第22話 安堵と不安と
「……先生、そろそろ行きましょうか?」
「え、ええ、そうね……」
先生との熱い抱擁の時間は名残惜しいけれど、ずっとこうしている訳にもいかない。
赤石達とは、きっちり話をつけておく必要があるのだ。
神代先生は、ようやく落ち着きを取り戻したようだ。
白くてか細い指で目尻を拭い、口元を綻ばせている。
身を寄せあって校舎の脇を歩いていると、
「あ、あの、藤堂君?」
「はい?」
「これ、嬉しいんだけど、ここから先はちょっと……」
真っ赤な顔を俺に向けながら、彼女の肩をしっかりと包んだ俺の手を、つんつんと指でつついてくる。
「ああ、そうか、すいません。ここ学校ですもんね?」
「うん、ごめんね……」
ぱっと手を放して、
「先生、ここから先は、一人で大丈夫ですか?」
「ええ、平気だけど……藤堂君はどうするの?」
「俺は、赤石達と話をつけてきます」
穏やかだった先生の表情が、みるみるうちに氷のように固く冷たくなっていく。
「そんな……ダメよ、藤堂君! 本当は先生の仕事なのに、あなただけでそんな危ないことを……」
「いえ、多分大丈夫ですよ。大人しくなっている今が、チャンスかもです」
「でも……だったら、私も……」
「奴らにはいずれ、先生に謝らせようかと思います。けれど、今日は、俺に任せて下さい。先生は怖い目に会ったばっかりなんだから、少し休まないと」
「でも……」
「先生、好きって言ってくれた俺のこと、ちょっとは信頼して下さい。できるだけのこと、してみますから」
神代先生が、はっとなって、両手を左右に振りながら、
「あ、あの、その、あれはね……先生としてって言うか、何と言うか……」
「ああ、それでもいいです、嬉しかったから。俺は先生のこと、先生としても、女性としても、大好きですけど」
「え……と、藤堂君……?」
「だって、こんなに綺麗で可愛くて、スタイルもよくてファッションセンスもあって、真面目で生徒思いで、明るくて優しくて、行動力もある。こんな素敵な女性、そうはいません。いえ、多分先生以外にはいません。大好きにならない方が、おかしいです」
「…………あの…………」
消え入りそうな声でそれだけ呟くと、ぐっと首を下に折って、黙りこくる神代先生。
元気になってもらいたくて、せいいっぱい思いついたことを並べてみたけれど。
言葉を発しなくなった先生を見て、かえって困らせたかなと不安がこみ上げる。
すると、小さな声が耳をくすぐった。
「……ありがとう、藤堂君……」
「あ、はい……」
「私も、そうかも……」
「…………先生?」
そうかもって…… なにが?
「あの……」
「あ、じゃ、じゃあ行くね、藤堂君……」
「……はい」
真っ赤な顔の神代先生にお別れをしてから、俺は反転180度で、赤石達が待つ体育館裏に戻った。
悶絶状態からどうにか回復した赤石と大田黒、それに青芝と茶野が、一斉に視線を投げつけてきた。
「なんだ? まだやるなら、四人まとめてでもいいぞ?」
「……いや、いい。多分お前には、勝てそうにない……」
赤石がそう呟き、他の三人もうんうんと首肯する。
「そうか。ならお前らには、俺の言うことを訊いてもらうぞ」
「なんだよ、それ?」
「話は簡単だ。神代先生と篠崎さんに、いじめや乱暴のことを謝れ、そして金輪際、こんなことはしないと誓うんだ。もちろん、夢佳にも、手出し無用だ」
「ぐ……」
赤石がぐっと顔をしかめ、言葉を飲み込む。
「それがOKなら、俺はこのことを他言しない。お前らはこれからも、この学校の
番長グループだ。やだって言うなら、お前ら全員、俺に情けなく負けたって、言いふらしてもいいんだぞ?」
「うう~ん……」
赤石はしばらく悶々と悩む姿を見せてから、静かに口を開いた。
「分かった、そうするよ」
「よし、決まりだ。じゃあ今からスマホで撮るから、今俺が言ったことを、復唱するんだ」
「はあ? 何でそこまで……」
「お前らさっき、神代先生の裸や動画を撮るとか喋っていただろ。だったら、お前らがそんな目に会っても、文句は言えないよな?」
