男の背中

 豊田組の構成員――田村和夫にとって、夏目銀次という男は、意気地なしのひと言に集約された。

 稼ぎがあるわけでもなく、他にない取り柄があるわけでもなく、迷宮探索で役に立つわけでもない。

 まさに、駄目な中年ヤクザの見本……。


 同じ世界へ足を踏み入れた者として、ああはなるまいという反面教師が、夏目銀次というヤクザなのである。


 とはいえ、だ。

 カシラとの腕相撲で見せた腕力と、今日の迷宮探索における活躍で、少しはその認識も改まっていた。

 改まっていたところで、この店での態度だ。

 まるで、借りてきた猫のように……。

 たかがキャバクラ嬢ごときへ、逆に愛想笑いを浮かべて、酒を注いでもらったら、へこへことお辞儀をする始末である。


 どこの組の人間かは知らぬが、聞こえよがしな悪口を叩かれた時も……。

 鮫島のカシラや若頭補佐の馬場は一瞬、肩を震わせていたが、彼のみは、そもそも最初から怒りを抱いた様子すらないのであった。

 ばかりか、能天気にキャバ嬢へ迷宮の解説などする始末である。


 失望感は、いよいよ増した。

 結局のところ、しょせんは灰色鯉のギン。

 にわかに力を身に着けようと、任侠らしい格好良さや男らしさとは、無縁の中年男なのである。


 ――どうせなら。


 ――こいつじゃなくて、オレの仙墨が進化すればよかったのに。


 そう願ったところで、和夫の仙墨が、どう猛な犬から変わるというわけでもない。

 じくじたる思いを抱えながら飲んでいると、他の島で繰り広げられる悪口は、ますますヒートアップしていった。

 そして、ついに……連中の悪口は、豊田組の組長たる豊田一誠にまで及んだのである。


 これに関して、和夫はそこまでの反感を抱かなかった。

 むしろ、そう思えるよな、と、心中で同意すらしてしまったほどである。

 入門して一年弱の和夫であり、認知症を患っているという組長の顔は、ほとんど見たことがない。

 若頭である鮫島の剛腕と、その補佐として、いくつもの商売をケツ持ちしている馬場によって、豊田組は成り立っていると、そう認識していたのだ。


 だが、一部の人間にとって、この悪口は効果絶大であった。


 ――ガタリ!


 ……と、音を立てて、二人の男が立ち上がったのである。

 その二人とは、鮫島のカシラであり……。

 そして、もう一人が夏目銀次であった。

 いや、こいつは本当に――銀次か?


「ひっ……」


 その顔を見て、思わず情けない声を漏らしてしまう。

 それほどまでに、銀次の表情は恐ろしかったのである。


 鋭利なサングラスの隙間から除き見えた眼差しは、狂わんばかりの殺気を宿しており……。

 口元は笑うでもなく、引き結ぶでもなく……。

 ただ、わずかに開かれており、そこから漏れる呼吸は、明らかに臨戦態勢へ入った際のそれであった。

 額には、見ていてハッキリと分かるほどに血管が浮き出している。

 怒髪天とは、まさにこのこと。

 元より逆立てられている銀髪は、ますます激しく突き出したかのようだ。


 一方のカシラも恐ろしい顔だが、彼の怒った顔というのは、見慣れている。

 夏目銀次という男が、このような顔をできるということが、あまりに意外であり、衝撃的であった。


「お、おい、ギン……。

 カシラも……」


 制止しようとする馬場には耳を貸さず、二人がずんずんと店内を歩く。

 そして、先程から大声で悪口を言っていた男たちの前で止まったのだ。


「おうおう、なんだあ? こんなとこまで来て?

