第58話 幼馴染
「という感じで、俺、五年分程の記憶が、抜けているんだよ」
イベントホールのすぐ傍にあった喫茶店で、分っていることを一通り話すと、弥生と霧島さんは、黙って頷いた。
「あの、失礼ですが、あなたは……?」
そんな質問が急に向けられて、神代先生の両肩が、ぴくんと跳ねた。
「あ、私は……」
「この人は、俺の学校の先生だよ。普段お世話になっているから、今日は一緒に来てもらったんだ」
そう応えると、霧島さんの口元が、少し解けた。
「ふーん、そうなんだ…… 私はてっきり、彼女さんなのかと思いましたけど」
「「えっ!?」」
今度は俺も先生と一緒に、体がぴくんと反応する。
「いや、そんなことは……」
「そ、そうよね……」
二人して応えに窮していると、霧島さんはふふふと笑って、
「あ、あまり気にしないで下さい。ちょっとそう思っただけだから。でもお二人、お似合いだと思いますよ?」
「そ、そうかしら……」
神代先生が、顔を真っ赤に染めて、俯き加減になった。
「それに…… ね、藤堂さん?」
霧島さんの涼やかな目が、何か面白いものでも眺めるように、笑っている。
…… 彼女には、神代先生を抱きかかえていたところを、見られていたんだった。
背中から、夏の暑さ以外の理由で、汗が迸る。
そんな様子を、複雑そうな表情を浮かべて眺めていた弥生が、言葉を続けた。
「でも珠李君、忘れたままじゃ、不便でしょ? これからどうするの?」
「……どこかで一度、ルイジェリアに渡ろうと思う」
「!!」
ずっとそう思っていた。
やはり、頭の中から失くした五年間の原点は、そこにあるような気がする。
そこと向き合うためには、やはり避けられない選択なのだろうと思う。
弥生と霧島さんがふんふんと頷く中で、すぐ横にいる神代先生だけが、暗い顔を覗かせる。
「確かに、それがいいかもね。でも、怖くないの?」
「そうだな……思い出した先に何があるのか、分らないもんな」
「それもそうだけど……危ない国なんでしょ、あそこ?」
「みたいだな。もしかすると、俺も兵士だったかもしれないし」
「え……なに、それ?」
動揺が、俺以外の三人へと伝わっていく。
「まあ、ルイジェリアにいた最後の記憶では、俺は迷彩服を着ていたんだ。それって多分、現地の兵士が着ているやつだよ。だからそう思うんだ」
「……そんな、何で……?」
「分からない。それを確かめに行くんだよ」
「私は、反対!!!」
急に声を上げた神代先生は、何故だか怒ったような顔をして、紅茶を啜った。
彼女はそれ以上は口にせず、他の二人は彼女の語気の強さに驚きはしたものの、それ以上の追及はしなかった。
俺の話を一通り終えて、そろそろお開きに。
気を取り直した霧島さんが、笑顔で話し掛けて来る。
「今日は来てくれてありがとう、藤堂さん。あと一つ、お知らせがあるんだ」
「お知らせ?」
「うん。今日の夜久しぶりに、未来と会うんだ。未来の家で」
「そうか、それは良かったな」
「うん。藤堂さんが、背中を押してくれたお陰です。どうもありがとう!」
良かった。
これで霧島さんと未来が、昔のように、仲のいい姉妹に近づいてくれたらいい。
喫茶店の前の通りで、一時、神代先生と二人きりになった。
「珠李君、今日は私、これで帰るわね」
「あ、そうですか?」
「神谷さんと、久しぶりに話したいでしょう? 彼女も、そうしたいはずだし」
「……ありがとうございます」
神代先生の申し出に、ここは素直に頭を下げる。
「でもね、珠李君。私はあなたに、アフリカには行って欲しくないの」
「そうですか……何故ですか?」
「よく分らないけど……何だかあなたが、遠い人になってしまいそうで。あなたにとってどっちがいいのかは分からないけど、でも私は……」
そう小さな言葉に乗せて、不安げな視線を向けてくる。
―― 心配掛けてごめんなさい、美玲さん。
「美玲さん、俺はどこにも行きませんよ。何があっても、俺の今の居場所は、美玲さんの教室だし、この街です」
「珠李君……」
「心配してくれた美玲さんに、藤堂君ポイントを20点、あげちゃいますから」
「珠李君、黙って行くのは止めてね? 私には絶対に、その前に話してね?」
「分かりました、約束します」
不安を隠そうとしない神代先生にそう告げて、俺は彼女の頭にポンと手を乗せた。
そんな会話の後、神代先生と霧島さんとは別れて、弥生と二人になった。
どこでもいい、どこかゆっくりできる場所……
「ねえ珠李君、中学校、行ってみない?」
「中学校?」
「うん。二人の思い出の場所だし」
「そうだな、いいかもな」
そこからいくつか電車を乗り継いて、かつて通った中学校の校門前に立った。
一応卒業生なので、部外者ではないだろうと考えて、その門をくぐった。
懐かしいな。
走り回った運動場、同級生と机を並べた校舎、今は葉っぱしかついていない桜の並木。
「ここで私が他の子に告白をされた時、珠李君は木の陰でじっと見ていたんだよね」
「え、そんなことがあったのか?」
「ふふっ、そうだよ~」
まだ若かった。
子供だったころの、もっと純粋で眩しい思い出が、一つ一つ蘇っていく。
それから五年経って、俺はまだ高校生。
けれども、俺自身はもう、かなり変わってしまっている気がする。
酒の味を知り、女性の肌の温もりにも触れ、そして血に染まっているかもしれない過去。
そうだ、弥生に訊いておきたかったことがあったんだ。
「なあ、何で俺は、アフリカで飛行機なんかに、乗っていたんだろうな? お前は何か知らないか?」
「お母さんの取材旅行について行くって言ってたわよ。中学の卒業祝いも兼ねてね」
「取材旅行……写真撮影の?」
「多分、そう」
俺の母親は生前、カメラマンのような仕事をしていた。
雑誌社に依頼されて撮影に行ったり、自分の写真集の取材のためとかで、家を空けることが多かったように思う。
恐らく、それに帯同して行ったということか。
「そう言えば弥生。お前、これからどうするんだ?」
「大学を卒業したら、ファッション関係の仕事がしたいな。今の先生に認めてもらえたら、そこで働きたいとも思うし」
そう言葉にしながら、弥生は目を輝かせる。
俺が傍にいなかった五年間、きっと彼女にも、俺の知らない青春があり、葛藤があり、喜びや悲しみがあったはずだ。
今の彼女を、素直に祝福したい。
「そう言う珠李君は、これからどうするの?」
「……必ず、記憶は取り戻す。そっから先のことは、それから考えるよ」
「そう…… とにかく、無事で良かったよ。何かあったら、いつでも相談してね。できるだけ力になるから」
「ああ、ありがとう」
それから、近くの居酒屋に行って、小中学時代の思い出を懐かしく、夜遅くまで語り会った。
時間を忘れる程楽しい夜を過ごしたけれど、この時の俺はまだ、知らなかった。
この日、俺にとって、大きな激震が二つ重なっていたということを。
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