第73話 追憶11 私が守るから
「ごめんよ、アイラ…… 俺があんな命令を出したばっかりに…… お前にも、こんな目に……」
必死に涙を堪えようとしても、とめどなく溢れるそれを止められない。
「……大丈夫よ、シュリ。あいつらが私のこと、守ってくれたから。私はずっと、あなただけのものよ……」
あいつら……?
周りを見回すと、遠く右の向こうに、ネズミ男カシムの姿があった。
敵と組み合った状態で、赤く血走った目をかっと見開いたまま、絶命していた。
正面に目をやると、大柄なヨハンが大地に足を踏みしめたまま、敵方に銃口を向けて、物言わずに立っていた。
俺は状況を理解した。
彼らはアイラを助けるためにここまで追って来て、戦闘になった。
その時アイラは、恐らく敵に、凌辱されかかっていたのだろう。
生きるか死ぬかの極限の精神状態、理性や良識など紙切れ一枚程度の価値しかない無慈悲な戦場では、よくあることだ。
両の目から溢れ出すものが止まらない。
その色は、いつしか澄んだ透明ではなく、深紅の鮮血に近い色になっていた。
それは頬をつたって雫となり、アイラの顔を濡らした。
なぜ俺はこんな時に、ここにいなかったんだ……
馬鹿野郎、馬鹿野郎、馬鹿野郎…………!!!
俺の頭の中で、何かがバンッ!! とはじけて飛んだ気がした。
そうして込み上がって来たのは、当方もなく遠大で激しい憎悪。
俺の大事な仲間を……愛する人を……よくも……
殺してやる、みんな…… おのれ、おのれ、おのれえええええ……
敵の奴は、皆殺しだ。
骨の髄まで残さずに八つ裂きにして、この世に生きた痕跡すら消し去ってくれよう……
真っ黒い悪魔の感情が俺の心を支配する中、アイラは最後の力を振り絞って、ガラス細工のような手を、俺の頬に当てた。
「シュリ……今まで、私と一緒にいてくれて…… 好きでいてくれて、ありがとう。これからは、あなたの人生を生きて……」
「アイラ……敵はきっととるよ。そうしたら俺は直ぐに、君のところへ行くから」
「……駄目よ、シュリ……」
彼女は力なく、細い首を横に振る。
「『慈悲の赤、マーシーズ・レッド』…… 敵も味方も分け隔てなく大事にする、強くて優しい人。私が愛したただ一人の人。どうか、変わらないで……」
彼女も目にたくさんの涙を浮かび上がらせて、精一杯の笑顔を送ってくれる。
寒風が吹きすさぶ凍てついた荒野の中で、凛と咲いて旅人たちの心を癒す、清楚な花のように。
「でも、アイラ…… 俺は………」
気持ちが追いつかない。
彼女が話すことは、言葉では分かる。
でも今の俺には、大事な戦友を失い、最愛かつ無二の彼女を失いつつあるという事実と喪失感と、苛烈なまでの復讐心、それ以外、心のやり場が無かった。
「嫌だアイラ!! だったら俺も、ここで君と同じ場所へ行くよ!! 俺達はずっと一緒だ~~~!!!!!」
そう咆哮して、子供のように泣きじゃくる俺を、アイラの両腕がそっと包んだ。
「シュリ、お願い、キスして…… 大丈夫、私があなたを守るから……」
腰を屈めて、自分の唇を、彼女の唇に近づける。
そっと触れ合った瞬間、俺の頭の中が真っ白になって、ケシゴムに擦られたかのように、空虚になったんだ。
それから俺は、気づけばルキアの街を目指して、ただ一人で歩いていた。
戦況は、反政府軍中央管区の押し返しがあって、ルキア市街へ雪崩れ込んでいるようだった。
でも今は、そんな事はどうでも良かった。
だだ、祖国、日本へ帰りたい。
その時の俺はその一心で、ルキアの街を目指したんだ。
丸二日、飲まず食わずで歩き続けて辿りついたルキアは、アイラと一緒に訪れた時とは、様相が一変していた。
戦火が及び、至る所で煙や炎が上がり、砲声が遠くからこだまする。
街の人々の誰もが不安を抱えて、それを顔に出しながら。身を潜めて囁き合っている。
そんな中、仲間の血で真っ赤に染まった軍服を着て無表情に足を引きずる俺の姿は、安寧の生活に影をもたらす死神のように映ったのかもしれない。
誰もが顔を背けて嫌悪し、遠くへ去っていった。
やがて、白地に赤い丸の旗をはためかせた建物に、たどり着いたんだ。
◇◇◇
記憶の中の旅路を終えて今、人影のない都内の公園の中にいる。
ただ一人、目の前で頬を歪めるのは、アポカリスの元上官、グレッグ・アンデルソンだ。
湿気が不快にまとわりつく夜の公園で、かつての上官と対峙する。
「グレッグさん、全部思い出しましたよ」
「そうか。なら、アイラもきっと、喜んでいるだろう」
どうだろうか?
