第19話 三人の女性
紹興酒二本を丸々空けた頃には、時計の短針が10の数字を指そうとしていた。
勘定は豊芝さん持ちということで、レジで自分の部署宛ての領収書をもらっている。
赤い顔をしながらもまだまだ余裕あり気な彼女は、店を出たすぐのところで、ポンポンと俺の肩を叩く。
「今日はありがとね、少年」
「少年って…… 年は三つしか変わりませんよ。それに俺ももう大人だし」
「そうだっけね、ごめん…… 昔の弟と君のことが、被っちゃってるのかな」
照れたような笑みを浮かべながら、上目遣いで俺を見る。
こういう時だけは、なんだかどこにでもいる、普通の女性っぽいなと思う。
駅の改札をくぐって、ありがとう、またねと挨拶を交わしてから、互いに逆方向の電車のホームへ向かう。
途中で気になって振り返ると、先ほどお別れを言ったその場所で、豊芝さんが体をこちらに向けて立っていた。
目が合うとにっこりと笑って手をひらひらと振ってくれたので、こちらも手を振り返した。
ただ、気のせいか、こちらに向けられた両の眼が虚ろに感じられて。
そんなに俺、弟さんに似ているのかな?
この時は、それ以上には思わなかった。
足が地面から浮いたようなほろ酔い気分の心地の中、比較的空いた電車のシートに腰を下ろす。
鞄からスマホを取り出すと、神代先生からメッセージが入っていた。
『お疲れ様。今日篠崎さんとお話したから』
真面目な人だな、先生は。
『お疲れ様です。何か聞けましたか?』
一報を返すと、少ししてからまた返事があり。
『あまり聞けなかったわ。だけど仲のよくない男子がいるっていうので、名前は聞いたわ。藤堂君が話していたのと同じ』
『そうですか』
『うん。だから明日、その内の誰かと話してみようかと思って』
―― 何?
大丈夫かな、それ。
一抹以上の不安を感じざるを得ない。
相手は何をするか分からない輩だし、確たる証拠もないのだ。
そんな中で喋っても、はいそうですかとはならないだろうし、余計に事が荒だってしまうこともあり得るだろう。
何より、先生の身が心配だ。
『先生、それもうちょっと待ちませんか? 明日お話しましょう』
『大丈夫。ちょっとお話するだけ。それにこういうのは早い方がいいし』
『他の先生とかには、相談できないんですか?』
『噂だけでクラスの子を悪くいう訳にはいかないからね。何か分かってからかな』
言っていることは間違っていないけど、大丈夫かなあ?
『分かりました。念のために、話をする前に俺にも連絡下さい』
『分かったわ』
さてどうしたものかと、車窓を流れる光の線に目をやって思案していると、またメッセージが。
『今ってお家?』
『いえ。人と会っていて今帰りです』
『そう。忙しいときにごめんなさい』
『いえ、いつでもOKです。大好きな先生からだから』
あれ、返信が来ないな。
まあいいか、明日また話をしてみよう。
スマホは鞄に仕舞ってから電車を降りて、人工的な光で彩られた夜道をゆるゆると行く。
いつものエントランスからエレベーターに乗って、自室の扉を開けた。
充電しようかとスマホを手に取ると、また神代先生からメッセージが入っていた。
『ありがとう。恥ずかしけど、嬉しいわ』
良かった。
これで先生とは、また仲良くなれたかなと、胸を撫で下ろす。
『おやすみなさい』
『おやすみ』
今日の最後は、そんなメッセージを交換した。
◇◇◇
その翌日の朝は、曇り空だった。
まるで、昨夜感じた不安を、言い表しているかのような空模様だ。
でもまあ、なるようにしかならないか。
気を取りなおして制服に着替え、玄関の扉を開ける。
少し速足で歩いて電車に乗り、やっと慣れてきた駅からの通学路で足を運ぶ。
教室に入ると既に夢佳の後ろ姿があったので、声を投げた。
「おはよ、夢佳。ちょっと話せるか?」
「おはよう。別にいいけど、なにかしら?」
「ちょっと、外へ出よう」
「え、なに? もしかして、告白とか?」
「あのなあ、そんなんだったら、昼休みか放課後が定番だろ。真面目な話だよ」
「なーんだ。つまんない」
拗ねた顔の夢佳を連れて、人気のない廊下の隅に向かった。
「神代先生、昨日、篠崎さんと喋ったみたいなんだ」
「……そう、それで?」
「あんまりはっきりした話はできなかったみたいなんだけど、今日、赤石一派の誰かと話してみるってさ」
「ええっ、ホントに!?」
夢佳が驚きの顔を見せて、すぐに曇った表情へと変わった。
「大丈夫かなあ、先生」
「俺も止めとけって言ったんだけど、喋るだけだから大丈夫だってさ」
「えー…… それ、誰かが付いててあげた方が、絶対にいいわよ」
「……だよな」
「もしかして珠李、自分でそうしようとか?」
「悪いか?」
「悪くはないけど、赤石は仮にも、この学校の番長みたいなものよ? 一人じゃ心配だから、私も……」
「だったら、猶更ダメだ。下手すると、お前も危ない目に会うかも知れないしな。それに神代先生は、あんまり大げさにはしたくないみたいだ」
夢佳はしばらく腕組みをして、小首を傾けてから、
「ねえ珠李、神代先生と篠崎さんって、いつお話したの?」
「えっと、昨日の放課後らしいぞ」
「昨日の放課後って、珠李はもういなかったわよね? どこでそんな話聞いたのよ?」
「え……もちろん、その後で……」
「その後って、どこなのよ?」
思い切り怪しむ目をぶつけてくる夢佳。
なかなかに鋭いなと観念するしかなく、
「誰にも言うなよ。神代先生と、RINEを交換したんだ。大事な話がしやすいようにってな」
「………… ふうう―――――――ん ………」
ただでさえ怖かった目力に、更に尋常ならざる圧力が加わった。
「あ、でもな、真面目な話しかしてないぞ、ホント」
「ふん、どーだか。『先生、大好きです』とか、言ってない?」
何なのだろう、このカンの鋭さは?
正直に話してもいいけど、余計にややこしくなりそうだ。
「…………言ってないよ」
「ホントに?」
「…………ホントに」
「怪しいなあ…………」
始業時間を告げる予冷が鳴ったので、この睨めっこには一旦終わりを告げて、駆け足で教室へと急いだ。
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