アルツハイマー
豊田組組長、豊田
昔ながらの、古風な和民家……それが、おれたちのオヤジが暮らす屋敷であった。
広々とした庭は、通いの庭師によって美しく整備されているが、どこか物寂しい。
だが、屋敷の中に比べれば、幾分かマシであろう。
こうして、玄関の引き戸を前に立っていても、暮らしている人間の息遣いというものが、まるで感じられないのだ。
昔は、こうじゃなかった。
アニキ夫婦が存命だった頃は、大勢がこの屋敷へ詰めていて、気をつけないと近所から苦情がくるほどだったのである。
「もう、あれから二年、か……」
つぶやきながら、引き戸のガラスに映った自分自身を見つめた。
そこに映っていたのは、何とも貧相なヤクザの姿だ。
年齢は、三十五……。
タッパだけはそれなりにあるものの、痩せ細っている上に、着ているのが俗に言う芋ジャージでは、迫力というものが一切ない。
逆立てた髪を銀色に染めているのは、自分の名前にちなんでのことだった。
唯一、極道らしい装飾といえるのは、鋭利なラインを描くサングラスくらいのものだろう。
それが、このおれ――豊田組構成員、夏目銀次である。
「……ただいま戻りました」
玄関に入ると、介護ヘルパーの山下さんが出迎えてくれた。
「お連れ様です」
「ギンさんも、お疲れ様です」
このおばさんとも、かれこれ二年間の付き合いになるが、礼儀正しくお辞儀をする。
昼間の間、おれが迷宮探索へ同行できるのは、彼女が屋敷を守ってくれているからなのだ。
「オヤジ……どうでしたか?」
これを聞くのは、いつものこと……。
「そうねえ……。
ちょっと、荒れ気味かしら」
しかし、山下さんは頬に手を当てながら、律儀に答えてくれた。
「私は、女だからなのか大丈夫だけど……。
ギンさんは、気をつけた方がいいわよ」
「お気遣い、感謝いたします。
では、参りましょう」
深々とお辞儀して、山下さんと共に奥へ向かう。
「さて……」
荒れ気味、か……。
こいつは、カシラのよりきついのを覚悟しないといけないな。
「オヤジ……。
ただいま、戻りました。
何か、ご用命はありますか?」
茶の間に続くふすまを開け、中で座布団に座る老人へ声をかけた。
「お……お……」
振り返るオヤジの姿に、往年の威厳も迫力も感じ取ることはできない。
元から小肥だった体つきは、張り詰めるものがなくなったからか、すっかりと緩んだ雰囲気になってしまっており……。
目線も、どこかここでいてここではない場所を見ているかのような……そんな、頼りないものだった。
この前、写真を整理して気付いたが、白髪も二年前に比べ、随分と増えてしまっている。
由緒ある豊田組の組長を、このような姿に変えてしまった原因は病だ。
――アルツハイマー。
認知症の中でも、代表的なそれをオヤジは発症してしまったのであった。
「おお……」
オヤジは、入り口で正座するおれを見て、何か考え込んでいたが……。
「――てめえ!」
瞬間、その瞳が、かつてのきらめきを取り戻す。
だが、それは正気となったからではない。
「てめえが、倅たちを殺しやがったのかあ!」
その証拠に、オヤジは恐るべき勢いで座布団から立ち上がると、一息におれを組み伏せたのである。
「が……!
がはっ!」
オヤジが背負う仙墨は――虎。
認知症になろうが、年を取ろうが、そこから生み出される力はいささかも衰えない。
おれごときが抵抗できるわけもなく、防ごうとした腕は弾かれ、喉を潰さんばかりに腕を押し付けられた。
「ちょっと!
旦那さん!」
控えていた山下さんが叫ぶも、オヤジの耳には届かない。
ま、まずい。
このままでは……死ぬ!
オヤジのためになら、この命はいくらでも差し出すつもりだが、こんな形で死ぬわけにはいかない。
おれごときにも、火事場のクソ力は眠っているということだろうか……。
――キイイイィィン!
