第49話 こんな奴だけど
「……どうしたの? 急にあらたまって?」
恐らく真顔になっていたであろう俺を瞳に映して、神代先生は首を傾けた。
「先生に、俺が日本に来る前のことを、聞いておいて欲しいんです」
「……日本に、来る前……?」
彼女は目を丸くしながら、訊き返した。
「はい。俺は4カ月ほど前までは多分、アフリカのルイジェリアって国にいたんです」
「……え?」
表情を硬くしながら、じっとこちらに向けている目線を強める。
「ルイジェリア…… よくは知らない国だけれど……」
「10年ほどずっと内戦が続いていて、最近になって…… ちょうど、俺が日本に帰って来た時あたりで、落ち着いた国です。反政府軍側が、新しい政府を作ったようですね」
「そこに、珠李君が?」
「はい。記憶にあるのは、その国の首都ルキアの日本大使館前に立っていた時からです…… 血まみれの状態で」
「……… !!! ………」
お酒のせいか、神代先生は顔は赤いままだけれども、全身を強張らせていくのが、二人の間の空気を通じて伝わってくる。
一時、網の上で肉が焼ける音だけが、この場を支配した。
「……珠李君、それって、どこか怪我でも……?」
「いえ、怪我はしていません。だから、誰か他の人の血です。その時に着ていた迷彩服は全身血まみれで、両方の手も真っ赤だったんです」
「……迷彩、服……?」
「はい。よく兵隊が戦場で着ている、あれですよ」
どう反応してよいのか、分からないのだろう。
明らかに彼女の目が曇り、動揺の表情を隠しきれない。
「それ……何故……?」
「それが思い出せないんです。何故そこにいたのか。五年もの間ずっとそこにいたのかどうか。そこで何をしていたのか。僅かに残るのは、断片的で出所の分からない夢と記憶の欠片だけです」
「夢と記憶の欠片?」
「たまに、頭の中で声が聞こえたり、夢を見たりするんです。いつも同じ声、同じ姿なんですが、誰なのかは思い出せません。もしかすると、昔に知り合った人達かなとは、思ったりしているんですが」
誰だか分からない女の子の夢、頭の中で囁く男たちの声、繰り返し訪れるそれらの源は、恐らく忘れ去った時間を共にした人達なのではないかと思う。
「それから日本大使館や外務省の人達のお世話になって、この国に帰って来たんです。日本人だってことは覚えていて、その記録も日本の方で残っていたみたいなので。最初は色々と怪しまれて訊かれましたけど、何とか」
市街の至る所に黒い煙が立ち上る中、日の丸のはためく建物の前にいきなり現れた不審者に対して、最初は銃口が突き付けられて、拘束された。
それから日本語で、自分は日本人なのだということを、職員の人や、丁度出張でその場にいた豊芝さんに訴え続けているうちに、徐々に普通に接してもらえるようになっていった。
「帰国後も、外務省にいる豊芝さんっていう女性のお世話になって、住居や学校なんかも世話してもらったんですよ」
「……ねえ、珠李君。あなた、ご両親がいないのよね? その……どうやって、生活をしているの?」
「よく分からないけれど、お金はかなりあるんです。無くなったお母さんの保険金や遺産とか。それに…… ルイジェリアの政府から、現金が振り込まれてきていて」
「ルイジェリアから?」
「はい。ざっと一億円ほど。それに、今住んでいるところは外務省の借り上げ施設らしくって、家賃はそれほど高くないんです」
あまりに唐突で荒唐無稽な話なのだろう。
先生の表情に、もっと深い影が落ちる。
「……ねえ、それって、外務省の方で、珠李君のこと、色々と分かっているってことじゃないの?」
「そうみたいですね。けれど、自分である程度思い出すまでは話せないって、豊芝さんからは言われています。彼女は実質、今の俺の保護者みたいな方ですけれど」
ひとまず、今話せるのは、そんなところまでだろう。
一息ついて、泡が抜けきった黄色の液体を、ぐっと喉に流し込んだ。
「……すいません、急にこんな話……」
両手を膝の上に置いて、彼女に向って、深々と腰を折った。
彼女はそんな俺を見つめて、唇を真一文字に結ぶ。
網の上では、既に炭になりつつある肉と野菜が、じゅうじゅうと音を奏でている。
「あの、珠李君……私……どうしたら……」
ようやく口を開いて、迷いの丈を言葉に乗せる。
「先生、何もしなくてもいいです。それよりも、俺がどうしたらいいかは、ずっと考えています。軽い気持ちで高校に入ってしまいましたが、こんな奴がそれをして良かったのか? もしかするとですけど、そんな昔の自分と、距離を置きたかったのかもしれません。けれどそれに、周りの人を巻き込んではいけないとも思うんです。先生を含めて」
「…………」
「だから、先生が嫌だったら、こんな奴と付き合うのはやめて下さい。こうして会うのも、今日限りで」
「ちょ……珠李君……!」
先生の顔いっぱいに、明らかに動揺の二文字が広がっていく。
お酒の酔いも覚めたのか、頬の色が次第に蒼白になっていく。
「……お願い、ちょっと待って……」
そう小さく呟いてから、ぐっと頭を下に垂れて、沈黙の時間の中に身を置く神代先生。
申し訳ない、先生。
けれど、これを隠したままにしておくのは、何だか裏切りの行為のような気がして。
本当は、肌を重ねる前に話しておくべきだったのかもと、反省と後悔の念が頭を過る。
綺麗な彼女の体を、俺の汚れた手が汚してしまったかもしれない、その悔恨の情……
彼女が口を開くまで、静かに待った。
やがて、憔悴したような表情を、俺に向けた。
「……ありがとう、話してくれて。そんなこと考えてもみなかったわ。きっと、辛かったでしょう?」
「そうですね…… 最初は、何だか他人事のようにふわふわして、あまり気にならなかったです。けれど、学校に行って色んな人と喋るようになってからは、これでいいのかなって思いは強くなって」
「学校で、このことを知っている人はいるの?」
「夢佳と未来には、簡単に話しました。色々と都合があって……」
「……そう……」
彼女はこくんと頷くと、何かを自分で飲み込むような仕草を見せて、言葉をつないだ。
「珠李君、あなたはもう、私の生徒なの。だから余計な心配はしないで。私もできるだけ、力になるから」
「……先生……」
「あの……それにね……私のことはやっぱり、美鈴って呼んでくれると、嬉しいんだけど……」
「……え?」
「きっと、何か事情があったのよね。でも私、どんな貴方でも受け入れるから。今の貴方は……その……私にとっても、大事なの……」
「……美鈴、さん……」
彼女の言葉が胸に沁み込み、寒かった心根に温かみが広がっていく。
「本当に、いいんですか?」
「ええ……」
小さく首を縦に振ってから、消え入りそうな声で彼女は呟いた。
「……今夜…… 珠李君のお家に行っちゃ、ダメかな……?」
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