トラックポイント・ラプソディ
春だというのに妙に暑苦しい昼下がり、
エアコンで空気を回しているというにもかかわらず、妙に湿気が籠もっているように感じ、手を伸ばして窓を開けた。入り込んでくる外気にも、変わらず湿気が感じられ、すぐに窓を閉じる。
「疲れたー! もうまじでめんど――」
キーボードの左クリックキーを押して記事を全世界に公開し終えると同時に、左脇に置いてあるSK-8855が眩いばかりに光りだした。
「なんだなんだ!?」
思わず目を閉じる。まぶたの裏に真っ白とした空間が広がる。まぶたのうらが徐々に暗くなっていき、目を開けた。
「は……?」
目の前にはSK-8855はなく、その代わりに、目を見張るばかりの美少女がいた。凛とした目元にツンと張りのある唇。真っ白な肌に、艷やかな黒髪が主張している。
ただ、保津にとって気になるのはそこではなかった。髪の毛には、IBMブルーとも言われる深いネイビーのエンターキーがある。ブカブカのティーシャツには、SK-8855と同じ七段配列のキーボードが描かれていた。
「だっせえ!」
思わず声に出ていた。目の前の少女が目を尖らせる。
「ダサいとはなんですかダサいとは! あなた私のことかっこいいって!」
「私のことだあ? なんだこの不審者が! 俺のSK-8855どこやった!」
「誰が不審者ですか! ここにありますよ!」
彼女が自身のシャツを引っ張って主張する。
「プリントじゃねえか!」
「プリントじゃないです! いいですか? 見ててください?」
言うと、彼女のシャツから突然SK-8855が飛び出してきた。胸のあたりのプリントが、そのままSK-8855になったかのように見えた。
「どうですか!? 私はあなたのSK-8855の精霊です!」
保津は自身の頬を思い切り平手打ちした。確かな痛みを感じ、目頭が熱くなる。目の前の光景は依然と変わりなく、SK-8855を胸から飛び出させた彼女はちょこんと首を傾げていた。
「夢じゃないでしょ?」
「精霊ってなんだよ……」
「あなたは私を長い間大事にしてくれましたからね、付喪神みたいなものです!」
「なるほどよくわからんが、やべえことだけはわかった」
保津が頭を抱えながらデスクチェアに座りなおす。一層深い溜め息をつき、少女を凝視した。
「それで、精霊さんがなんの用なんだ?」
「単刀直入に言います! 私を使ってください!」
「んー……?」
「脇に置いてるだけで、最近全然使ってくれないじゃないですか! 寂しいんですよ!」
少女が捲し立てながら指しているのは、彼のデスクの上に鎮座しているTEX Shinobiだった。同じような七段配列を備え、トラックポイントも備えるSK-8855を再現したキーボード。メカニカルスイッチを搭載し、なおかつキーマップ変更機能もある現代的な製品だった。
「浮気者! 私という者がありながら、どうして私みたいなキーボードを使うんですか!」
「だってキーキャップテカテカになったし、たまにドリフトするようになったし」
「じゃあはい! 見てください! 胸のキーボードは新品同然ですよ!」
保津は、彼女の胸から突き出ているキーボードに視線を落とす。確かに、新品のように綺麗だった。トラックポイントも彼好みのクラシックドームになっているし、キーキャップにテカリは一切ない。パームレスト部分も、綺麗そのものだった。
「……使いづらいわ!」
「なんでですか! 綺麗じゃないですか! ドリフトもしませんよ! 謎技術でワイヤレスで使えます!」
「本当に謎技術だ……! いやしかし、なんかこう、胸触ってるみたいで気が引けるわ!」
「なんでですか! 触ればいいじゃないですか! ほら触ってくださいよ! 赤ポチだってくりくりしてくださいよ!」
「おい! 胸から出てる分、余計乳首感が際立つだろうが! 赤乳首ってネットで言われてんだぞ!」
拒否する彼に、目の前の精霊は強引に自身の胸から飛び出るキーボードを押し付けようと体を近づけた。パームレストの硬い感触が下腹部に当たり、「痛い痛い」と声をあげる。
「それとな……キーボードは正面で打つものなんだよ」
「ん? それがなにか問題でも?」
「正面から打ったら! あんた……ええ、と」
「ハチゴーです」
「ハチゴーちゃんの顔しか見えん!」
彼がハチゴーの肩を掴み、自身の正面に立たせる。背が低いこともありキーボード自体はちょうどいい高さにあるし、顔も思っていたよりは低い位置にあった。ただ、それはそれでなんだか淫猥なように思えて画面に集中できない。
「見えるじゃないですか!」
「かわいい顔が見えてると集中できないの!」
「もうー、贅沢な人ですねー」
「そうかな!?」
それから押し問答をした挙げ句、結局根負けして保津は彼女を使ってみることになった。恐る恐るキーボードに手を伸ばし、打ってみると、打ち慣れた感触が思いの外心地が良い。トラックポイントにも指を伸ばし、操作してみる。スムーズな操作感に、感動を覚えた。
「んっ……あっ……ふぅっ」
「……おい」
「なんですか?」
「エロい声出すんじゃねえ! 使いづらいわ!」
「お構いなく!」
「構うわ! 元にもどれよ! 使うから!」
彼が声を荒げると、ハチゴーはため息をついて元の姿に戻った。不思議なことに、元の姿に戻ってもなお新品同然に綺麗になっている。これで心置きなく使えると手を伸ばし、再びトラックポイントに手を伸ばした。
「あぁっ……」
「なんでだよ!」
「精霊になったものは元の姿に戻っても自我はあるんです!」
目の前の見慣れたキーボードから、ハチゴーの元気のいい声が聞こえた。保津はデスクに肘をつき、頭を抱えて唸る。しばらくそうしてから、顔を上げて天井を仰いだ。
「よし、オークションで別のSK-8855買おう……」
「ぎゃー! 浮気者ー!」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます