第11話 夜が明けて

「じゃあ、先生は帰るから」

「はい、気を付けて」


 まだ夜が明けきらない早朝、洗面所で簡単に身の回りを整えた神代先生は、玄関の方へ。


「ごめんね、藤堂君。私、今年先生になったばっかりで、それですぐに担任まで持っちゃって。だから、至らないことばっかりで」

「いいですよ、そんなの。ガリガりに固まった先生よりも、神代先生みたいに初々しくて可愛い先生の方が、学校にも行きたくなります」

「……もう、藤堂君は、そんなことばっかり……」


 また頬を赤く染める先生。

 結構、照屋さんみたいだな。


 ということは、大学から卒業してすぐだとしたら、神代先生は今年23歳。

 俺の二つ年上ということになるか。


「でも、嬉しいわ。藤堂君は、優しいのね」

「え、そうですか?」

「だって、先生のこと、こんなに良くしてくれるし、気遣ってくれるし」

「それはきっと、俺が先生のこと、大好きだからですよ」

「……あ、あのね……」


 逡巡の表情を垣間見せて、こちらの目は見ないまま、

 静かに唇を動かす。


「……実はね、私昨日、フラれたんだ……」

「……え?」

「彼から急に呼び出しを受けてね。それであそこでやけ酒。私あんまりお酒飲めないんだけど、ついね。だめよね、こんなの。先生としては失格だな」


 そっか、そんなことがあったんだな。

 まあ先生は、思わず振り返って目で追いたくなるような大人の人、色々とあってもおかしくない。


「そんなことないですよ。それも先生の魅力の一つです。でも、もうちょっと気をつけた方がいいかも」

「え?」

「その格好で、お酒飲んで一人でふらふらしていたら、そりゃあ、男の人寄って来ますから」

「そ……そうかな……?」

「はい、俺でもそうしちゃいます」

「分かった、気を付けるわ」

「飲みたくなったら、俺で良かったら付き合うし。話だって聞きますよ?」

「うん、ありがとう……ほんとに、お願いしちゃおうかな……?」

「もちろん、いつでも歓迎です」


 まだ少女っぽさ残るはにかんだ笑顔に、胸の中で歓声が上がる。


「でも先生のことをフルなんて、全然見る目がない人だな。きっとまた、後悔すると思うけど」

「……そうね、だといいけど。それじゃ、また学校でね?」


 少しは吹っ切れたのかな。

 神代先生は爽やかにほほ笑んで、扉の向こうへ消えていった。


 やれやれ、これで一安心。

 気を抜いてスマホを拾うと、夢佳からメッセージが届いていた。


『ねえ、あれからどうなったの?』


 そうだ。

 彼女も、昨夜の出来事を、知っていたんだった。


『あとで話すけど、とりあえず、みんなには内緒な』


 ひとまずそれだけ返して。


 丁度いい、早起きできたから、ちょっと走ってくるか。


 昨日から着っぱなしだった制服からスウェットに着替えて、外へ出る。

 東から白み始める空の下、人気の無い通りを駆け抜ける。

 初夏の手前とはいえ、この時間は少し涼しい。

 軽く汗をかきながら緩やかに風を受けると、全身が心地いい。

 

 小三十分のランニングの後部屋に戻り、腹筋、背筋、腕立て。

 一日一回やっておきたい日課だ。


 体を動かすと調子がいいのだということに気づいて、いつしかそうするようになった。


 その日の朝、一年二組の教室に足を運ぶと、まるで待ち構えていたかのように、夢佳の鋭い視線が襲って来た。

 一旦無視して席につくと、スマホがぶるぶると震えた。


『お昼、話聞かせてよ』

『分かった。じゃあまた、カフェテリアかな?』

『今日は購買で買って、裏庭に行かない?』

『了解』


 裏庭か。

 まだ行ったことはないな。


 夢佳とのチャットを終えて右隣に目線を移すと、昨日と変わらない井出達で、篠崎さんが背中を伸ばして座っていた。

 俺の視線に気づいたのか、ちょっとだけ頭を下げて、また正面を向く。


 彼女のことは、気をつけてあげなきゃな。

 神代先生からもお願いされている。


「あの、篠崎さん……?」

「……え?」

「おはよう」


 急に名前を呼ばれて困惑したのか、眼鏡とマスクに覆われて表情が分からない顔をこちらに向けて、押し黙っている。


「あ、一時限目は、英語だっけね?」


 もう分かり切ったことだったけど、とりあえず。

 鞄から教科書を掴んで引き出していると、小さく軽やかな音が耳に流れ込んだ。


「うん、そうだよ」


 それは間違いなく、篠崎さんの声で。


「そっか。今日は俺、忘れずに持ってきたよ」

「そう。私も大丈夫」


 そう言って、自分の教科書をこちら側に向けて、それでトントンと机を叩いた。


 よかった、今日は朝から話ができた。

 まだまだ距離は遠いけど、まずは第一歩から。


 えっと、あのいじめっ子連中は――


 いるな、四人揃って下卑た笑いを浮かべながら、大声で喋っている。

 赤石が夢佳にちょっかいをかけているけれど、ガン無視されて顔を歪めている。


 朝のHRの開始を告げる予冷が鳴って、神代先生が入ってきた。


 自宅に帰ってから着替えたのだろう、白っぽい上下のスーツ姿。

 そして今日も、スカートの裾から覗く、丁度良い肉付きの真っ白い脚が魅惑的だ。


 先生の方を見やっていると、こちらに気が付いたのか、微かに口元が緩んだ気がした。


「えっと、今日は欠席者はいませんね? 一つお知らせです。野球部が地区大会を勝ち進んでいますので、時間のある人は、応援に行ってあげて下さい」

「せんせえ、それって、せんせえも行くんですかあ?」

「私は時間が合えばだけど、まだそれは分からないわ」

「俺、せんせえと二人だったら、行くけどなあ~」

「馬鹿なこと言ってんじゃありません。では次に……」


 横から変な野次を飛ばしたのは大田黒、例の四人組の中の一人だ。

 あいかわらずねちっこい眼差しを、周りに泳がせている。


 神代先生は男子からも女子からも人気があるようで、その後も黄色い野次や声援が相次ぐ。

 それを軽くいなして、HRは和やかに進んでいった。


 先生、なかなかやるじゃないか。

 昨日の夜の乱れた姿が、まるで無かったかのようだ。


「ではHRは以上にします。英語の授業を始めますね」


 彼女はこのクラスの担任だけでなく、英語担当も兼ねている。

 なので今日は引き続き、彼女の授業になるのだ。

 

 英語の長文が並ぶ教科書を笑顔で読み上げながら、時折黒板に向かってチョークをふるい、生徒達に話し掛ける。


「じゃあ、藤堂君」


 え、今、俺の名前呼ばれたか?


「このページ、読み上げて、日本語に訳してみてもらえる?」


 先生、俺転校して数日、しかも初の英語授業でご指名とは、なかなか酷だな。


 悪戯っぽい眼差しでこちらを見やって、唇の端を上げている。


 ―― もしかしてこれ、先生にいじられているのかもな。




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