続・トラックポイント・ラプソディ
しかし、慣れ親しんだ感触というのはときに、飽きを引き起こす。
突如、チャイムが鳴った。
「はいはーい」
「宅配便ですかね」
扉を開けると、段ボール箱を抱えた緑色の制服の男が立っていた。彼から荷物を受け取りサインをし、部屋に引っ込む。
「来た来た」
「お、なんですかなんですか?」
SK-8855の精霊ことハチゴーは、人間の姿になり、保津の隣に来ていた。ハチゴーに覗き込まれながら、先程までとは打って変わってウキウキとした表情で段ボールを開封する。飛び出てきたのは、Lenovoと書かれた赤いシールで封された段ボール箱だ。
「ん? Lenovoさん……?」
「一度使ってみたかったんだよなあ、これも」
入れ子構造の段ボール箱から出てきたのは、キーボードだった。真ん中に赤いポッチのあるキーボード、ThinkPadトラックポイントキーボード2である。トラックポイントキーボードの最新機種であり、2020年に発売されて以来目をつけていたものの、2024年の今に至るまで使ってこなかったモデルだ。
六段配列でなおかつアイソレーション方式ということで、保津の好みとは離れていたためである。
「なんでですか!」
ハチゴーが声を荒げた。
「私というものがありながら! なんでまたキーボード買ってるんですか!」
「別腹ってやつだ」
「ひどい! 浮気者! 最低! 犯罪者!」
「犯罪者ではないだろ」
ハチゴーの怒声を浴びながら、保津はデスクまで新しいキーボードを持って行き、接続。ドライバをインストールして、トラックポイントを操作し、キーボードを打つ。指に適度は跳ね返しを感じながらも、底付きの柔らかな感触が心地よく感じられた。
「お、結構いいな」
懸念していたアイソレーションも、意外と違和感なくタッチタイピングができる。
「結構いいな、じゃないですよ! 保津さんの嫌いなアイソレーションですよ!?」
ハチゴーがトラックポイントキーボード2を指して、また声を荒げた。自分の胸からSK-8855を出して、座る保津の顔に押し当てる。
「嫌いとまでは言ってない。ただアイソレーションじゃないほうがいいだけだ」
「ややこしいですよ! アイソレーションじゃない私がいるのに!」
「お前なあ、いい加減慣れろよ。お前が精霊化してからもどれだけキーボード買ったと――」
「買いすぎです! おバカ! キーボードに埋もれて死ぬ気ですか!?」
ハチゴーが目をとんがらせながら指したのは、デスクの横に置かれた棚に積まれているキーボードの山だった。トラックポイント搭載のTEX Shinobi、TEX Shura、IBM RT3200だけでなく、RealforceやKeychron Q1など多種多様なキーボードが置かれている。
「キーボード屋敷ですよ!」
「趣味なんだからしょうがない」
「うぎゃー! トラックポイントくりくりしないでください! どういう神経してるんですか! 私のをくりくりしてくださいよ!」
「いちいち卑猥な言い方すな!」
「待って……何する気ですか!?」
おもむろにトラックポイントのキャップを外し、ティッシュを手に取った保津の肩をハチゴーが揺さぶってくる。保津は動じずに、ティッシュを千切った。その様子をまじまじと見つめ、ハチゴーは顔を青ざめているようだった。
「まさか保津さん……とうとうキーボードで、致すようになったんですか!?」
「なっ、バカかお前は! お前はバカか!」
「二回も言わないでください! 高性能キーボードに向かって!」
「脳内ピンクかお前は! これはこうするんだよ!」
細かく千切ったティッシュを丸め、キャップの中に詰めていく。それからまた装着すると、トラックポイントのウルトラロープロファイルキャップにほんの少しの高さが生まれた。
「こうして背を高くすることで使いやすくなるんだ!」
「ほかのプロファイルのキャップ買えばいいじゃないですか!」
「それはそう」
「認めましたね!? というかなんで私の妹を買うんですか!」
「話が戻ったな」
「打鍵感も打鍵音も私のほうがいいじゃないですか!」
身振り手振りを激しくするハチゴーの手を掴み、保津はトラックポイントキーボード2の上に置いた。
「打ってみろよ」
「嫌ですー! やー! やめてください! 打たせようとしないでください!」
ギャーギャー言いながらも、結局彼女はキーボードを打つ。そうして目を見開いて、瞳に涙を浮かべた。
「私より……打鍵感と打鍵音がいい……」
「お前はペコペコするからな。ケースの内部がスカスカなんだよ」
「スカスカ言うなー!」
「ま、そこも愛嬌だがな」
「えっ……トゥンク」
「口で言うな」
保津は笑いながら、トラックポイントキーボード2を持ち上げる。そのまま空中で打ってみせた。目の前で触られて癪に障ったのだろうか、ハチゴーは顔をしかめてる。
「こいつは重量もあるし剛性も高いから、ペコペコしないんだ。打鍵感も柔らかさとメリハリが両立されているし、打鍵音も静かだけどちゃんとしてる」
「くっ……長年使ってきたかのように解説しないでくださいよー!」
とうとう、ハチゴーが声をあげて泣き始めた。保津はため息をついて、彼女の頭を撫でる。すると彼女は上目遣いに保津を見た。
「私が嫌いになったんですか……? スカスカだしペコペコだしコストカットされてますし」
「嫌いなわけないだろ」
「だってだって、わざわざ私の妹を……」
「お前が好きだからこそ、俺はお前の妹もお迎えしたんだぞ。お前が俺をトラックポイント中毒にしたんだ」
ハチゴーの頭を撫でる手が掴まれ、彼女の頬に押し当てられた。彼女の柔らかい頬の感触が手を伝い、保津は少し胸が高鳴るような気がした。そのまま彼女は瞳を潤ませ、保津を見る。保津はじっとその目を見つめた。
「これからも私を使ってくれますか……?」
「おう、使うぞ。そんでお前に飽きたらこっちを使う。こっちに飽きたらお前を使うのループだ」
「ギャー! 最低発言!」
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