同棲


 ◯


 大粒の雨が私の体を打ちつける。

 バイト先を出るまでは雨は降っていなかったが、自動ドアを跨ぎ数歩進んだところで、まるで雨雲というバケツの底に穴が開いたように雨は降ってきた。辺りはすぐに地面に跳ねる雨で白く霞んだ。目を開くことも難しく、半目になって私は家路を走っていた。見慣れた景色が流れているはずだったが、雨に霞んだ景色のせいで、まるで鏡合わせの世界に迷い込んでしまったようだった。

 走り続けていると不意に柔らかな橙色の灯りが横目に見えた。私は立ち止まった。その灯りは喫茶店の窓から漏れているようであった。

 近づいていくと小さな洋風の一軒家であることがわかった。四階建てのアパートに挟まれ、窮屈な土地に立っているためか、やけに細長く奥行きがあるように見える。表に出された電飾看板には「純喫茶『昴』」と書かれている。

 私は雨宿りと休憩がてら中に入ることにした。扉を開けるとカラコロっと乾いた音がして店の奥から店主であろう人が出てきた。イートンコートに蝶ネクタイ、サロンエプロンといういかにも喫茶店と言える格好をしており、髪は白髪に染まっているが背はシャンとして案外若いのかもしれないと思った。

「いらっしゃいませ、お好きな席にどうぞ」

 店主はテキパキと言う。

 私は窓際の席に腰を下ろした。何か頼もうと思いメニュー表を探していると店主が歩いて来た。

「うちはメニューを置いてないんですよ。置いてるのはブラックの珈琲だけなので」

 そう言ってはにかんだ店主を見て私は「これがイケおじというやつか」と思った。

「それじゃあ、珈琲を一杯ください」

 私が人差し指を立てて言うと店主はにこりと笑い「かしこまりました」と言ってキッチンに戻って行った。

 しかし攻めた店だな、と思った。最近はこういう独特な店も増えて来たと思うがメニューが一つというのは初めて来る。

 私は窓の外を見つめた。相変わらず雨は降っているが、雲は分厚くないのか所々で雲の隙間から夕焼けの光が漏れ出ている。

 私は首を返し店内をぐるりと見渡した。内装は至って普通と言える店内であった。キッチンに沿ったカウンター席があり、店の中央には机を挟むような席、そして窓際には固定された机を挟むようにして革張りのソファが数セット用意されていた。壁に目をやるといくつかの絵が飾られていたがカウンターの中央の上、キッチンの真上に能面が飾られているのに気づいた。私はぞくりと、背筋をなぞられるような不気味な感覚に襲われた。能面の目が私を見つめて全てを見透かされているような気がしてたまらなかった。

 私が厭な汗を拭っていると店主が珈琲を持ってきた。

「珈琲になります」と言って机に置いてくれた。


 ◯


 一時間ほど時間を潰した私は会計を済ませた。店を出る時、店主にお礼を言ったがその時に店主と目があった。私はぞくりとした。あの能面に見つめられているような、私の全てを見透かしているような目であった。私は早足に店を出た。


 外は雨が止んでおり、雨の後の柔らかい匂いがした。

 私は家路に着いたが、あの能面と店主の最後の顔が頭から離れなかった。


 私は家に帰ると「ただいま」と呟いた。もちろん「おかえり」は無い。

 私はそそくさと寝床に潜り込んだ。

 二時間ほどすると明美が帰ってきた。部屋に来るとさっと寝巻きに着替えてベッドに入ってしまった。本でも読んでいるのだろう。時々、ふふふっと可愛い笑い声が聞こえる。

 こんななんでもない毎日が私は好きだ。それだけで幸せだと思う。そんなことを思いながら私は眠りに落ちた。

 私は明美の話し声で目が覚めた。誰と話しているのだろうか、終始何かに怯えているような声で「うん」とだけ言っており少し心配になった。

 明美は電話を切ると早足に寝巻き姿のまま玄関から出て行ってしまった。しっかりと鍵を閉めていくところが明美らしい。彼女はしっかりしているから、私はそんなところに惚れたんだと思う。

 しばらくすると、玄関の方からカチャリと扉の開く音が聞こえた。明美が帰って来たのだろうと思い廊下の方に目をやったが部屋に入ってきて目に入ったのは寝巻き姿ではなく、サロンエプロンを巻き、イートンコートを着た人物であった。

 私はドキッとした。そんなはずはないと思った。私が顔を覗かせると、そこには純喫茶にいた店主が立っていた。彼は鼻をすんすんとさせるとベットの方まで歩いて来て、私がいるベッドの下を覗き込んできた。店主の顔は仮面のように固まって表情ひとつなかった。

「この、外道が」

 彼がそう言うと表情がない顔がずるりと剥がれ落ちた。中からは目も鼻も無く大きな口だけがある顔が出てきた。私は悲鳴をあげる暇もなく彼に喰われた。


 ◯


 その日はとても雨が降っていました。私は大学の図書館で雨が止むまで待とうと考え時間を潰すことにしたのです。

 一時間ほどすると雨足が弱まってきたので私は帰ることにして、お気に入りの傘をさして家路につきました。傘をさしていると自分だけの空間ができたような気がして少しだけ強くなったような気がします。

 私が歩いていると、四階建てのアパートに挟まれた喫茶店が見えてきました。ここは私が最近よく足を運ぶ「純喫茶『昴』」さんです。

 二週間ほど前に見つけて以来、毎日通っています。

 扉を開けるとカラコロっと乾いた音が響きました。すぐに喜兵衛さんが出てきました。

「あら、お嬢さん。いらっしゃい」

「こんにちは、今日も来ちゃいました」

「ありがとうね、それにしても可愛らしい傘持ってるね」

「ありがとうございます」

 喜兵衛さんはいかにも「イケおじ」と言った感じの人であり不思議な人でもありました。

 初めてお店に入った日、私が扉を開けると喜兵衛さんはポカンと口を開けて呆然としていました。

 私が不思議に思っていると喜兵衛さんは私をカウンター席まで案内してくれて珈琲を出してくれました。

「いや、久しぶりのお客さんだ」っと言って喜兵衛さんはニコニコとしていました。

 昴では珈琲だけしかメニューが無いことや、喜兵衛さんの優しさもあって私はそこに通うようになり、通っていく中で喜兵衛さんのお名前も知りました。

「珍しいでしょ。この時代に喜兵衛なんて」

「珍しいですね」

「しかし、お嬢さんが入ってきた時はびっくりしたよ。君は純粋な子なんだね」

 そんな不思議な会話もありました。

 いつ行っても、私しかお客さんがいないことも私にとっては行きやすかったんです。


 その日も喜兵衛さんは私の分と自分の分の珈琲を持って来てくれました。喜兵衛さんは席に着くとおかしなことを言い出しました。

「お嬢さん、最近なんだか困ってる事はないかい」

「困ってること…無いと思います」

「そうか、変なことを聞いてしまうけど恋人はいるかい」

「居ませんよ、おかしなことを聞きますね」

 私がそう言うと喜兵衛さんはイートンコートから一枚の写真を取り出して見せてきました。

 その写真にはこのお店の窓際の席、革張りのソファに座る一人の男性でした。見たところ私と同じくらいの年でしょうか。

「この人、知ってるかい」

「んんん、知りませんね」

「そうか」

 そう言うと喜兵衛さんは何かを考え込むように顎を触って俯いてしまいました。

「この人がどうかしたんですか」と私は尋ねました。

「この人はね今日来たんだよ、今日だけは色んな人が来ることができるからね」

 喜兵衛さんはまた不思議なことを言っています。喜兵衛さんは「少し気になることがあるんだよ」とも言っていました。

 私が喜兵衛さんを眺めていると、喜兵衛さんはパッと顔を明るくして言いました。

「大丈夫さ!なんとかしよう」

「お願いします!」と私は訳もわからずとりあえずお願いしてみました。


 ◯


 一時間ほど話したでしょうか、私は会計を済ませ喜兵衛さんに「また来ます」と言って店を出ました。私が店を出る時に見せる喜兵衛さんの顔はとっても優しくてなんだか嬉しくなります。


