第50話 現在と過去と
焼肉店を出てしばらくすると、あらかじめ呼んでおいたタクシーが到着した。
ほろ酔い気分の神代先生を横に乗せて、俺の家の場所を運転手に告げた。
二人を乗せた車は、夜の街の華やかな灯りを車窓に映しながら、心地よい揺れを伝えてくる。
「綺麗ね、街の光……」
「そうですね。でも、美玲さんの方が綺麗ですよ」
「……もう、またそんなことを……」
照れ隠しなのか、軽い笑みを浮かべながら、俺の肩を軽くはたいてくる。
排気音の音と背中に感じる振動を受けながら、緩やかな時を過ごし、やがて車は指定した高層マンションの前で停まる。
「前にここに来たときは、美玲さんは寝ていましたよね」
「もう、言わないでよ……恥ずかしい……」
先生を軽くからかいながら、エントランスを抜けてエレベーターで上に昇り、部屋へと向かう。
彼女は廊下を歩く時、落ち着かない様子で、きょろきょろと目を泳がせていた。
無意識のうちにでも、人目を気にしていたのかもしれない。
もっとドキドキと胸が波打つかと思っていたけれど、意外と落ち着いている。
胸の閊えをつまびらかにした上でこうして一緒にいられることに、安堵感を感じているせいだろうか。
扉の鍵を開けて、
「どうぞ」
「お邪魔します……」
室内に静かに歩を進めて、彼女は立ち止まった。
「どうぞ、座って下さい」
「……ありがとう」
少し硬い笑顔で頷いて、俺に薦められるまま、リビングのソファに腰を沈めた。
「どうしましょう? ちょっと飲み直しますか?」
「そうね、そうしようかな」
時刻は9時を回ったあたり。
言葉を交わす時間はまだ残っている。
「折角だから、ワインでも開けましょうか? 一人で飲むのは味気ないかなと思って、置きっぱなしのやつがあるんです」
「いいわね、ワイン。久しぶりだなあ」
年代も銘柄もよく分からない赤ワインを冷蔵庫から取り出し、買い置きしていたチーズと一緒に、テーブルの上に並べた。
横に並んで座って、取り止めのない会話を堪能していく。
窓の外には、いつものように、宝石箱をひっくり返したような夜景がまたたいている。
俺にとっては日常の景色だけれど、神代先生はじっとそれに見入って、目を蕩けさせている。
心地のいい柔らかい時間を感じつつ、ボトルがほぼ空いたところで、
「ねえ……お風呂、借りていい? 今日暑かったから、汗かいちゃて……」
「ええ、いいですよ。良かったらバスローブ出しますから、使って下さい」
「ありがとう」
恥ずかし気に笑みを浮かべながら、先生は浴室のある方へ姿を移した。
これ、お泊り確定ってこと、かな……?
体の中が、ぐんと熱くなっていくのを感じてしまう。
リビングの中を迷い犬のように一人でうろうろしながら、落ち着かない時間を過ごす。
『ガチャリ』
程なくして、浴室に通じる扉が開いた。
その先に、白いバスローブに身を包んで、長い黒髪がしっとりと湿ったままの、神代先生がいた。
化粧っけのない素肌はいつもよりも幼さを匂わせて、はにかんだ笑顔が初々しい。
「お待たせ」
「あ、ああ…… じゃあ、俺も……」
急ぎ足で浴室に身を移して、全身を泡でくまなく洗う。
いつもよりも、しっかりと念入りに、隅々まで。
洗面所に置いてある歯ブラシで、口の中も念入りに綺麗にした。
胸を高鳴らせながらリビングに戻ると、神代先生がソファにちょこんと腰を下ろしていた。
「美玲さん」
「……珠李君……」
「とっても綺麗です」
「……ありがとう、嬉しい……」
どちらから先なのか分からないまま、二人で抱きしめ合う。
まだ生乾きの髪からは、ほんのりと甘い香、いつも自分で使っているシャンプーと同じ匂いだ。
「……向こう行きましょうか?」
「……うん……」
小さく頷いた彼女を両手で抱え上げて、ベッドの上まで運んだ。
部屋の明かりを暗くしてから、
「美玲さん……!」
そっと唇を重ねると、彼女の両腕が俺の背中を覆った。
それから二人は、男と女になった。
切ない声を上げて身をよじる彼女に、俺は夢中で溺れていく。
「お願い、珠李君……もっと優しく……」
「あ、ごめんなさい……」
頭に血が昇った自分を抑えながら、肌を重ねていく。
やがて夢中で駆け抜けた時間が過ぎて、胸の中でうずくまる神代先生の髪を、優しく撫でた。
愛しさと安らぎとを胸に感じながら、もう一つの感情が自分の中に湧き上がってくる。
やっぱり、以前にもこの感じ……
同じような匂い、温かさ、温もり…… どこかで、誰かと。
朧げな影が、頭の中でゆっくりと像を結んでいく。
甘い香、透き通る白い肌と温もり、そして長くたおやかな金色の髪……
顔までははっきとは分からない。
けれどその像は、たびたび夢の中に出てくる少女と、よく似ている。
夢の中の彼女とは、やっぱり、どこかで会っている……?
その思いが、ぐっと心の中を支配する。
「珠李君……」
不意に、神代先生の小声が、耳に流れ込んできた。
「はい?」
「何考えていたの?」
「いや、何って、別に……」
まさか、他の女性にことに想いを馳せていたとは言えず。
戸惑いながら、言葉を濁した。
「ごめんなさい。何だか、遠くを見ているような目をしていたから」
大きくて澄みきった黒目を上目使いで俺を見ながら、
不安げな面持ちを、その顔に宿している。
遠くを…… そうだな、もし海を隔てて遥か異国の地に想いが飛翔していたのなら、それも不思議ではないのかな。
無意識のうちに、そんな顔をしていたのかもしれないな。
「ねえ珠李君、遠くへ行ったりしないでね」
「え……? なんで、そんなことを?」
「ううん。ただ、ちょっと、怖かったから……」
そう声に出しながら、彼女は体を密着させて、俺の背中に手を回し、ぐっと力を込めた。
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