていた。


 「はい、ミルクティーだよ」

 側面に燈、と黒いマジックで書かれたコップが私の前に置かれる。

 コップの八分目位まで入っているミルクティーの、白い湯気。私はその湯気を鼻に近づけ、甘い匂いを頭に届かせる。胸が暖かくなる感覚を呼び覚ましながらミルクティーを静かに啜った。


 「なあ、燈もそろそろ情緒というものを覚えてみないか」

 対面の椅子に腰掛け、頬杖を軽くつきながら、にこにこしてアルマは言った。


 「情緒?」

 そう聞き返してミルクティーを啜る。


 「ああ。何でもいいんだよ、例えば、空が青くて気持ちいいとか、風が優しく撫でてきて、空を飛んでいるみたい、とか」

 アルマはそう言って、両手を広げたり、目を瞑りながら天井を仰いだりした。


 「アルマから貰った本には、そんな事は書いてなかったよ。青色が視神経を通ると、快感を得るの?風に、撫でてくる手があるの?」

 私はコップを置き、頭の中でよく考えながら、そしてアルマの言っている事を疑いながら、首をかしげて言った。


 「はっは、いやいや例えだよ、例え。でも、そうか、うちには研究の為の本しか無かったね」

 アルマは笑うと、白い髭をいじりながら、何かを考えている風に指を動かした。そして少ししてから、思いついた様に一人で頷くと、楽しそうな顔で私に言った。


 「明日、何か流れ着いてないか浜辺で探してみよう」

 アルマはそう言い終えた途端、真顔になる。そしてそれを私から逸らして横を向いた。


 私はその顔を見つけてしまい、その拍子に、忘れていた筈の事を一年振りに思い出した。

 明日は、私の誕生日。明日で私は十六歳。

 私は、どうしようもなく無気力となり、持っていたコップより手前の方に、目線を垂らすしか無かった。


 アルマは、そんな私に気づいた様で、椅子からゆっくり立ち上がると、こちらへ来て私の左側に立った。そして黙って私の頭に手を添えて、彼のお腹らへんへゆっくりと引き寄せた。そして私の髪を撫で下ろしながら、またゆっくりと囁く。

 「大丈夫だよ、燈」


 斜めになる視界の中でも、私の視点は変わらなかった。

 大丈夫という言葉が、私の頭に留まらずにどこかへ過ぎ去ってゆくのを感じた。

 代わりに、無駄、無情、無意味、そんな言葉が頭に浮かんでくる。


 「さあ、ご飯にしようか」

 私の頭の上からそう話しかけるアルマが、私の側を離れて台所に向かおうとする。


 「いらない」

 私はアルマの方を見ずにただ答えた。

 さっさと眠ることにした私は、おやすみとだけ言って、出来るだけ階段の上の方を見る様にして、そして階段を登る足をいつも通りの早さになるべくして、部屋へと向かった。


 四畳程の私の部屋。部屋にはベッドだけがある。私はドアを開け中に入ると、普段開けている窓を全部閉め、木の雨戸も閉めた。部屋が真っ暗になった。それでも、頭の中に見える無駄、無情という言葉は隠せなかった。むしろ、より大きな言葉に成長している気がした。

 私は何も考えない様に集中して、ベッドに仰向けで倒れ込んだ。着ていたワンピースもふんわりした後にだらんとしている感じだった。

 暗い天井を見上げながら、私の頭の中をぶちまけられれば良いのに、と思った。そうすれば、何も感じなくて済むのに、と。

 横になって少しして、眠りが迎えに来ると、体が浮いた感じになって、そのままでいると、やがて私は夢を見始めていた。


 変な夢だった。壮大な広さの黒、そこに程よい明るさが散りばめられている。私はその景色が、何だかつまらないものだと思いながらも、その前に座ったまま眺め続けた。

 暫くすると、私は閃いた。

 つまらないものなら、変えてしまえばいいのだ、と。

 私は手を伸ばし、その黒を指でかき混ぜる。すると、波打つ黒のその波間から、別の色が現れた。黒ずんだ赤だった。

 その赤は、溢れる様に周囲の黒を塗り替えていった。

 刹那、私は痛みによって飛び起きた。

 「ぐっ……う」

 上半身だけ起こしたまま、両手を胸に強く当てて、震えている体に抵抗した。私の体は、足のつま先から首までの全ての関節で痛みを発していた。血が通る度、針を刺される様な痛みが走る。痛みの度、汗がひたすらに浮き出て、服も髪も濡らし始める。


