第36話 触りたいな
夢佳と会話を交わしていると、土鍋の中の出し汁が沸騰して、いい具合に具材が煮えてきた。
白濁して透明な油が浮かぶ中を、緑や赤の野菜や、乳白色に染まった鶏肉やつみれが泳ぐ。
「ここ、スープが美味いんだよ」
「そうなのね」
お玉でスープを掬ってお椀に注いで、夢佳に手渡す。
彼女はそれをそっと口に近づけて、一口啜る。
「本当だ、甘くて美味しいな」
「だろ? 鳥ももう煮えているぞ」
鶏肉を口に入れると、心地よい弾力で歯を押し返してくる。
あっさりした味の肉から油が染み出し、コラーゲンをふんだんに含んだ出し汁と混ざり合って、旨味の協奏曲が奏でられる。
「これ食ったらお肌がつるつるになって、夢佳はもっと綺麗になるぞ」
「あら、そうかしら。そんな私と一緒にいられて、珠李は幸せ者ね」
「言ってろ。あ、ビール追加かな」
金色に輝く髪の毛を指で梳きながら、幸せそうに鍋を頬張る夢佳を見ていて、ある想いが浮かんだ。
―― 触りたいな、あれ。
一本一本が絹のように、細くてたおやかで、それがたくさん集まって、微かに揺れてきらきらと光を放つ。
綺麗だなと悩殺されながら、いつも夢見る彼女とイメージが重なる。
そっくりなのだ。
髪の色も、長さも、ゆるく揺れる様も。
つい、俺は口にした。
「なあ、夢佳」
「なにかしら?」
「その髪、触らせてくれないか?」
「………え………?」
一瞬耳を疑ったようで、彼女は箸を止めて、黒目を見開いた。
「あの……急に何を言うの?」
「いや、あまりに綺麗だからさ」
「……珠李なら、いいけど。今ここで?」
「うん」
「……いいわよ、どうぞ」
ぴんと背筋を伸ばして、おすまし顔でかしこまって正対する。
「隣、いくな?」
「……うん……」
席を移動して夢佳のすぐ隣に移動する。
ここは半個室状態なので、他からは見えない。
そっと手を当てて軽くなぞって、手を差し入れてかきあげる。
手を抜くと一本一本がさらさらと解けて、金色の粉雪のようにふんわりと舞って、彼女の細い肩の上に降りて行く。
そこからはほんのりと甘い花の香りが漂って、鼻の奥に広がる。
何回もそんなことをしていると、
「ん……」
「どした?」
「珠李、ちょっとくすぐったいわ」
「あ、悪い……」
「こんなとこじゃなくて、お家に連れていってくれたら、もっと好きにできるのよ?」
「そうだな……そのうち、お願いするかもな」
「……かもじゃなくって。いつでもいいのよ」
小首をこちらに向けて、いたずらっ子のような眼で微笑む。
―― 思い出せるかもな。
夢佳の髪を撫でていて、何だか優しくて、懐かしい気持ちになった。
神代先生と肌を重ねた時にも、同じようなことを思った。
いつか見た白い肌と、感じた温もり。
やっぱり夢の中のあの子とは、どこかで会っているんじゃないだろうか。
もしかして、夢佳や先生と一緒にいることで、何か思い出すことがあるのかもしれない。
そんな風に思ったけれど、それは口には出せなかった。
今目の前にいるのは、夢佳ただ一人。
別の誰かではない、彼女は彼女。
別の何かを思い出すための何か、そんなことは決してないのだから。
「なあ夢佳」
「なに?」
「これからも、俺の友達でいてくれるか?」
「……何よ、また急に?」
「すまん。今思ったんだ」
「友達でも、それ以上でも。私はずっと、珠李の傍にいますよ」
「ありがとう」
腰を上げて、元の場所に戻ろうとすると、
「おい、放せよ」
「やだ」
夢佳がしがみ付いてきて、真っ白く細い腕で、俺のことを抱きとめている。
「狭いけど、いいのか?」
「うん」
「分かった」
「……ねえ」
「なんだ?」
「珠李の方こそ、ずっと一緒にいてね?」
「ああ。ずっと友達だ」
「……そういうんじゃなくてさあ……」
赤く染まったほっぺたを俺の胸もとに押し付けて、ぐりぐりとこすりつけてくる。
「なあ、鍋が煮詰まるから、食ってしまわないか?」
「……はいはい、分かりました」
鼻をつんと尖らせて、俺から離れて、鍋をつつく夢佳。
ごめんな。
言ってくれようとしていることは、何となく分かるんだ。
けど、やっぱりどこかが引っ掛かる。
夢の中の彼女。
肌を重ねた神代先生。
そして、まだ見えてこない過去の自分。
「なあ夢佳?」
「ん?」
「もし俺が、普通の人間じゃなかったら、どうする?」
「っぐ……げふ……!」
喉に詰まらせたのか、夢佳が咳き込んでいる。
「な、なによそれ!? どういうこと!? さっきから何か変よ、珠李?」
「俺が殺人鬼や、血塗られた悪魔とかだったら、どうする?」
「……どうして、そんな怖いこと言うの!?」
不安げな視線を送りながら、少し怒ったように言葉を投げてくる。
夢佳には伝えておこう。
「ルイジェリアの日本大使館の前にいた時、俺は迷彩服を着ていて、全身が血まみれだったんだよ。なぜそうなったのかは、まだ分からないんだ」
「…………」
「血で真っ赤に染まっていた手で触れられるのって、嫌じゃないか?」
夢佳は両の手を膝の上に置いて、黙り込む。
空気が鈍重に感じる。
俺から顔が見えないように首を傾げ、そのまま時間が流れていく。
やがて、
「それ、本当なのね……?」
「ああ、本当だ」
「……全く……本当に不思議な人」
「夢佳……?」
「そんなこと言っても無駄よ。私は珠李と、ずっと一緒にいるんだから」
「本当に、いいのか?」
「うん。私は、今ここにいる珠李を、信じているから。きっと何か、理由があったのよ」
そう言って笑う夢佳は、まるで天使のように優しく映った。
こんなにいいやつだったんだな、こいつ。
「ねえ、そんな珠李は、どうやって日本に戻って来たの?」
思い出したように、そんなことを口にする。
「その時、たまたま出張で来ていた外務省のお姉さんの世話になったんだよ。帰国の手配からこっちで住む所まで、全部な」
「そうなんだ。じゃあ、もしかして今でも会ってるの?」
「ああ。豊芝さんっていう、キャリアの玉子で美人だよ。この前も一緒に飯食ったよ」
「ふ~~~~ん……」
「なんだよ?」
ちょっと怒り顔になった夢佳は、大げさにぶんぶんと首を振って、
「何でもない! さ、食べようよ?」
「ああ」
少し煮詰まった水炊き鍋は、甘辛の風味が強かった。
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