第75話 出発の夜
グレッグが俺を迎えに来る夜、既に最低限の荷造りを終えた俺は、部屋でじっと待機している。
そして今ここには、神代先生、夢佳、そして豊芝さんの三人がいる。
豊芝さんはきりっと顔を上げて、時折別室で電話をしたりして、てきぱきと動いている。
神代先生と夢佳は、俯いて言葉は少な目だ。
何か思う所があるのか、お互いに目を合わさない。
ここで神代先生と夢佳が顔を合わせた時には、お互いが目を丸くしていた。
けれど、担任として、仲のいい友人としてということで、お互いに一応納得してくれたようだった。
俺がいない間のこの部屋のことは、豊芝さんに頼んである。
「あなたの部屋なんだから、ちゃんと戻ってくるのよ」
そんな言葉も仰せつかっていて。
やがて、部屋のインターホンが鳴り響くと、部屋中に緊張が走った。
―― 行ってくるか。
心の中でそう嘯いてから、俺は座っていたベッドの脇から、腰を上げた。
マンションの表には黒塗りの車が止まっていて、その脇にグレッグが佇んでいた。
俺達が姿を見せると、彼は肩の横で両手の平を天空に向けた姿勢で、おどけた様子を見せた。
「おやおや、豪華な見送りだねえ。やっぱりお前は、隅におけないな」
「グレッグ・アンデルソン准将、ですね?」
俺が口を開く前に豊芝さんが前に進み出て、グレッグと正面から対峙した。
その表情は、冷静な外交官としてというよりも、自分にとって大切な何かを思いやる普通の
「……どこかで、見た顔…… そうか、日本の外務省の……」
「はい。貴国担当の、豊芝です」
「成程。こんな所に、外務省の方がおいでとはね。であれば、さっきから向こうの角で隠れているのは、公安か外事ってとこですかねえ?」
俺もグレッグも、その辺はお見通しだ。
どうやら今日のこの顛末を見届けたい連中が他にもいて、じっと身を潜めているのだ。
「道理で、シュリがすんなり日本へ帰れたり、中々接触ができなかったりした訳ですなあ」
「当然です。邦人の保護は、私たちの仕事ですから」
そう毅然と言い放つ豊芝さんに、グレッグは皮肉な笑みを浮かべる。
「そう怖い顔しなさんなって。我々は、貴国に手出しをするつもりはありませんから。新政府も、貴国とは友好関係を築きたいと申しています。その関係が、続いている間はね……」
「…………」
豊芝さんの表情が強張って、こめかみに汗が流れる。
グレッグは終始笑顔だけれども、その奥に潜む狂気にも似た言外の圧力に、気圧されているのだ。
彼が司令官になってから、アポカリスにテロ行為を命じたことは、一度もない。
けれどそれ以前は彼自身も、俺の知らない命令を、幾多もこなしているはず。
かつては世界を震撼させたテロ集団、世界的にも有数の精鋭軍事組織、そして今も新政府軍の特殊部隊として、その名前は残っている。
その影響力は、国と国との関係にも、影響を及ぼすほどだ。
「……ミッションが終ったら、珠李君をちゃんと返して下さいね」
せいいっぱい足を踏ん張って、そうい返す豊芝さん。
「ああ、こいつがそう望むならね。それに、貴国の余計な連中が、邪魔をしなければ、だけどね」
やはりこの国には、異質の過去を持ち、騒乱の火種になりそうな者の存在を、快く思わない連中もいるのだ。
「俺はこいつにとっては、こっちの国にいる方が、随分と幸せだと思うんだがね」
「それは…… 珠李君自身が、決めることです!」
豊芝さんがそう返すと、グレッグは困ったような表情で笑った。
「じゃあ、行ってくるから」
出発を即されたので、神代先生と夢佳に向けてそう告げると、
「……珠李!!」
夢佳が駆け寄ってきて、俺の後ろに手を回して、力いっぱいに抱きしめてきた。
俺は口元を緩めて、そっと背中に手を回して、それに応える。
「絶対…… 絶対に、帰って来てね! 私、待ってるから! 連絡もするから、返事頂戴ね!? 嫌だって言われたって、そうするから!!」
―― ありがとう。
そう言ってくれるのは、嬉しいけれど……
それは難しいかな。
向こうにいる間は、新政府の厳しい管理下におかれることだろう。
民主国家を目指すしているとはいえ、今は緊急事態なのだ。
神代先生の方に目をやると、彼女は優しげで温かい視線を送ってくれていた。
微かに目元が滲んでいるように見えるけれど、それをぐっとこらえている風で。
「元気でね、珠李君。私も待っているから、きっと帰ってきてね」
「はい!」
そうして、俺達が乗り込んだ車は、三人の女性達に見送られて、その場を後にした。
「なあお前、あの三人の中で、本命は誰なんだ?」
後部座席の横に座るグレッグが、からかい半分で問うてくる。
「さあ? どうでしょうか? それよりグレッグさんの方は、まだ独身ですか?」
「俺はまあ、そうだな。なかなか一人に、決められないんだよな、これが」
そう言ってほくそ笑んでから、すっと真顔に変わった。
「だがなシュリ、向こうに着いたら、こちらの国との接触は、最小限にしてくれ。政情が不安定な中で疑心暗鬼になっている奴も多くてな。情報漏洩なんかに関しても含めてな」
-- やはりな。かつての内戦時代を慮れば、容易に予想がつく。
「分かりました。俺からも一つ、お願いがあるんですけど」
「なんだ?」
「あいつらの、墓参りがしたいんです」
「そうか…… そうだな。俺も忙しくて、顔を見に行ってやれてないなあ」
そう言いながら、グレッグは少し目元を緩めて、何かを懐かしむような表情を作った。
「あいつらは、軍人墓地に埋葬されているよ。建国に殉じた名誉軍人としてな。そうだ、アイラは……」
「…………」
「亡くなってしばらく経ってから、彼女の妹が、遺体を引き取りに来ていたな。恐らく、彼女の故郷のどこかで、眠っているんだろう」
「そうですか。そこには、是非行ってみたいです」
「ああ、そうしてやってくれ」
夜の帳が下りた孤独な街道を、車はひた走る。
空港に辿り着いて、出国の手続きを素早く終えてから、ルイジェリアの専用機に乗り込んで、この国から飛び立った。
飛行機の窓から、眼下に広がる夜景に目を向けながら、これまでの、そしてこれからのことについて、考えを巡らせた。
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