第62話 異邦人

 豊芝さんとの会合から数日が過ぎた。

 俺の部屋の中、今目の前には、神代先生がいる。


「本当に大丈夫? 何もないの?」


「大丈夫ですよ。心配しないで下さい」


「……分かった。今日はこれで帰るから、何かあったら言ってね?」


「はい」


 普通にしていたつもりだったけど、どこか俺の様子がおかしかったのかもしれない。

 学校が終わってから、俺の顔を見に来てくれていたのだ。


 心配そうに、俺に綺麗に澄んだ眼を向けてくれる先生。

 

 ―― 言えるわけない、これから起こるかもしれないことを、この人に。

 俺のことなんかで心配はかけたくないし。

 先生はこれからもずっと、先生で居続ける方がいいんだ。

 そうして欲しい。


 先生を見送るために、一番下の階まで降りた。

 暗くて閑散とした通りに出て、彼女の背中が見えなくなるまで見送る。


 ―― さて、どうしようか。

 そう思案しながら中へ入ろうとすると、物陰から、奇妙な声がした。


「相変わらずだねえ、色男」


 男の声だ。

 しかも日本語じゃない、英語……?


 その方向に目をやると、長身で痩せた男が、ふらりと姿を見せた。

 炎のように波打った金色の髪、馳せこけた頬を少し緩ませ、青色の瞳からただならぬ圧を送ってくる。


 ―― 誰だこの人…… ただ者じゃない……

 瞬時に総毛立った肌が、それを物語っている。

 触れようとした瞬間に、喉笛を欠き切られるような、冷めた畏怖感。

 恐怖ではなく、あたかもそれが自然で、普遍の摂理でもあるような。


「誰ですか、あなた?」


 どうにか振り絞った声に、男は目を丸くして、おどけた様子を見せた。


「誰って……何だそれ? つれないねえ。何か月か経つと、昔の上官の顔も、忘れるってか? やっとこうして、会えたってのに」


「昔の、上官……?」


 寒気がするような予感を感じつつ、一応の返答を返す。


「お前、冗談も大概にしろよ、シュリ。5年間ずっと一緒だっただろうが? このグレッグ・アンデルソンの顔を、忘れたとは言わせんぞ?」


「グレッグ……アンデルソン……?」


 何のことか、全く分からない。

 動揺を隠さない俺に何かを察したのか、グレッグと名乗る男は、その整った顔を、きゅっと引き締めた。


「お前もしかして、本当に覚えていないのか?」


「はい。俺はこの5年間の、記憶がないんです。あなたは本当に、俺の知り合いですか?」


「……成程、そういうことか。やっと合点がいったぜ。急にお前がいなくなって、気づいたら日本にいて、こっちには何の連絡もよこさないんだからな。もしかして、ここの連中に、何かをされたのか?」


「……何かって?」


「洗脳とか、薬物投与だよ。記憶がないってことは、恐らく自我にも影響がある程だから、よほど執拗なものだろうけどな」


 この人のことも思い出せないし、何を言っているのかも分からない。

 けど、この人には、色々と話してもいいのではないか、そんな気がして。


「多分違います。俺は4,5か月前に、ルイジェリアの日本大使館の前にいました。その前の記憶がなくて、その時は軍服を着ていました。全身、血まみれの状態で」


 そう告げると、グレッグは刃の切っ先の光を宿す目を細めて、静かに口にした。


「本当に、何も覚えていないのか?」


「はい」


「……アイラのこともか?」


「……アイラ……?」


 聞覚えが無い名前だ。

 一体、誰のことを言っているんだ?


「その様子だと、本当に、そうなのか…… 何てこった……」


 首を大きく振りながら、すうっと項垂れた様子を見せる。

 

「お前が、アイラのことを忘れるなんてな……信じられんが……しかし、そうか……」


 そして、グレッグは俺に正対して、冷徹ではあるけれど、哀れみを湛えた目を向けた。


「シュリ、ちょっと、二人で体を動かせる場所に行こう」


「え……なぜ?」


「言葉だけよりも、体を動かした方がいいように思うんだよ。体に染みついたことは、拭いようが無いからな」


「そんな……何のために?」


「日本政府の連中に何を言われたかは知らんが、お前は、思い出したくないか? 昔の仲間のことや、好きだった女のことをよ?」


「仲間……女……」


 この人の言うことが正しいのなら、きっとこの人以外にも、知り合いはいたのだろう。

 しかも俺には、好きだった女の人がいたのか……?


