想像の世界に


 ◯


 二ヶ月ほど前、大学時代の先輩である神崎さんから「古書店をオープンするから雇われないか」と言う話をもらってから私は「大熊猫書房」で働いている。

 神崎さんの提案は大学をなんの当てもなく卒業してフラフラと貯金だけで暮らしていた私にはありがたいものだった。彼も私が読書好きだと知って声をかけてくれたのかもしれない。

 大熊猫とはパンダという意味らしい。言われてみれば確かにパンダだなという感じである。


 私が初めて出勤した日は大熊猫書房がオープンした日であった。

 私は神崎さんに渡された地図を頼りに大学の前の通りを北に歩き、駅の手前で右手に折れ、そのまま五分ほど歩いた右手側に大熊猫書房はあった。洋風の平屋であった。建物の中央に深い赤色の扉があり、それを挟むようにして嵌め殺しの大きな硝子窓があり店内を一瞥することができる。

 扉を開けるとからんっと音がした。右手側から左手にかけて書棚が並び、どの書棚もパンク寸前まで本が詰まっていた。暫くは誰も売りに来ずとも大丈夫だろうと思った。私は扉から書棚を挟んだ正面に位置するレジまで行った。扉からレジは真っ直ぐにつながっている。レジの隣には机が二つとそれを挟み込むようにして椅子が置かれていた。手前の掛札には「ぶっくかふぇ」と「本を購入された方のみご利用可」と書かれている。

 レジの奥には廊下が続いており暖簾が垂れていて奥に何があるかわからなかった。暖簾をくぐろうとした時からんっと音がした。後ろを振り向くと神崎さんが袋を持って立っていた。

「やあやあ!もう来てたのか。待たせてそーりー」

「いえいえ、そんな待ってないですよ」

 神崎さんは早足に暖簾の奥に引っ込んでしまった。

「おーい、あがっておいで」

 神崎さんが言った。

 暖簾をくぐると不思議な光景が広がっていた。思っていたよりずっと長い廊下が続いていて、左右の壁には等間隔で灰色の重そうな扉がいくつもあった。

「神崎先輩、これは」

「これかい、不思議でしょう」と神崎さんはニヤついていた。

 神崎さんが言うにはこの土地自体が縦に長く、思い切って土地いっぱいに建てたらしく、両側の扉は全て倉庫になっているらしい。

 廊下の突き当たりは一段高くなっていて和室が広がっていた。先輩はそこへあがっていく。

「この部屋は自由に使ってくれていい。泊まり込むでもいいし、休憩に使うなりお好きにどうぞ」

「わかりました」

「あと僕は年が明けるまで世界をフラフラするから」

 神崎さんはそう言うと「はいこれ」と言いながら鍵を渡してきた。

「今日から大熊猫書房は君のものだ、と言っても維持費とかは僕が出すから年明けまで預かってて欲しいだけなんだけどね」

 そう言う神崎さんが私はなんだか不気味に思えた。この人は昔から何を考えているかわからない行動をする。そんな時は決まって笑っているのか泣いているのかわからない顔をしていた。

「わかりましたけど、いいんですか」

「いいんだよ」

「そうですか、頑張りますよ」

 私がそう言うと神崎さんはバンバンと私の肩を叩いて言った。

「よく言った!それじゃあ僕はタクシー待たせてるからもう行くね、色々なことはマニュアルを読んでくれ、それじゃあ」

 神崎さんはそそくさと扉を開けて出ていってしまった。その姿が私には見えない何かから逃げているように思えた。

 森閑としている大熊猫書房に残された私は一つ一つの扉を開けていくことにした。結果的に言えば、どの扉を開けても本が大量にしまってあるだけだった。ただ、一つだけ開けない扉があった。その扉に合う鍵がなかったのだ。その時は「まあ、本でも詰まっているのだろう」と思い気にすることはなかった。

 その日から二ヶ月が経過した。


 ◯


 二ヶ月のうちに一つ大きく変化があった。それは従業員が増えたことだ。

 従業員の名前は「ぽとふ」と言う。毛並みの美しい三毛猫である。

 この猫は私のアパートの前に捨てられていた猫であった。アパートはペット禁止であったが、どうしても見捨てれず大熊猫書房で買えないかと思い、先輩の言ったマニュアルを覗いてみた。流石にペットに関しては書いてないよな、と思いながら見たがそのまさか「ペットは一匹までなら可」と書いてあった。恐ろしい人だと思った。それから私は彼をぽとふと命名し可愛がった。そして大熊猫書房のマスコット担当に任命することになる。

 そして私が勤めて二ヶ月になろうとしたが客は来なかった。心配になって先輩に電話をしたが先輩に繋がることはなかった。私はマニュアルを開いてみた。流石に客が来ない時の対処法は書いてなかったがマニュアルの最後のページに書いてあった一行に感嘆した。

