第18話 外務省の豊芝さん
放課後になって、さっと鞄を拾い上げた。
名残り惜しそうな眼差しを送ってくる夢佳に目線を返してから、足早にその場を後にした。
向かう先は、都内の高級中華料理店だ。
待ち合わせをしている豊芝さんの行きつけらしく、彼女のオフィスからも遠くないらしい。
「ちゃんとパスポートは持ってきてね」
と仰せつかっている。
前に食事を一緒にしたときの印象では、彼女はかなりの酒豪だった。
だから今日も、その気まんまんなのかも知れない。
余裕をもって早めに学校を後にしたので、約束の時間まで少し間がある。
運動がてら、ビジネスパーソンが行き交う通りを、ふらついて過ごす。
もうじき7月を迎える。
午後の遅い時間とはいえ、照りつける太陽と蒸し暑さの中、額には薄っすらと汗が滲む。
都内に住まうようになってからほぼ三カ月、色々と出歩きはしたけれど、まだ慣れない。
以前もこの辺にいたのだけれど、五年の月日のブランクは小さくない。
ましてや、その間の記憶が閉ざされた身の上では。
黄昏時になって街が橙色に染まる頃、指定された店にたどり着いた。
豊芝さんの名前を伝えると、品の良さげなオールバックの男性が、観葉植物が置かれた通路を抜け、奥まった場所の個室へと案内してくれた。
通された部屋には、少し広めのテーブルに椅子が四つ、壁には高価そうな額が飾られている。
この店は個室中心のようで、通路の脇には、大小の部屋がいくつもあった。
社会人の人達が、商談か何かで利用しやすい、そんな配慮なのかも知れない。
約束した時間から寸刻遅れてから、よく通り抜ける軽やかな声がこだました。
「お疲れ、珠李君。お久しぶり!」
「こんばんは。どうもお疲れ様です」
ショートヘアで上下寒色系のパンツスーツに身を包んだ彼女からは、いつものように外務官僚の卵としての力強さと繊細さが感じられる。
入省してから二年目で、俺とは三つ違いのお姉さんである。
「ごめんね、ちょっと遅れちゃった」
「いえ、いいんですよ。それより、よく時間取れましたね」
「そりゃあ、珠李君と喋るためだからね。今日はこの後の仕事は入れてないから、とことんいけるわよ」
「ははは…… 相変わらずですね」
「あー、お腹すいた。何にしようか?」
瞳を輝かせながら、テーブルの上に置いてあったメニューに目線を落とす。
「まずはビール、それと紹興酒かな」
「豊芝さん、酒の前に、まずは料理じゃないですか?」
「私はこれでいいのよ。なんたって、お酒が主食なんだから」
「体壊しますよ、それ」
「そーなんだけどねえ。でも、これがないと、やってられないことも多くてね。あ、店員さん呼ぶね?」
呼び出し用のブザーのボタンを押して店員さんを呼び、
「生中二つに紹興酒ボトルで。それから、海老のチリソースと、北京ダック、あとピータン入り野菜炒めと…… 珠李君は?」
「油淋鶏で。後はおいおいで」
「はい。じゃあそれでお願いします」
注文を終えてすぐに、生ビールが運ばれてきた。
乾杯もそこそこに、彼女はジョッキをぐっと煽る。
「あー、美味しいなあ、やっぱり」
「相変わらず、忙しいそうですね」
「そうね。先週ナイロビから帰ったばかりだけど、来週はまたラゴスに飛ぶわ。あ、そうだ、お土産があったんだ」
そう言って彼女は、脇に置いてあるトートーバッグから、羽飾りや木工品が紐にぶら下がったものを差し出した。
「はい、民芸品のネックレス」
「ありがとうございます。学校に着けて行こうかな」
「やめなさい。没収されちゃうわよ」
くすりと笑いながら、またジョッキを口にする。
もうほとんど空の状態だ。
「……もうじき、ルキアに行く用事もあるわよ」
「……そうですか。危なくないんですか?」
「君と出会った時に比べたら、そうでもないわよ」
そう口にしながら、口元を綻ばせる。
ナイロビ、ラゴス、ルキア…… いずれも、アフリカにある都市の名前である。
豊芝さんは外務省でアフリカを管轄する部署に所属していて、足しげく現地に通い、飛び回っている。
ルキアはアフリカにある多民族国家、ルイジェリアの首都にあたる。
ずっと内戦が続いていたようだけれど、最近になって新しい政府ができて、政情は安定しつつあると、ニュースで話していた。
「やっと内戦が終わって落ち着いてきたから、新しい政府の面々と、話し合いが必要なのよ。だからその調整ね」
「そうですか。それはお疲れ様です」
「えっと、もう一杯もらおうかな。珠李君は?」
「いや、俺はまだで」
豊芝さんが追加で注文した生ビールとともに、紹興酒や料理が順次運ばれてきた。
紹興酒のボトルを開けて、小杯に茶色の液体を注ぎこみながら、
「珠李君の方は、どう?」
「相変わらずですよ。学校の方はまだ慣れませんが、なんとか楽しくやってます」
「そう。友達とかはできたの?」
「まだあまり。けど、女の子一人と、先生とは、結構仲良くなりました」
「そう。先生って、綺麗だったって人?」
「はい。若くて綺麗で、ちょっと頼りないけど、一生懸命な人です。俺と喋ってると、よく顔が赤くなるので、暑がりなのかも知れませんが」
「……珠李君はもしかして、そっちの方の才能があるのかもね」
小杯を煽りながら、意味ありげな目線を投げてくる。
「そっちの方って…… なんですか、それ?」
「ふふっ。まあいいわ。それより…… まだ、何も思い出せない?」
「はい。ルキアの日本大使館の前にいた時より前は、記憶が飛んでます」
「…………そう」
豊芝さんは表情を変えることなく、静かに頷いた。
俺と豊芝さんが出会ったのは、ほぼ四カ月前になる。
ルキアの日本大使館の職員に、「日本人です。なにも覚えていません」と伝えて、中に通してもらった。
丁度その時に出張でその場にいた豊芝さんが、色々と俺のことを世話してくれたのだ。
ぼろぼろになって汚れていた身の回りのことや、日本側との連絡、それから帰国して、その後の住まいや学校への手配まで。
「すみません、豊芝さん。いつも俺のために、良くしてくれて」
「気にしないで。邦人保護は、私達の大事な仕事の一つなの。それに、君と話していると、何だか亡くなった弟のことを思い出してね。だから、放っとけなくて」
そういえば、以前聞いたことがある。
彼女の三つ違いの弟さんは、若くして病にかかり、長い闘病生活の後に、この世を去ったという。
その弟さんと俺は、丁度年が同じくらいである。
ほどよく料理と酒が進み、彼女の頬に赤みが差し始めてから、俺は口を開いた。
「豊芝さん、俺のことで、何か分かったことはありませんか?」
「…………」
小杯を煽る手を止めて、瞑目してしばし時間の流れに身を置いた後、
「あるわよ。でもね……」
「はい」
「私から君にお話するには、まだ早いと思うの。だから、今は教えてあげられないわ」
「そうですか……」
「君がもう少し、自分で気づくことが増えたら、その時にはね」
「分かりました」
「さ、どんどん行くわよ。あら、瓶が空っぽね。もう一本、いいかしら?」
「ええ、どうぞ。俺ももらいます」
少し遠くから、どこかの宴会の歓声が聞こえる。
追加で運ばれてきた紹興酒で乾杯をしなおしてから、二人の酒宴の夜は更けていった。
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