 私は、一年振りの憎たらしい苦しみが始まる中、ただただ目を瞑り、体を動かさない事に注力する事しか出来なかった。体を動かしてしまうと、破裂した様な痛みがたちまち襲ってくるから。

 階段をアルマがゆっくりと上がってくる音がする。その、とん、とんという音が鼓膜を揺らし、その揺れが体を這う様にして行き渡り、ついでにじわじわと痛みを各所で強めていった。その痛みで、私の目は見開かれる。目と鼻と口からはだらだらと水分が溢れ、やがて頭の裏の方まで痛みが突き抜ける。まるで、背骨が頭蓋骨を貫いた様な、そんな衝撃を毎秒味わい続ける。

 これが、苦しみの本番。

 「あ……あっ」

 目が頭の内から押し出される様な酷い感覚と、絶え絶えの息の中で、アルマへの助けの声を絞り出した。

 アルマが、のんびりと私の部屋のドアをノックする。勿論、私の体もその衝撃に反応する。私は堪らずにベッドへ上半身を投げたが、失神すらさせないとばかりに暴れる全身の痛みに翻弄された。ベッドがぎしっと鳴る音を感じて、体が痙攣している事に初めて気づく位、私は朦朧とし始めていた。

 部屋に明かりが差し込んだのを感じて、ドアが開いた事を察知した私は、最後の力とばかりに目をそちらに向けた。アルマの声は聞こえたが、それを聞き取る余裕など無かった。廊下の明かりを背負い佇むアルマの輪郭を視界に捉えた所で、私の意識は漸く消える事が出来た。

 

 そしてまた夢が始まった。

 私は、真っ黒なものに飲み込まれ、ふわふわと浮いていた。それは海に浮かんだカプセルの中とは違う、些細な居心地の良さも用意されていない感覚だった。突然何かに叩きつけられる気がして、鼓動が無駄に早くなるのを感じて、ただそれだけ。何も起きずに、ただただ、そうして浮かんでいるだけだった。

 暫くすると、私は理解したか閃いたかで、この状況を腑に落とす事が出来た。

 私は、黒の中でしか生きられない、という事だろう、と。

 

 日差しをわざと当てられた気がして、私は眉間に皺を寄せる。


 「おはよう、朝だよ」

 明るみの中からアルマの声が聞こえる。


 瞼が酷く重い。陽で目が痛む。ざあざあと鳴る波の音で耳が痛む。私は堪らず上半身を起こした。頬をかすめる風は暖かいが、ひゅうひゅうと私の髪を靡かせるから、頭が揺らいで痛む。けれども、そのどれもを感じられるという事が、私の生きている証でもあって、そこまで嫌では無かった。


 「大丈夫、もう注射は打ったからね。気分はどうだい?」

 アルマが私の背にそっと手を添え、水が入ったコップを差し出しながら聞いてきた。


 「うん、大分良い」

 私は水を一口飲んで、胸に溜まる重い息を吐いた。そして今度は私から聞いてみる。


 「前の日に発作が出始めるなんて事無かったのに、何で?」

 「きっと、気まぐれだろう、気にする事はないよ」

 アルマは窓辺に向かい、海の方を眺めた。私と同じ様に、アルマの白い髪が靡いた。

 いつまでもそうしているアルマを見て、私は悟ってしまった気がした。


 私はもうすぐ動かなくなる、と。

 川で釣ってきた魚が動かなくなるみたいに。

 魚はナイフで腹を切られると、弱って動かなくなる。アルマがいつもそうしている。

 ナイフで腹を切られれば酷く痛む。だから私も、酷い痛みを感じ過ぎれば、きっと動かなくなる、永遠に。

 初めて私が発作を起こした後、アルマは私に、その痛みの事を教えてくれた。

 私の体は、人工タンパク質によって滅ぼされている、と。そしてそれはいつも決まった時、私の誕生日に起こる。誕生日というのは、アルマが私をカプセルから救ってくれた日。

 燈という名前の君が誕生した日、だから誕生日をこの日にしよう、とアルマは言っていた。

 何故、決まった日なのかは分からないけど、治す薬を必ず開発する、とも言ってくれた。

 