「客が来なくても焦るな。客はいつか来る」


 ◯


 その日も店番をしながら読書に耽っていた。私が読んでいた本は店の中で異彩を放っていた本であった。

 分厚いハードカバーの本で表紙は夕焼けの空のように黄色に染まっている。題名は『笑み。』であった。著者名は夕焼けに溶けるように滲んでいて読むことができない。

 それはショートショートを謳っていたがショートショートというには些か不思議な物語であった。いくつもの話が錯綜し一日に吸い寄せられている。その日というのが十月二十八日であった。そして偶然にも今日が十月二十八日である。しかし偶然は終わらなかった。今読んでいる話である『想像の世界に』を途中まで読んだが見事に私の現状と一致していた。まるで私を題材にしているかのようであった。

 私は妙な高揚感に身を任せ続きを読む。

 そこにはこう書いてあった。


「店の先が漆黒に包まれた。私は本を置きのたのたと不安そうに近づいてくるぽとふを撫でてやった。彼はゴロゴロと喉を鳴らして指を舐めてくる。私はぽとふに「大丈夫だぞう」と言って彼を抱えた。不意にからんっと乾いた音が響いた。その音は頭の中でこだましていた。私が扉に目を向けると店の入り口には少女が立っていた。少女は膝丈の黒いフリフリのドレスを身に纏っていて、人形のように大きな目から海のように深い青さの瞳が私を見つめていた。」


 私は高揚感を忘れ気味が悪く思えていた。猫の名前すらも同じである。

「これによると次は」と私はページをめくろうとした。その時だった。ぽとふが机の上に飛び乗ってきた。口には鍵のようなものを咥えている。ぽとふは「にゃお」と鳴いてポトリと鍵を落とした。私はまさかと思い鍵を拾い上げ長い廊下へ、あの開かずの扉に向かった。

 開かずの扉に鍵を差し込み右に捻るとカチリと音がして開いた。

「ぽとふ!でかしたぞ!」

 私はそう言ってぽとふを撫で回した。彼は満更でもない顔をしている。しかし私はどうしようもない気味の悪さに包まれていた。まるで抜け出せない迷路に迷ったような感覚だ。この状況も本に書かれていたからだ。

 私はノブを捻り扉を開けた。扉の先には壁があった。私は壁を凝視した。本の通りに行けば文字が書いてあるはずだ。


「書ヲ開クコトハ、扉ヲ開クコトト同義トス」


 その文章を見た。

 私は急いで扉を閉めた。

 にゃおーんというぽとふの鳴き声が聞こえたので私は『笑み。』を読み進めるべく戻ることにした。


 ◯


 店の先が漆黒に包まれた。私はのたのたと不安そうに近づいてくるぽとふを撫でてやった。彼はゴロゴロと喉を鳴らして指を舐めてくる。私はぽとふに「大丈夫だぞう」と言って彼を抱えた。不意にからんっと乾いた音が響いた。その音は頭の中でこだましていた。私が扉に目を向けると店の入り口には少女が立っていた。少女は膝丈の黒いフリフリのドレスを身に纏っていて、人形のように大きな目から海のように深い青さの瞳が私を見つめていた。

 そして私は気を失いそうになっていた。あの本の文章と同じ状況に立たされていることを認めなければいけなかった。

 少女が歩いてきてポトフを指差した。私が「猫?」と聞くと少女は小さく頷いた。私は少女にぽとふを抱かせ外を見に行った。

 窓の外はしっとりとした暗闇であった。上を見れば太陽の光がキラキラとしており海の中のようであるが、海の中ではないような気もする。大熊猫書房が丸ごと沈んでいるようだった。

 私が振り向いて少女を見ると彼女は静かにその青い瞳で私を見つめていた。

 私はこの少女がこの世のものではないと思っていた。なぜそう思うのかと聞かれれば答えることはできないが、生物的直感というべきか、全身の細胞が騒いでいた。

「君はどこから来たんだい」

 私はできるだけ平静を装って尋ねた。

 少女は見た目からは想像できない低く、しゃがれた声で言った。

「私は想像の世界の住人。ああ最悪、お兄さんが私を怖がるからこんな声になってしまった」

「想像の世界とはなんのことだ」

 わたしは意味がわからなかった。

 少女は言った。

「その前に私の声をできるだけ可愛いものに変えてくれ、ほら、可愛い声を想像するんだ」

 私は言われるがままにした。この少女が発していそうな声を。

「あー、あー。うん。なかなかやるじゃないか」

 少女の声を聞いた時、私はここは現実ではないなと、何か違う世界に入り込んでしまったのだと思った。そしてそれは正解であり不正解でもあった。

「さて、お兄さんが知りたいことを教えよう」

 そう言って彼女は話し出した。

「まず、お兄さんが思っている通り、ここは現実ではない。しかし違う世界でもない。言うなれば『一種の状態』だ。どの世界にも属していない。今この瞬間、君と猫とこの店はどの世界にも存在していない」