耳鳴りと共に、背中から火で炙られたような熱が生じる。
同時に、抵抗するおれの腕も力が増し、どうにかオヤジの腕を押し返すことに成功した。
「悪あがきするんじゃねえ!
息子の仇が!」
「ち、違います! オヤジ……!
おれは、誓って殺していません……!」
必死に訴えるが、徐々に、徐々にと背中の熱が収まり始め、同時に腕の力も抜けていく。
いよいよ、終わりか……。
おれは、尊敬するオヤジ自身の手で、絞め殺されちまうのか……!
オヤジの顔が、かつて見捨て、死なせてしまった男……。
実の父親とかぶった。
「――お祖父ちゃん!
何してるの!?」
オヤジの凶行を止めてくれたのは、茶の間の入り口から響いた声である。
「え……?
お……」
オヤジが、腕の力を緩めた。
そして、入り口を見上げながらこう言ったのである。
「舞……」
「そうだよ!
舞だよ!
分かる!? お祖父ちゃん!?」
入り口に立っていた女子高生……。
オヤジに残された唯一の肉親――舞さんが、泣きそうな顔で叫んだ。
「舞……舞……」
「そして、この人はギンさん!
お祖父ちゃん、あれだけ可愛がってたじゃない!?
忘れちゃったの!?」
「ギ……ン……」
オヤジが、おれの顔を……そう、きっとようやくだ。
ようやくにも、おれの顔を見た。
「お、おれは……」
そして、やっとおれのことを思い出してくれたのか……。
覆いかぶさっていた状態から、畳の上に座り直してくれたのである。
「――げほっ!」
呼吸の自由を取り戻したおれは、倒れた状態で盛大にむせた。
「大丈夫!?
ギンさん!?」
「げほっ……!
げほっ……!」
情けなくも、舞さんに抱き起される。
そうすると、ふわりと彼女の髪が頬に触れ……何ともいえぬいい匂いを嗅いでしまった。
綺麗な……。
そう、本当に綺麗な女の子である。
長い黒髪は、枝毛の一つもなく……。
ついこの前までは、子猫のように思えていた顔立ちが、今は少しずつ、大人の女性としての雰囲気も宿し始めていた。
多分、大和撫子っていうのは、このお嬢さんみたいな子を指す言葉であり……。
荒れ者揃いの環境で育ったとは思えない、奇跡の女の子といってよいだろう。
きっと、アニキやアネさんの教育がよかったんだろうな。
「すいません。
情けないところを……」
「そんな、情けないなんて……。
お祖父ちゃんも、ギンさんに謝って」
舞さんが、キッと自分の祖父を睨みつける。
おれなんかのせいで、彼女にそんなことをさせてしまうのは、ひどく悲しかったが……。
それ以上に悲しいのが、オヤジの反応だ。
「んあ……」
オヤジは、今の出来事も忘れてしまったのか、呆けた眼差しをおれたちに向けるばかりなのである。
「お祖父ちゃん……」
「オヤジ……」
ようやく呼吸が元通りとなったおれは、舞さんと共に、なんともいえぬ気持ちでオヤジを見つめていたが……。
「おれは……少し、寝るとするよ」
オヤジは、そう言って立ち上がり始めたのであった。
「オヤジ、寝室へお連れします」
妄想へ取り憑かれている時ならまだしも、それ以外の場面で、今のオヤジは足取りが危うい。
そんな彼の背中を、おれはそっと支える。
「すまねえな。
鉄平……」
「オヤ……。
……ええ」
オヤジから出た名前に、おれと舞さんは泣きそうになってしまう。
――豊田鉄平。
それは、オヤジの息子であり……。
おれにとっては兄貴分で、舞さんにとっては父親の名だった。
「さあ、行きましょう」
「おう……」
オヤジの背中を支えて、二階の寝室へ連れて行く。
死んだような雰囲気の屋敷内へ、床板のきしむ音が響いたのである。
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