 気が付くと、俺はその人に連れられて、夜の人気の無い公園に向かっていた。

 少し開けた場所で、周りに人がいないことを確認してから、グレッグは大口を開けて言い放った。


「いいねえ、夜は。まさに俺達特殊部隊にとっては、恰好の場所だ。さあ昔みたいに、殺し合う気でやろうじゃないか!!」


「な、何を……」


 怯んでいる俺を尻目に、大きく息を一つついてから、彼は前のめりで突進を掛けてきた。

 猛烈な速さで、拳が顔面や腹に向かって疾駆してくる。

 何とかかわそうとするけれど、いくつかはまともに食らってしまって、その場から後ろに吹っ飛ばされた。


「ぐ、はあ……っ!」


 顔面に激痛が走り、腹の奥底で鈍い痛みとともに、吐き気が駆け上がってくる。

 間髪を入れずに横殴りの蹴りが舞ってきて、かわし切れずに数メートル吹っ飛ばされ、その場で地面と顔をくっつけた。


 ……強い……全然、動きが見えない。


「はっはあ! 緩くなったなお前! あの世であいつらが笑っているぞ!!」


 再び嵐のように襲ってくる無数の拳や蹴りに対処しきれず、口から血を吐きながら、地にひれ伏す。


 こんな……異次元の強さを相手に、俺が……?

 とても信じられない。その場で呆然と倒れ伏していると、更に冷たい声がかぶさってきた。


「やれやれ……やっぱ、小手先じゃあだめか……なら、こうしようか」


 グレッグは腰の辺りに手をやると、月明かりを浴びて銀色に光るものを手に携えた。

 パチンと音がして、それが持つ鈍い輝きが,不気味に増した。

 それは、刃渡りが10センチは優に超える、ナイフだった。


「やっぱり、命がかかっている方が、面白いだろ?」


 顔面を歪めて笑みを浮かべながら、それをペロリと舐めて、ゆっくと近づいて来た。


 ―― 冗談で言ってるんじゃない、この人は本気だ。

 瞬時にそう悟って、その場で身を起した。


 月光の下、神速とも思えるような刃物の突きが飛んでくる。 

 全神経を集中して、その動きにだけ気を絞る。

 身を翻しながら咄嗟に、自分の足を振り上げた。

 それは彼の体の一部をとらえて、その場から少し後ろにのけ反らせて、彼の動きを止めた。


「ふ……っ。 随分と弱くなったものだが、まあいいか。俺に一撃を、食らわせたんだからな」


 グレッグは満足気にそう言うと、胸もとから何かを取り出した。


「……写真……?」


「ああ。お前が俺の副官になった時に、みんなで撮ったものだ」


 そこには、軍服姿の俺とグレッグとが肩を組んで真ん中にいて、その周りを大勢の兵士達が囲んでいた。

 俺の隣には女の子がいて、瑠璃色の瞳を輝かせながら、無邪気に笑っている。

 ガラスのような透き通った素顔に、長い金色の髪。


「あ、あの……この女の子は……?」


 グレッグはナイフを腰にしまいながら、遥か遠くを見るような眼差しを、星の見えない夜空に向けた。


「アイラ・シュトラ。お前が愛し、そしてお前を心から愛した女だよ」


 その姿には、見覚えがあった。

 いつも夢に出てきて、優しい歌を聞かせてくれて、そして俺の元を去って行く女の子。


 アイラ……

 心の中でそう呟くと、両の目から、洪水のような涙が溢れ出した。

 

 そして、俺の頭の中で、何かが大きく弾けたんだ。




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(作者よりご挨拶です)


桜もそろそろ散りゆく季節、いかがお過ごしでしょうか。


ここまで本作をお読み頂きまして、ありがとうございます。

次回から、珠李の追憶の話が、しばらく続きます。

彼がどういった過去を辿ったのか、その辺りを巡るものになります。

引き続きお付き合い頂けますと幸いです。


どうぞよろしくお願い申し上げます。



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