アイラが亡くなる直前、彼女は俺のことを守ると言った。
それがどういう意味だったのかは、正直よく分らない。
けど、もしあそこで俺が一人でそのまま残されていたのなら、恐らくは敵の中に突っ込んで行って、自分の命が尽きるまで、散々に殺しまくっていただろう。
彼女はそんな事は、きっと望んでいなかった。
だから彼女は、俺の中から記憶を消してしまいたかったのではないかと思う。
俺が狂気に落ちて、彼女の知らない人間になってしまわないように。
そんな想いが昇華して、俺の中から悲しい記憶を消し去ったのではないか。
そして同時に、彼女との思い出も合わせて。
何故なら、彼女との思い出は、幸福と絶望とが、表裏一体であるのだから。
たった今思い出した彼女の死に顔は、安らかな笑みを湛えていた。
そんな彼女は、今の俺に対して、何を望むのだろうか?
それも今となっては、よく分らない。
「グレッグさん、あんたはなぜ、今ここにいるんだ?」
そうだ、その理由を知らなければならない。
なぜ今になって、遠く離れた日本で暮らす俺の元へ?
その問いに、グレッグはあっさりとした答えを返した。
「お前を連れ戻すためだよ」
「何で、今更……?」
「政府軍の残党が、反抗の兆しを見せている。このままいくと、ルイジェリアは元の内乱状態に戻りかねない。こちらから呼び掛けても、向こうからは反応がないんだ。せっかく訪れた平和だ、もう後戻りはしたくない。力を貸してくれ」
「そんなの、俺に何ができるんですか?」
その問いかけに、グレッグは目を細めて笑う。
「相手の中には、お前に救われた連中が多いんだよ。戦場で死ぬはずだった所を、お前に命をもらった連中さ。『マーシーズ・レッド』、お前の言葉になら、奴らも耳を貸すかも知れん」
そうか。
考え方の違いはあるにせよ、生き残った人間は、あのアフリカの広い大地で、今も息をしているんだ。
お互いに手を取り合えたら、どんなにいいだろうか。
若者や幼い子供が、夢や希望をもって生きられる、それが現実になる社会。
アイラが望んだのは、きっとそういう未来だったんだ。
「グレッグさん、話は分かりました。けれどその前に俺は、やることがあるんです」
「何だ、それ?」
俺はグレッグに、半グレ集団GOKUMONのことや、夜見山や未来のことを話して聞かせた。
すると彼は、暗闇の空へ高らかに笑い声を放って、俺に笑みを寄せた。
「分かった。その程度のことなら、こちらに任せろ。お前に動かれてこの国の警察やら何やらに、騒がれてもやっかいだ。お前がしょっ引かれでもしたら、元も子も無いしな。こっちに任せておけよ」
「どうするんですか、一体……」
「潰してしまうのが、一番手っ取り早いだろうよ。うちの諜報員を何人か送りこんだら、簡単にかたはつくだろう。元アポカリスの奴もいるしな」
何事も無さげにそう言うけれど、多分こういう所が、日本の外務省が危惧するところなのだろう。
長年の苛烈な内戦を生き抜いた生粋の軍人達、グレッグや俺が指揮官になるまでは、問答無用の無差別テロまで引き起こしていた特殊部隊、それらが暗躍するようなことは、平穏な法治国家にとっては、好ましいはずがないのだ。
「ルイジェリアには、いつ行けばいいんですか?」
俺の口から、自然とそう言葉が流れ出た。
アイラの想いを実現したい。
それに、どこかにあるはずの彼女のお墓の前で、また彼女と同じ時間を過ごしたい……
彼女だけじゃあない、俺にとって掛け替えのない人たちは、他にもいたんだ。
「そうだな。早い方がいいから、明後日ででもどうだ?」
「そんなの、駄目よ!!!」
グレッグの言葉の後に、必死さがこもったような叫び声が、暗い公園を突き抜けた。
「あ~あ、我慢できなくって、出てきちゃったか、お嬢さん」
グレッグが笑みを向けるその先に首を捻ると、そこに、眉根を歪めて粗く息を吐く、神代先生がいた。
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