 なにか、文句でもあるってのか?」


 相手方のリーダーなのだろう。

 スーツに身を包んだ細身の髭男が、サングラスを傾けながら銀次に問いかける。

 それに対し、銀次は何も答えない。

 ただ、その代わりに……。

 テーブルへ乗せられた灰皿を掴むと、それで髭男をぶん殴ったのだ。


「――うごっ!?」


 いかに極道だろうと、そのような不意打ちを受けてはたまらない。

 ましてや、昨日までの銀次ではなく、今は急激にその力を増しているのである。

 髭男は、たまらず昏倒し、床に倒れた。


「てめえ!」


「上等だ!」


 髭男の仲間だろうヤクザたちが、次々と立ち上がる。

 一方、かえって困惑しているのが、和夫たちだった。


 ――あの銀次が。


 ――有無も言わさず、相手を殴り倒した。


 繰り広げられた光景が、どこか現実離れして感じられたのである。

 何かやるにしても、まずは言い合いからになるだろうと、誰もが予想していたというのもあった。


「おい! ギン!

 お前、いきなり何を!?」


 おそらく、彼もそうだったのだろう。

 若頭補佐の馬場が、立ち上がって銀次に呼びかける。

 そんな彼に向かって、銀次はこう言ったのだ。


「――馬場あっ!

 お前こそ、何をぼけっとしてやがる!

 オヤジがコケにされたんだぞ!?」


 視線をこちらに向けた銀次の隙を突き、相手ヤクザの一人が殴りかかった。

 それを防いだのが鮫島のカシラで、クロスカウンター気味の拳が、相手の鼻面にめり込み、吹き飛ばす。


「いいこと言うじゃねえかあ! ギン!

 容赦するんじゃねえぞ!」


「おお!」


 カシラの言葉に答え、銀次がファイティングポーズを取る。


「舐めやがって!」


「こっちが優しくしてやったら、調子に乗りやがってよ!」


 一方、挑発してきた組織の男たちも、やられてばかりではない。

 いよいよ本格的な闘争体勢に入り、中には、刃物や特殊警棒を取り出す者の姿もあった。


「ぶっ殺してや――」


 相手ヤクザへの返答は――拳。

 銀次は、目の前にいるヤクザが最後まで言い終わるのを待つことなく、銃弾めいた速さの拳を叩き込んだのである。


「ゴチャゴチャうるせえ!」


 そして、一括。

 長々とした言葉など、必要ない。

 自分の親を侮辱された以上は、ただ、叩き潰すのみ。


 そのような覚悟が感じられる態度であり、安物のジャージを着た背中が、ひどく大きく……。

 そして、格好良く感じられる。

 しかも、銀次は続いて突き出されたヤクザの刃物を素手で受け止め、握り砕くことさえしてのけているのだ。


 ――す……。


 ――すげえ。


 まるで、大リーガーの活躍をエキサイトシートで見たかのような興奮に、和夫の脳は支配された。

 そして、気づくと、興奮のままに自分も立ち上がっていたのである。

 いや、そうしたのは、自分だけではない。

 周囲の仲間たちも立ち上がり、銀次たちの加勢へ向かおうとしていた。


「ああもう!

 知らねえぞ!」


 最後まで冷静さを維持していた馬場も立ち上がり、いよいよ、総出での乱戦となる。


「上等だあ!」


「百姓風情が、調子づきやがって!」


 どうやら、組総出で飲みにでも来ていたのだろうか。

 挑発してきた連中とは、違う島に分散していた者たちも仲間だったらしく、喧嘩へ加わり始めた。

 数の上では、相手の方が有利というしかない。

 それでも、和夫はまったく恐れる気が湧かなかった。


 銀髪を逆立て、安物のジャージを着たその男が……。

 夏目銀次が、常に最前線で敵を相手取っているからである。


 いや、やカシラにばかり、任せていてはいけない。

 自分も、横に立って戦わなければ!


 得体の知れない興奮に支配されたまま、乱戦へと割り込む。

 しょせん、入門して一年そこそこの新入り極道。

 何発もいいのを貰い、よれよれになってしまう。

 それでも、最後まで立っていられたのは、かくあるべしという男の手本を見せられたからだろう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る