第10話 先生を介抱

「うう~ん……」


 ……なんだか、悩ましいなあ、神代先生。


 俺の家の方向に向かうタクシーの中、彼女は俺の肩の上に頭を置いて、すやすやと寝息を立てている。


 先ほどからずっと、触れあっている肩や腕が熱い。

 黒くて薄い半透明の布地に覆われた美脚が時折こっちの脚にも触れ、その度に心臓が踊る心地だ。

 淡い照りを帯びた髪から放たれる甘い香りが鼻腔をくすぐる。

 

 それにしても先生、あんなとこで何をしてたんだろう。

 しかも、これだけ酔いつぶれるまで。


 できるだけ先生の方は見ないように理性を働かせながら、車の揺れに身を任す。


 マンションのエントランスの前に止めてもらって。


 先生、起きないな。

 仕方がない。


 タクシーの運転手さんにチップを弾んで待ってもらい、まず荷物を部屋まで運ぶ。

 それからカードキーを片手に先生の元に戻って、背中と太ももの後ろに手を入れて持ち上げる。

 いわゆる、お姫様抱っこだ。


 先生、柔らかくて軽いな。


 そんなことを感じながら、エントランスでエレベーターを待っていると、もう一人の人影が。


 あ、この前ここで会った人だ。


 前の時と同じような眼鏡に帽子。

 そして、ほんの少しだけ覗く白い素顔からにじみ出る、常人ならざるオーラ。


 扉が開いて一緒に乗り込む。


「何階ですか?」


「あ、12階です。すみません」


 俺の両手が塞がっていたからだろう。

 階数を訊いて、ボタンを押してくれた。


「彼女さんですか?」


「いえ、そんなんじゃないですけど」


「ふふっ、綺麗な人ですね」


「……はい」


 そんな軽い会話をして、お礼を言ってからロビーへ出た。


 無事に部屋の中まで運んで、先生をベッドの上にそっと寝かせて。


 これでよし。


 …………


 あまり見てはいけないと思いながらも、つい目が行ってしまう。


 少し乱れた髪に白い素肌。

 長い睫毛と、微かに開いた艶やかな唇から漏れる吐息。

 白いシャツの下からでも分かる丸い膨らみ。

 すっとした長い脚がだらしなく開いて、その間から――


 たまらず、クローゼットから薄布団を持ち出し、先生の体の上に被せた。


 よし、これで少しは、理性の助けになってくれるだろう。


「う……んん……」


 それでも、先生が切なげに声を漏らしたり、寝返りをうつたびに、つい目がそちらに行ってしまう。


 ―― 気分を紛らわせよう。


 冷蔵庫から500mlのビール缶を取り出して、階下に広がる無数の光の粒に目をやりながら、ぐっと煽る。


 ―― 勿体ないことしたかな、夢佳のことは……

 つい、そんな邪な思いも頭をもたげて。


 いかん、さっさと寝た方がいいな。


 先生は朝の準備とかがあるだろうから、早めに目覚ましをかけて起こしてあげよう。

 胸の奥でフツフツと高まるものを抑えて、ソファの上で横になり、目を閉じた。


 浅い眠りの中でいくぶんか微睡んでいると、『ピピピピピ』と電子音が鳴った。


 もう朝か。

 先生を起こさなきゃな。


 体を起こし、先生が眠るベッドの脇へ。

 そっと肩に手をやって、


「神代先生?」


「…………」


「先生!?」


「……う~ん……」


「起きて下さい。朝ですよ」


 うっすらと瞼が開いて、それからぱっと目が見開かれ。


「え……なに?」


「おはようございます。神代先生」


「……藤堂……君?」


「はい」


「なんで、君が?」


「ここ、俺ん家ですから」


「…………えっ!?」


 いつもと違う状況を察したのか、さっと半身を起して。


「藤堂君、なんで……?」


 明らかに警戒の色を帯びた目を向けて、布団で胸元を隠しながら。


「大丈夫、何もしていませんよ。覚えていませんか?」


「え、と……」


 頭が痛いのか、額に手を当てながら考え込む。


「確か昨日は、街にいて……」


「ええ。大分酔っていたようですね。道路で寝ちゃってましたから、仕方なくここへ来てもらったんですよ。先生の家がどこか、分からなかったので」


「あ……そうだ」


 何かを思い出したようで、軽く眉の端を下げて、


「私確か、男の人達に囲まれて……」


「大変でしたね。何とか、引き下がってもらいましたけど」


「……藤堂君が、私を助けて……?」


「いえ、そんな大したものじゃありません。ちょっと、話をしただけですよ」


 暴力沙汰になったってことが先生に知られると厄介かなと思い、ここは胡麻化した。


「藤堂君が、私を運んでくれたの?」


「はい」


「そんな……どうやって?」


「先生は寝ちゃってましたから、俺が抱きかかえて運んだんですよ」


「ええ……っ?」


 先生の顔が、途端に赤くなる。


「ごめんなさい……恥ずかしい……」


「いいですよ、俺は別に。先生は軽かったですし。それに、先生の綺麗な寝顔が見れましたから」


「と、藤堂君……またそんなことを……」


「ここなら誰もいないから、いいんでしょ? 寝顔も素敵でしたよ、先生」


「…………やめて。もう、恥ずかしいじゃない」


 神代先生は、両手で頬を覆って、俯いた。


「先生、何かあったんですか?」


「……」


 気になって訊いてみたけれど、そのまま俯いて、応えは帰ってこない。

 

 まあ、言いたくないことってあるよな。


「良かったら、コーヒーでも入れましょうか? インスタントですけど?」


「……ありがとう。じゃあ、お願い」


 キッチンスペースで電気ポットで湯を沸かして、受け皿とマグカップを二つ。

 コーヒー豆を入れて湯を注いで、冷めないうちに、未だベッドの上で佇む先生の元へ。


「はい、どうぞ」


「ありがとう」


「モーニングコーヒーですね」


「藤堂君……その言い方……」


「ははは……」


 よかった、少し落ち着いてきたようだ。

 先生はマグカップに口をつけて、はあっと息を吐く。


「ねえ、ここって、藤堂君のお家よね?」


「はい、そうです」


「……凄い所ね。ここに一人で?」


「ええ」


「そうなのね…… 寂しく無いの?」


「ま、たまにはそんな時もあるけど。でも昨夜は先生と一緒だったから、寂しくなかったですよ」


「……そう?」


「ええ。先生の寝顔を見ていると、なんだか気持ちが落ちついて」


「……そんな……」


 頬を緩めて、恥ずかしそうに肩をすぼめる神代先生。


「でもごめんなさい、迷惑かけちゃったね。私、先生なのに」


「先生だって人間なんだから、気にしないで下さい。俺は、先生の役に立ててよかったですよ」


「ありがとう。それで、あの……」


「何ですか?」


「できたら、このことは……」


 懇願するような目を向けて。瞳を揺らす。


「分かってます。みんなには内緒ですよね?」


「お願い……」


「でも、一つ条件があります」


「条件?」


「先生の素敵な寝顔、また見たいです」

「と……藤堂君……? そんなの……私は先生、あなたは生徒なんだから……それは……」


「でも、学校の外では普通の大人同志ですよね?」


「……学校を離れても、私は先生なんだけど……」


 神代先生は耳まで真っ赤に染まって、俺から目を逸らした。


 本当に綺麗な寝顔だったから、また見たいなって言っただけのつもりなんだけれどもな。


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