 でも、今は言ってくれない。

 だからきっと、そういう事なんだと思った。

 

 アルマの足元らへんをぼーっと見ていると、アルマが振り返りながら言った。

 「本を、海で探してくるよ」

 アルマは目を細くさせて、笑っていた。

 私はアルマの顔が向き終わる前に、笑顔でいた。

 「やった、ありがとう」

 「燈はゆっくり休んでいなよ」

 アルマはにこにことしながら私の頭を撫でて、部屋を去った。


 何だか、いつもよりがらんとしている様に感じる部屋の中。部屋にある一つ一つに目を止めながら、ゆっくり深呼吸をした。そして窓辺に立ち、下を見る。アルマが丁度行く所だった。


 「アルマ、気をつけてね」

 私の小さな声を背中で受け、アルマは少し振り返って手を振ってきた。そして背中を丸めながら、海の方へ歩いて行った。

 

 私はアルマを見送ると、すぐに一階へ向かった。一階にはリビングと、アルマの部屋がある。目的は、アルマの部屋だった。

 私はアルマの部屋に入った事がなかった。入ってはダメだと言われていたからだ。何があるか聞いても、アルマは本だけだよ、と言うばかりだった。けれども、そうではない事は知っていた。

 アルマが部屋から出る時に、中が僅かに覗けるからだった。

 部屋の真ん中には大きなテーブルがあって、その上には瓶が沢山置いてある。そしてその両脇には、沢山の本が寝かされている。そして、アルマの部屋が開く時にはほんのり、花のような甘さと鉄の冷たさが混ざった様な匂いがする。

 

 私はアルマの部屋の前に着くと、玄関の方を見ながら、ゆっくりとドアノブを回した。

 すんなりと開くドア。

 中をゆっくり覗きながら、少しの間立ち止まる。そして、怒られる覚悟と言い訳を準備して中に入った。


 窓から伸びる陽の明かりが、テーブルを照らしている。

 テーブルの照り返しに目が痛み、埃っぽさで咽せる。長居は出来なさそうだと思い、手近な所から早速、探索を始めた。

 茶色や黒の本達。動物学や植物学といった生物学の本。横に寝かされたその本の塔の背をさらっと見た。殆ど読んでいるものばかりだった。私は本の塔に見切りをつけて、何か面白いものが無いかと、他の所にも目を走らせた。テーブルの上には、青や深緑やピンクの液体が入った瓶が沢山並んでいる。何も書かれていない瓶達の匂いでも嗅いで回ろうとも思ったが、毒物の可能性を考慮して諦めた。

 部屋の奥に一歩進む度、咳き込みが酷くなった。私の横で、沢山の塵が陽に晒されひらひらと舞っている。

 テーブルの向こう側、壁の方に本棚があった。ドアの影になっていたから、その存在に今まで気づかなかった。

 床に散らばるメモ書きをなるべく踏まない様にして、本棚へ歩み寄る。本棚の高さは天井まであり、私の二つ半程の高さだった。幅は私が手を広げるよりも長い。びっしりと本が詰まったその本棚は、倒れてきたら一瞬で押し潰される程の重厚感を与えてきた。

 私は本棚の前で立ち止まって、テーブル向かいに立つ本の塔を見た。

 私は無意識に伸ばした人差し指を、本棚の本達の背に這わせた。そして、ある事に気づいた。

 この本達は、全て読んだ事がある。更には最近読んだばかりの本もあった。

 私はもう一度、本の塔を見る。大小の本が乱雑に積まれ、あちこちに背を向けている。

 「何で……」

 私は本棚の本を一冊取り、テーブルに置いた。頭に浮かんだ仮説を確認する為、一度全て出してみた。

 すると、真ん中の一段の、棚の奥の板に左右一つずつ、金属製の小さなつまみがあった。私はそれを押したり引いたりしたが動かなかった。がちゃがちゃと乱暴にしてみてもびくともしなかった。