 少女はそれだけ言うとぽとふを撫でだした。

「待ってくれ、全く意味がわからない」

「言ったろう、想像の世界の住人だと。これを見ろ」

 そう言うと少女は机の上に置いてある『笑み。』を手に取った。

「感情堂の山田、口の化け物、大きな館に住む神様もどき、小林、能面の彼女、喜兵衛」

 少女が読み上げると、店の壁や床からぬるりとそれらは出てきた。タキシードを着た気さくそうな青年、背は曲がっているがそれでも巨大で顔には口だけしかない化け物、髪が白く輝く中性的な顔立ちの子供、にたりと気味の悪い笑みを浮かべる男、そして能面をつけた制服姿の女とイートンコートにサロンエプロンをつけたイケおじ風の男性。それらは全て私が読んでいる最中に想像していた姿と全く同じものであった。

「まあ、こいつらは泥人形のようなものだけれどね。実際には違う世界に存在するから。でも私は想像の世界の存在として存在するからここまで自由に話せるし自我もある。想像の世界は少しムツカシイのだよ」

 私はもう何も言えなかった。悪い夢でも見ているんだと、そう思っていたかった。

 少女の青く輝く瞳はジッと私を見つめている。まるで「夢じゃない」そう言っているように思えて仕方なかった。


 ◯


 大熊猫書房が漆黒の海に沈んで一時間ほど経過した。依然、私は頭を抱えているし、少女はぽとふを撫でている。ぽとふはにゃおんと言って戯れていた。

 不意にからんっと音が鳴った。私は飛び上がり扉を見た。そこには古代ギリシア人のような格好をした金髪に金色の髭を蓄えている男がいた。私はその人物に見覚え、いや、想像をした記憶があった。『笑み。』の作中にたびたび出てくる男だ。神様と名乗っていた。また想像の住人かと思った。しかし私の考えは否定される。

「やあやあ、ここに神崎透と言う人物はいるかね」

 男はそう言った。

 想像の世界の住人は自我を持たない。そう少女は言っていた。私は少女を見た。少女は何食わぬ顔でぽとふと戯れている。

「聞いてるかい?」

 男は言った。

「あなたは神様ですか」と私は尋ねた。

「神崎透はいるかな」

「ここにはいません。二ヶ月ほど前に世界をフラフラすると言って出て行きました」

「そうかあ、まあいい。君の質問に答えよう。私は神だよ。一応ね」

 男はそう言うと少女に近づき顔をまじまじと見て言った。

「これはこれはツウェルツさんですか。お久しぶりですね」

 少女はドレスの端を摘んでお辞儀をした。

「お久しぶりです。人間の神様」

「いやはや相変わらず可愛らしいですね。それよりもあなたがいると言うことはここにあるんですね」

 少女は私を指差した。私は思わず身構える。

「そんなに身構えなくていいんだよ」と言って男は呵呵大笑している。

「『笑み。』と言う本は持っているね。それをどうか渡してほしい。その本は大事なものなんだ」

 男は笑うのをやめたかと思えば真顔でそう言った。

「まだ全部読んでない」

 私はそう言ったが、その声はなんとも情けない声であった。

「読んでみるといい。君にはその本を読めないからね」

 男はそうと顎を突き出し「さあ読みたまえ」と言った。

 私はページをめくる。しかし、いくらページをめくろうとしても固く糊付けされたように本を開くことはできなかった。私は男を見た。男は真顔のまま私を見つめ返し、傍で少女も私を見ていた。男は口を開いた。

「少し話をしよう。その本は少し不思議な本でね。この世の、正確に言うなら君らの世界でのある事象にいて書かれている本なんだ。作者は不明。現存しているのはその一冊だけ。私はそれを厳重に保管していたんだけどね、ある日その本がなくなっていることに気づいた。それで色々探してみるとこの大熊猫書房にあることがわかった。それを盗んだ人物が君の先輩、神崎透だと言うわけだ。どうやって盗んだのかは知らないけどね。それは君たちが持つことを許していないし、君は先輩に利用されている。ちなみにツウェルツさんと会ったのは随分と前のことでね、その時も今みたいな状況だったよ」


 ◯


 気づくと私は大熊猫書房の廊下の奥の和室に倒れていた。ふんわりと畳の匂いがする。

 私は煙草に火をつけぼんやりと、あの摩訶不思議な出来事を思い返した。


 あのあと私は『笑み。』を男に渡し「前居た場所に帰してくれ」と頼んだ。男は言った。

「書ヲ開クコトハ、扉ヲ開クコトト同義トス。って忘れたのかい」

 私はハッとして廊下に走った。私の後ろで「まさか人為的にこんなことができるとはな。二人目だよ」と男が言ってた。

 私があの扉を開ける。そこにはこう書いてあった。

「大団円」


 そして今に至る。

 私は神崎さんに電話をかけた。やはり電話には出なかった。あの人は何をしているのだろうか。そして何者なんだろうか。

 神は言っていた。

「私はいつでも見ている。考えるな」と。

 にゃおんとぽとふが鳴いて近づいてきた。私がぽとふを抱いて店先に向かう。窓の外は晴れていて道行く車に太陽が反射してキラキラと店内を照らした。

 あの扉を開ける勇気はもうない。

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