 外はすっかり暗くなっていました。雨は止んでいて濡れた地面が街灯に照らされぬらぬらと輝いています。

 私は読みかけの本があったので早足に帰宅しました。


 家に帰り玄関を開けた私にムッと洗濯物が生乾きしているような臭いが襲ってきました。洗濯なんて回してないはずです。おそらく私の服でしょう。傘をさしていたとはいえ少しだけ濡れましたから。

 私はすぐに寝巻きに着替えてベッドにごろんと横になりました。ベッドに寝転んで本を読むというのは至高の癒しになります。


 私が本に夢中になっていると急に電話が鳴りました。誰からだろうと思って携帯を見ましたが、画面は真っ暗のままで何も見えません。おかしいなと思いながらも「この電話には出なければならない」という事がなぜかわかりました。私は着信ボタンに指をかけます。

「お嬢さん、大丈夫かい」

 それは喜兵衛さんの声でした。私は喜兵衛さんに電話番号を教えた記憶はありません。少し怖くなりました。

「怖いのはわかるけど、僕が今からいう言葉には全て『うん』で返してほしい。それと焦らずに聞いてくれるかい」

 私は訳がわかりません。とりあえず「うん」と言いました。

「ありがとう、じゃあ今から耳から携帯を離して耳を澄ましてごらん。その時何が聞こえても焦ってはいけないよ」

「うん」

 私は喜兵衛さんの言う通りにしました。

 耳を澄ませます。すると、微かに息づかいのようなものが聞こえる気がします。私は息を止めましたけど、それでもすーすーと聞こえます。私は全身から汗が吹き出すのを感じました。それは私のベッドの下から聞こえるのです。

「うん」

 私の声は恐怖で震えていました。

「誰かいるんだね」

「うん」

「分かった、家の外に妻を待たせてある。すぐに出ておいで。ただその誰かには勘付かれないようにね」

「うん」

 私は早足に玄関から出ました。追いかけられると恐ろしいので念の為に鍵も閉めます。

 私は階段を駆け降りてアパートの駐車場まで来ました。そこには能面をつけた女性が立っていました。

「君、こっちだ」

 能面の女性は私に言いました。

 私はその女性のところまで行くと膝から崩れました。恐ろしかった。あんなに恐ろしい思いをしたのは初めてのことです。

 能面の女性は「待っていれば終わる」と言っています。どういうことでしょうか。


 数分経った時です。後ろから「お嬢さん」と声をかけられました。振り向くと喜兵衛さんが立っていました。


 ◯


「その後、私は喜兵衛さんたちの自宅に泊めてもらうことになりました。

 自宅に着いた後、私は気になっていたことを聞きました。なぜ電話番号も家も知っていたのか。なぜ人がいることを知っていたのか。なぜ警察に言わないのか。

 その答えとして聞いた話は到底信じられるような話ではありませんでした。しかし、目の前で実演されては信じるほかありません。

 ここまでが私があの日体験したお話です。


 え?何を聞いたのかって?

 そんなこと言える訳ないですよ。私は命が愛おしいですからね」


 彼女はそう言うと立ち上がった。私も立ち上がってお礼を言った。

「ありがとうございます」

「いえいえ良いんですよ」

 彼女はくるりと背を向けて歩き出してしまった。途中、私の方を向いて「あまり調べない方が金切さん自身のためですよ」と言った。そしてこうも言った。

「これはタブーですから」

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