第53話 星空の下で

 宿に帰って大浴場の湯にしっぽりと漬かりながら、つい先ほどのことを思い返していた。

 

 あの女の人は一体……?

 考えても分からないのだけれど、何故だか、他の面々に気安く喋るのは、違うと感じた。

 噂のネタになって面白可笑しく広がっていく、それとは少し違う気がして。


 仮に人間ではなかったとして、自分達の前に姿を見せてくれたことに、何かの意味を考えてしまう。

 あの二人が望んだから? あの二人を助けるため? それとも……


 「お二人、幸せそうでいいですね……」


 確かにそう聞こえた言葉が、頭の中で反芻される。


 きっとあの人は何かの想いをもって、姿を現してくれたんじゃないかと思うから。


 体中が温まった気分で部屋に戻ると、陽気な輩が声を掛けてくる。


「おい藤堂、娯楽室で麻雀しないか?」


「いや、俺やったことないから……」


 時間は10時を回っているが就寝時間は12時、高校生達の夜はまだ続く。


 スマホを拾って目をやると、


『ねえ、散歩でもしない?』


 夢佳からそんなメッセージが届いていた。


 別にいいよと返事をして、一階のロビーで待ち合わせをした。

 赤い絨毯の上にソファが置かれていて、そこに腰を沈めてぼーっとしていると、私服のジャージ姿の夢佳が、階段を降りて来た。


「外、行かない?」


「ああ、いいぞ」


 正面の自動ドアから外に出ると、摩天楼のような光が天から降り注ぐ夜が、二人を包んだ。

 辺りに目を凝らすと、同じような男女が、あちらこちらで同じ時を過ごしている。


「山の夜は、涼しいね」


「ああ、そうだな」


 人気の無い場所を選んで、並んで腰を下ろす。

 湯上りに夜風が心地よく、静寂が耳に優しい。

 

 夜風に乗ってふんわりと、夢佳の金色の髪の毛から、甘い香りが鼻に流れ込む。


「ねえ珠李い~~」


「ん?」


「私のこと、どう思う?」


 悪戯っぽく、そんなことを訊いてくる。


「……何だよ、急に」


 肩の上に夢佳の頭の重みを感じながら、星空を目に宿す。


「ねえ珠李、女の人の幽霊、本当に見たの?」


「幽霊かどうかは分らないが、確かに見たよ」


「ふーん…… 一緒に見たかったなあ。恋を叶えてくれるんでしょ?」


「そんな噂もあるみたいだな。普通に綺麗な女の人だったけど、それ以上には何もないぞ」


「……珠李ってさ、神代先生と、仲いいよね?」


 急にそう言われて、言葉が喉に詰まってしまう。

 確かに、普通の先生と生徒よりは、遥かにな……


「なんで、そう思うんだ?」


「いつも二人で話していると、先生楽しそうだし。それにさっきだって、すぐ横に他の先生がいたのに、珠李と一緒に山に行ったでしょ? それに……恋の女神にも会ってるし……」


「あ……女神かどうかは分んないけどな。赤石の件とかも色々あって、それで先生とは話すようになったからな」


「本当に、それだけ?」


 虚ろな目を向ける夢佳。


「ねえ、先生と私だったらさ、どっちがいいの?」


 えっと…… 思いも掛けず、困った質問だ。

 そんなの、簡単に話せるものでもないし、俺にそんな答えを選べる資格があるのかどうかも分からない。


「なあ夢佳、俺の昔のことは、話したよな?」


「うん」


「俺自身、自分が何者なのかも、よく分からないんだ。だから、二人のどっちかを選ぶなんて、おこがましいと思うよ」


「そんなことないよ」


 真剣な瞳を真っすぐに向けて、顔をぐっと近づけてくる。


「私は、珠李が昔どんなだったとしても、平気。だから、私を選んでよ?」


「選ぶも何も、俺と先生とは……」


 一体、どういう関係なんだろう?

 先生のことは大好きだけれど、だからといって、夢佳のことを嫌いな訳じゃあない。

 かといって両方と同時に…… なんてことは、ありえないことも分かっている。


 彼女の頭の後ろに手を回して、そっと髪の毛を撫でた。


「え…… 珠李……?」


「可愛いな、お前は」


 変な意味はこもっていない。

 本当に、そう思ったのだ。


「……もう……」


 夢佳は俺の背中に手を回して、きつくしがみ付いてきた。

 そんな彼女に、


「夢佳、お前は自分が思っているよりずっと可愛くて綺麗で、いい女だ。だから、もっと自分を大事にするんだ」


「……私、こんなことするの、珠李だけだよ。こんな気持ちになるの。珠李になら、何されても大丈夫」


「そうか……」


 そう真正面から言われると、放っておけない気持ちが沸き上がってくる。

 胸板に温かさと心地よい重みを感じながら、空を見上げる。


 そして、ふっと脳裏に、影が過る。

 ……ああ、こんなこと、確か昔にもあったよな……


 同じ想いを抱きながら、同じ空を見上げたひとが、きっといたんだ。

 そんな郷愁が、胸に去来する。


「ねえ、珠李……」


「なんだ?」


「ちゃんと、キスしてよ」


 ―― 断れないかな、今は。

 このまま夢佳の気持ちに応えてやることは、難しい。

 けれどここで断ってしまうと、彼女を傷つけてしまうような気もして。


 首を下に折ると、彼女がすっと顔を上げてきて。


 俺はそっと、彼女のおでこに、唇を付けた。


「え…… 珠李……?」


「ごめんな。今の俺ができるのは、このくらいだ」


 夢佳はちょっと不服そうに、また幼い子供のように俺にしがみ付いて。

 そのまま静かに一緒に時を過ごした。


「お~い、もうじき就寝時間だぞお! さっさと部屋に戻れえ!!」


 もうそんなに時間が経ってしまったのか。

 体育教師の野太い声が、夜のしじまの空気を無造作に切り裂いた。


「帰ろうか?」


「……うん」


 自動ドアを抜けて、燦燦と照らされた蛍光灯の下の夢佳は頬が紅く火照っていて、無邪気に口元を緩めていた。



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