「ぐうう~~む……」
苦虫をかみ砕いたような表情で睨む赤石に、俺は笑顔で応じる。
「さあ、早くしろ」
四人を一列に並ばせて、赤石が俺の喋ったことを口にする動画を、スマホで撮影した。
「神代先生と篠崎さんには俺から話をするから、呼んだらすぐ来い。いいな?」
「……ああ、分かったよ……」
観念したのか、赤石と他の三人は、神妙な面持ちで、首を下げた。
やれやれ。
これで少しは、先生や園崎さんの、役に立てたかな。
奴らをその場に残して、ほんの少しの安堵感を味わいながら教室に戻ると、
「あっ、珠李!」
いきなり夢佳の突撃を受けた。
「ああ、夢佳、まだいたんだな」
「あたり前でしょ! 珠李、大田黒を追って行ったんでしょう? その後、赤石達が、神代ちゃんがどうのとか言いながら出て行ったから、心配で……でも、一緒に行っちゃいけないって珠李が言うから、待っていたのよ……」
その目には不安からやっと解放されたかのような、安堵の色が宿っている。
「ああ、何とかなったよ。神代先生は無事だし、多分篠崎さんがいじめられることは、もう無いよ」
「え……それって、何があったの?」
当然の質問だろうな。
ただ、赤石とかとの約束もあって、あまり大っぴらには言えない。
「まあ、話し合いだよ。ちょっと粗っぽい方法だったけど、何とかね」
「それじゃ、全然分んないわよ。喧嘩でもしたの?」
「まあ、ちょっとだけね。男は拳を交えると、分かりあえることがあるんだ、うん」
そんな少年漫画のような理由を口にしてみる。
「あいつらがそんなに簡単に、大人しくなるとは思えないんだけどなあ……」
小首を捻って考え込む夢佳に、もう一つ伝えることがある。
「夢佳にちょっかいをだすなとも言っておいたから、これからは多分大丈夫だ。もし何かあったら、いつでも俺に言ってくれ」
「……ねえ、ホント、何があったのよ?」
「ははは……まあね……」
睨みと拳一発で赤石を黙らせたとは言いづらく、笑って胡麻化す。
そんなやり取りをしていると、赤石と他の三人が、教室に戻って来た。
お互いにバツは悪いけど、少なくともこれから先、二年のクラス替えがあるまでは、一緒の教室で顔を会わせることになるのだ。
奴らは俺と夢佳の方にはほとんど目をくれず、「あ~あ、かったりいなあ」とうそぶきながら、教室からさっさと消えていった。
「ホントだ。なんか大人しい」
「だろ?」
しかし、あまり納得した様子もなく、不思議がる夢佳。
ごめんな、話せないことが多くて。
昼の話でもそうだ。
言い掛けて、言えなかったことがある。
俺は四か月前、アフリカ、ルイジェリアの首都ルキアにいた。
その市街地の中心部で、負傷した重たい足を引きずっていた。
遠くで灰色の煙がいくつも上がっていて、砲声がこだましていた。
道行く市民からは奇異な目で見られ、誰もが俺の行く手から足を遠ざけた。
日本大使館の門扉の前に辿り着いた時、衛兵達が騒然として、俺に銃を向けた。
その時俺は、ボロボロに破れて至る所に乾いた血糊が付着した、迷彩服を着ていた。
そして両方の手は、真っ赤に染まっていた。
自分が何をしていて、どうしてそんな姿になったのか、それは分からない。
けれど、そんな俺が誰かと一緒にいること。
誰のものか分からない血で汚れた手で誰かに触れること。
いいのかな……と思うことがある。
思い出したいけれど、思い出すと、今のままの俺でいられるのだろうか。
これを話すと、きっと夢佳は、俺の元からは離れていってしまうのだろうな。
きっと、神代先生だって。
このことは、豊芝さんは知っているはず。
なぜなら、彼女はその時、日本大使館にいたのだから。
でも彼女は、俺が高校生になることについて、反対はしなかった。
どこかで、そんな現実から離れて、甘えたい気持ちがあったのかも知れない。
俺の口からは、まだ誰にも話せないでいるんだ。
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