第48話 先生との会食
土曜日の昼下がりは、灼熱の世界だった。
青雲が棚引く空に蝉の甲高い鳴き声が響きわたる。
アスファルトに目を凝らすと、陽炎が立って濃紺の表面がゆらりゆらりとが揺れている。
今日は夕方から神代先生との約束があるので、それまではのんびりと過ごしている。
朝の涼しい内にランニングと体操を済ませ、近所の本屋に立ち寄って眼に留まった文庫本を何冊か仕入れて、部屋に戻ってシャワーを浴びる。
冷房が効いた部屋でファンタジーの世界に浸り、物語の主人公がヒロインに愛の告白をしたところまででタイムオーバー。
栞を挟んで本を閉じてから、部屋着を脱いで外出の準備をする。
えっと、待ち合わせ場所は……
メッセージアプリでもう一度確認してから、炎天下の中を駅へと急ぐ。
まだ日の落ち切らない夕刻、約束の場所に着くと、すぐに一人の女性が目に入った。
長い黒髪が目に美しく、水色のミニスカートが真っ白な素足と相まって、清潔感を映している。
「美玲さん」
近寄って声を掛けると、神代先生は美白に彩られた素顔をこちらに向けて、表情を崩した。
「珠李君」
「お待たせしました。暑かったでしょう?」
「ううん。私も今来たとこだから」
そう言いながら、額に光るものが浮かんでいる。
日陰とはいえ、夏の暑さは容赦がない。
かなり長い時間、ここにいてくれたのかもしれない。
「美玲さん、今日も素敵ですね。まるで水の女神のようです」
「……珠李君、それは、言い過ぎだってば……」
いつものように軽く言葉を掛けると、恥ずかしそうに黒く艶やかな瞳を俺に向ける。
「いいえ。美玲さんは綺麗ですよ。もっと自信もっていいと思います」
「あの、えっと……今日、どうする? 珠李君が食べたいものでいいんだけど」
そういえば、まだ何も決めていなかったな。
先生をよく見ると、清楚な服装に不似合いなほどの、黒くて大きな鞄を肩に掛けている。
「そうか、美玲さんは、学校からの帰りですか?」
「そうなのよ。テストの採点やら次の授業の準備やら、いろいろやってたら、結構かかっちゃってね」
「そうですか。お腹減ってますよね?」
「そうね。ずっと仕事で、お昼もほとんど食べてないから」
「じゃあ、がっつり焼肉でも行きませんか? 力つきますよ」
「ええ、珠李君がそれがいいなら、私もそれでいいけど」
早速スマホで検索して、臭いのつかない無縁ロースターの店を探す。
自分一人で行く時は煙がもくもくでも全然気にならないが、先生にはあまりお薦めできない。
そうして向かったのは、半個室が売りの、綺麗な店づくりの焼き肉店。
ここならゆっくり話もできそうだ。
「本日はご来店ありがとうございます」
気さくな若いお兄さんに、飲み物二つと、何皿か肉と焼き野菜を注文する。
先生は特に、苦手な部位とかは無いようだ。
「焼肉屋さん、久しぶりだなあ」
「美鈴さんは、あまり肉食系ではないんですか?」
「そうでもないんだけど、あまり一人では来ないからね」
「……彼氏さんと一緒にとかは、なかったんですか?」
突っ込んでも大丈夫かなと思いながら、もう気にしていないのかどうかも気になったので、ちょっとだけ触れてみる。
「……あまりなかったわね。忙しい人だったし、あまりこういう所は好きじゃなかったみたい」
「そうですか。先生も忙しいから、お互いに大変だったんでしょうね」
「そうね。最近では、一緒に会う時間も、ほとんどなかったわね」
そんな感じで淡々と語る神代先生。
見た所、あまり気にしている風には見えない。
「ごめんなさい、変なこと訊いて。でも、美鈴さんのことがちょっと心配だったので」
「ううん、ありがとう。でも何でかな、意外ともう平気なのよ」
「そうですか、それは良かったです」
「はい、お待ちどお様です~!」
元気のいい店員さんが、次々にドリンクや肉が盛られた皿を運んでくる。
他の席も客で埋まりつつあり、微かに笑い声が流れてくる。
タン塩を軽く火で炙ってからレモン汁を落として、口の中に放り込む。
ぐっと生ビールを煽って、至福の時間にダイブする。
「珠李君」
生中のジョッキが半分ほど空いたころ、先生が静かに口を動かした。
「ありがとう、色々と。私先生なのに、生徒のあなたに、たくさん助けられちゃった」
「いーえ、全然お気になさらずに。そんなに大したことでもないし、済んでしまった今は、結構楽しいですよ。赤石や未来とも、普通に喋れてるし」
「そう言って貰えると、嬉しいけど……」
それから少し俯いて、逡巡の間があってから、震える声で言葉を続けた。
「その……この前の夜のことだって……」
顔を真っ赤に染めてから、ぐっと生ジョッキを空にした。
お酒の力も借りて、言葉を絞り出しているようにも見えてしまう。
「ごめんなさい。本当は駄目よね。先生と生徒が、あんなこと……」
こちらもあの夜のことを思い出して、途端に心臓の音が高鳴っていく。
俺としては後悔などしていないし、先生とああなれて、夢見心地だ。
それに何故だか、懐かしく甘い気持ちが心を満たしてくれて、安らぎも感じられた。
「俺は嬉しかったですよ、美鈴さん。確かに高校生としてはどうだったかなとは思わなくもないけど、でも先生も生徒も人間だし。お互いが大丈夫なら、それでいいのでないかと思うんです」
「珠李君……」
小鹿のような瞳でこちらを見つめて、また視線を下に落とした。
肩をすくめて、少し拗ねたように、唇をきゅっと噛んでいる。
―― それに俺、先生のこと大好きですし
いつもの感じで言いかけて、言葉を飲み込んだ。
今は言えないな。
これ以上仲良くなるには、その前に話しておかないといけないことがある。
「美鈴さん、食べましょう。お肉焼けていますよ」
ロースターの下の金網の上で、白いサシが入った赤み肉がこんがり焼け、真っ白い油の塊を含んだホルモンが煙を上げている。
緑や黄色の野菜に黒い焼き目がついて、食べごろだよと告げている、
お互いのジョッキが空になったので、お代わりを注文。
先生は耳まで真っ赤に染めて、コクコクと美味しそうに喉を鳴らす。
そんな様子を間近で見やりながら、こちらも和やかな気持ちに浸る。
「美玲さん」
大分お腹も満足してきたころ、俺は鉛のように重たい口を開いた。
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(作者よりご挨拶です)
突然に申し訳ございません。
皆様お忙しい中、本作のためにお時間を割いて頂き、また応援も賜りまして、誠にありがとうございます。
この場をお借りして、一言御礼のご挨拶とさせて痛ければ幸いです。
季節も変わって温暖の差もまだ大きく、またもうじき新年度で、慣れない環境に身を置く方々もおられるかと思います。
どうぞお体には気を付けて、ご健勝にお過ごし下さい。
引き続き、どうぞよろしくお願い申し上げます。
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