 「何か分からない事がある時は、もっと俯瞰して見た方が良い」というアルマの言葉を思い出し、私は後ろに下がる。そして、答えを出した。

 両手を目一杯伸ばし、両方のつまみへ伸ばす。顔に棚板を食い込ませてやっと、指先がギリギリ触れる。そしてつまみを同時に力一杯下げた。すると、板が下がった。

 「やった」

 ざざっと音を立て途中で引っかかったが、板が半分くらい下がった。板の向こうを見ると、真ん中に赤いものが見えた。

 私は夢中になって一生懸命に板を下げる。本を初めて読んだ時の様に、とてもわくわくしながら。

 がたっと、最後まで板が下がると、赤いものが、どんっと棚板に倒れてきた。

 それは、表紙の赤い本だった。それは私の顔以上に大きくて、私の手のひらを広げた程の厚みがあった。

 私はすぐさま手を伸ばし、両手で抱え込んだ。鼻息が荒くなり、心臓が早くなり、にやけが止まらなかった。重さも最早気にならなかった。

 赤い本をテーブルに置くと、すぐさま棚を元通りにし、そそくさと部屋を出て、階段を駆け上がり、本を抱えたままベッドに飛び込んで、足をばたつかせた。体の痛みが気にならない程、私は興奮していた。


 色も、大きさも、見た事がない本だった。そしてもう一つ、私を興奮させていた事があった。それは、表紙にも背にも、何も書かれていない事だった。そのせいで私は、何について書かれているのかという期待を頭一杯に膨らまされるしかなかったのだ。


 無我夢中のまま、早速と本をベッドに寝かし、厚みのある固い表紙をめくった。中身は一枚一枚だと透けてしまう程にとても薄く、けれども簡単に折れ曲がったりしない、とてもしっかりとした紙だった。


 書かれていた一行目。私は早速釘付けになっていた。


 「十月二十一日。今日は燈の誕生日」

 私は、ぐっと手に力を込めて、表紙を握っていた。

 「え……」

 私は急いで読み進めた。

 「燈が生まれて早三年になった。寝返りも出来なかった赤ちゃんの頃が、つい昨日の事みたいに感じながら、立って歩く姿をいつまでも見ていた。いつのまにかどんどん大きくなっていく。今日は一人でおままごとをしていたみたいで、大根のおもちゃを私に手渡してきた。お母さんみたいにがさつな人にならずに、料理が好きな可愛いお嫁さんに育ってね」と、書いてあった。

 大根のおもちゃも、おままごとという行為の記憶も無かったが、名前は私と偶然にも同じ燈だった。

 自分の名前も、どこから来たのかも分からなかった私は、ただ名前が同じだというだけで興奮していた。そして僅かに期待していた。この本に書かれている燈が、私の事ではないのか、と。私の過去が、分かるかもしれない、と。

 

 本の中の燈はどんどん大きくなっていった。四歳、五歳と進むにつれ、出来る事も多くなる。話が出来る様になったり、家の壁に絵を描いたり、怒られる様になったり、歌を歌ったりするようになった。

 しかし、私の知っているガラスのカプセルの事は一つも書かれていなかった。そして勿論、書かれている事全てに対して、記憶の片鱗僅かすらも反応しなかった。

 

 それでも、一粒子程に微塵となった期待だけは手放せなかった。

 

 勿論、アルマにこの本のことを聞く事は出来ない。間違っても、勝手に忍び込んで本を盗んだ、なんて言えない。

 だから私は、本を閉じて深く深呼吸をした。そして、また表紙を捲り、一ページ目からゆっくりと読み進める事にした。改めれば、何かが分かるかも、と。

 しかし、たった数ページの所でどうしても理解出来なくなってしまい、検証出来なくなってしまう。それは例えば、私の宝だとか、愛おしいとか、そういった言葉だった。今度は、そういう所が気になってしまう。どうにも理解出来ない燈への言葉が沢山並んでいるから、私はいちいち頭を悩ませる。今まで読んだ生物学に照らし合わせたりしたが、解決が出来なかったのだ。

 私はくたびれた様に、本に突っ伏す。本にべたっと顔をつけて、部屋の壁をぼーっと眺めた。

 私の近くで、陽の塵が呑気に空中散歩をしている。

 

 私は思った。壁の輪郭もベッドの輪郭も、塵と本の輪郭もはっきり見える。なのに、この本の内容は、輪郭が見えてこない。分からない言葉ばかりで。

 

 私の熱量が下がり始めると、今度は体の痛みが増してくる。水を一口飲んで、窓から見える雲を見つめた。今日の雲は穏やかで、居座ったままのものが多かった。

 私は読書を一旦諦めた。表紙を閉じて、ベッドの下に本を隠した。万が一にでも、アルマに見つかる訳にはいかないから。見つかったら、きっと取り上げられてしまうから。

 ベッドへ横になり、毛布を手繰り寄せ抱きしめながら、目を瞑る。「愛おしい」と口に出してみながら、その意味を想像した。

 

