第25話 先生の部屋で

 神代先生の後ろについて、脇に観葉植物が置かれたエントランスを抜けて、階段を昇る。


「ここよ」


 三階まで上がって、並んでいるドアの一つの前で立ち止まり、鍵穴に鍵を差し込む。

 暗かった室内に灯りが灯って、


「どうぞ。ちらかっていて申し訳ないけど」


「お邪魔します」


 初めて入る先生の、いや、記憶の限りでは女の人の部屋。

 緊張と胸の高まりを禁じえない。


 いい匂いがする、

 綺麗に整理された玄関先で靴を脱いでいると、花の香が鼻腔をくすぐった。


「どうぞ、適当に座って」


「はい」


 通されたリビングにあるソファに腰を据えて、チラチラと目を這わせる。


「お茶でも入れましょうか? それとも、もう一回飲みなおす?」


「先生の気分でいいですよ。もう一回乾杯しましょうか?」


「いいわね。ちょっと待っててね」


 白いカバーがかかった柔らかそうなベッド、枕もとに三つほど置かれた目覚まし時計が、先生の几帳面さを示しているように感じる。

 壁には仔猫の写真が載ったカレンダー、動物好きなのだろうか。


 目の前のテーブルには、パソコンや、何か書きかけの紙が積まれている。

 家に帰っても、仕事をしているのかな、先生。


 壁際の白い本棚には、沢山の本。

 その上には、真ん丸な動物のキャラクターが、何匹か寝そべっている。


 窓に掛かった黄色のカーテンが開かれていて、夜の闇がこちらを覗き込んでいた。


「はい、何もなくて申し訳ないけど」


「ありがとうございます」


 先生が運んできたお盆の上には、柿の種とポテトチップ、それにビールの缶にグラスが二つ。

 同じソファに肩を寄せ合って座り、グラスを黄色の液体と白い泡で満たして、それをこつんと合わせる。


 …… 近いな、先生。

 横に眼をやると、すぐ手の届くところで、丸い胸もとや真っ白い脚が、こちら側に傾いてる。


 ダメだ、気を抜くと、理性が飛びそうだ。


「せ、先生は、普段は一人で、家飲みとかするんですか?」


「あまりないわね。友達とかが来た時のために、用意はしているけど」


「そうですか」


「藤堂君は?」


「俺は……ほぼ毎日かな。夜は、それが主食みたいなもので」


「それ……体壊すわよ?」


 すぐ真横から、先生の心配そうな視線の直撃を受ける。


「ですかね。けど、その方が、寝つきがいいんですよ」


「そんなの……健康に良くないわ」


「俺からしたら、先生の方が心配ですけど? 家に帰っても、仕事とかしていません?」


「まあ、たまにね。私、仕事が遅いから」


 学校ではなんでもそつなくこなしているように見えるけれど、陰では苦労しているんだな。

 でもそんな方が、なんだか身近に感じられる。


「先生は頑張り屋さんなんですね。ますます大好きになりました。でも、無理はダメですよ。先生には、いつも笑っていて欲しいです」


「あの……藤堂君、その……」


「はい?」


「何ていうか……私、先生なのに……藤堂君に色んなこと…………ごめんなさい」


 またいつものような感じで、俯き加減で頬を赤らめる。


「いいんですよ。俺は先生の役に立てれば嬉しいし。それに、まだ高校には慣れてないけど、先生がいてくれるお陰で、毎日が楽しいです」


「そうかな。そういってくれると、嬉しいわ」


 軽い雑談を交わしながら、甘い緊張感に抱擁されて、さらに夜は更けていく。


 神代先生の目が塞がりかけになって、体が揺れて、こつこつと肩が当たってくる。


「先生、もう遅いですから、そろそろ寝ませんと」


「……そうね、もうこんな時間……」


「ええ、俺、そろそろ」


 そう言って腰を上げようとすると、先生に腕を掴まれた。


「……いてくれないかな、ここに……」


 え………

 心臓が直接雷に打たれたような感覚。


 この部屋に入った時からなんとなく予感はあったけれど、実際にそう言われると……


「えっと、その……」


 いいのだろうか。

 俺達は大人とはいえ、先生と生徒。

 それに俺は、俺の過去は、そんな事が許されるようなものなのか――


 逡巡が、胸の中を駆けまわる。


「あの……ごめんね、私……なに言ってるんだろ……」


 俺の手を掴む力が、だんだんと弱まっていく。

 恥ずかしそうに、ぐっと下を向く先生。


 ―― こんな人、置いて行ける訳ないじゃないか。


「どこにも行きませんよ、先生。じゃあ今夜はずっと、ここにいます」


「……藤堂君……」


 安心したのか、俺から手を放して、柔らかな目を送ってくる。


「あの……良かったら、お風呂でも入る?」


「はい、じゃあ、そうします」


 そう促してもらって、シャワールームへ。

 服を脱いで裸になり、蛇口を捻って、熱い湯を被る。

 心地いい飛沫に感じ入っていると、シャワールームの外から、先生の声がした。


「藤堂君」


「あ、はい!」


「タオルと着替え、ここに置いとくから。あと、青い歯ブラシは新品だから、良かったら使って」


「はい、ありがとうございます」


 着替え…… 男物かな。

 だとしたら、先生の家族か、それか元カレのものかな。


 女性用のシャンプーとリンス……

 これって、男が使っても、大丈夫なんだよな?

 手に取って泡立てると、濃厚で甘い香りが漂った。


 全身を念入りにしっかりと洗い終えて。


 体を拭いて、スウェットシャツとパンツに着替える。

 丁度いい大きさだ。


 いつもの倍以上の時間を掛けて、口の中を隅々までブラッシングする。


「先生、お先でした」


「あら、結構似合っているわね、それ」


「そうですか?」


「それ、まだ誰も着てないやつだから」


 そっか。

 元カレのために買って、そのまま着られないままだったのかな。


「それじゃあ、俺のために、買っておいてもらったようなものですね」


「あ、そうね…………、私も、シャワー浴びてきていいかな……?」


 頬を赤らめながら、恥ずかしそうに訊いてくる先生に、

 頷いて、その後ろ姿を見送った。



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