 「燈、そろそろご飯だよ」

 近くから聞こえるアルマのゆっくりとした声。窓の閉まる音と、カーテンのふわっとした音。

 目を開けると、既に点けられていた明かりと、ベッドの高さまで屈んだアルマの顔が見える。少し疲れた様な瞬きと、ジョークを言いたそうにした口元だった。

 「うん」

 手を突いてゆっくり体を起こすと、カーテンの隙間からオレンジ色が見えた。途端に出た頭の痛みを堪えながら、ベッドからゆっくり降りた。

 膝を痛ませながら立ちあがろうとするアルマの手と肘を支えた。

 アルマは立ち上がり終えると、「燈、凄いぞ!今日は鮎が四匹釣れたんだ」と言った。アルマの顔は、いつもの陽気なそれだった。

 「凄いね!」と言う私の顔を、アルマは少し見て、ニコッと笑った。

 アルマの手を離した私の手の平は、少しだけ汗が滲んでいた。

 そして、私の頭の中には、赤い本で見た「凄いね」という言葉が浮かんでいた。

 

 一階に降りると、料理が既に並んでいた。鮎に人参と小松菜が添えられたお皿と、コップに入ったお水、ナイフとフォークが綺麗に並べられていた。窓枠の形のオレンジが、それらに明るみを添えている。

 「いただきます」

 「いただきます」

 鮎の身をナイフでほぐして、フォークに乗せて口に入れた。程よい苦味と塩味、土の香りがして奥深い味で美味しい。

 「今日は、海で見つけられなかったよ。ごめんね」

 「ううん。ありがとう。明日、自分で探してみるよ」

 「よしなさい、危ないから」

 「平気だよ、危ない事はしないから」

 「なら、せめて注射だけは打って行きなさい」

 アルマの言葉に、私はフォークをゆっくりと置いた。

 いつもなら、誕生日の夜だけだった発作。今年は前の日の夜から。そして、それが明日も続く、という事をアルマが明確に告げた瞬間だった。

 それは、確実に状態が悪化しているという事。

 「燈、良く聞いて」

 アルマの目を見つめた。

 「いつか必ず、私が治す薬を作ってあげるから。約束だ」

 アルマの目はしっかりと私の目を見ていた。

 「約束?」

 「ああ。未来を作る魔法の言葉だよ。大切な言葉だ」

 「また、本に書いてない言葉だね」

 「そうだね、研究の本には書いてないだろうね」

 「私も、もっと言葉を知りたい」

 「ああ、燈なら本さえあれば、沢山の言葉を覚えられるよ」

 アルマはそう言って、おどけたふうに目を大きくして、笑顔で言った。

 私は、オレンジ色をしたアルマの目尻に、反射するものがあるのを見落とさなかった。

 私は、黙って笑顔を返した。

 

 鮎の身をフォークに乗せて口に運ぶ。苦味も塩味も感じなかった。ただ胃に落とす感じで飲み込んだ。

 

 アルマは俯いて、夢中で鮎を口に運びながら美味しそうに頷いていた。

 そんなアルマの後ろにある壁に貼り付けてあるカレンダーがやけに目に止まる。

 今日は、二千四十六年十月二十一日。

 この家に来て一回目の誕生日、二千三十八年に私が誕生日を迎えた次の日、アルマがカレンダーを捨てようとしていたから、私は止めた。

 「カレンダーがあった方がいい。その方が一日一日を大切に出来る気がするから」と。

 アルマは、「たしかに、その通りだね。私が間違えていたよ、すまない」と言って、私の頭を胸に抱き寄せた。

 アルマは胸を何度か震わせて、息を吸い込んでいた。

 そんな事を思い出すのも、もう何回目なのか分からない。

 

 アルマは年老いて背中が曲がる。

 私の発作は年々悪化する。

 誕生日なんて、アルマにも私にも必要無い。

 未来を作る言葉があるなら、何度でも言うからやってみせてよ、と薄暗くなったオレンジ色の窓に思った。

 

 オレンジは、人参も小松菜も、鮎も私達も等しく照らしていた。

 

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