第2話 初々しい先生

「本当に、何も思い出せないのね? 話は聞いていたけれど」


「はい」


「ねえ、ちょっと訊いてもいいかな?」


「何でしょう?」


「どうして、高校に入ろうと思ったの?」


 今までに、偉そうな人達から何回か訊かれたけれど、神代先生には伝わっていないんだな。


「そんな大した理由はありません。自分は高校に行っていた記憶がないので、それを一から経験したいなって思っただけです」


 こんな軽い理由で良かったのかなとは思ったけれど。

 先生は、真っすぐに俺を見据えながら、うんうんと頷く。


「分かったわ。先生もできるだけ力になるから、何か困ったこととかあったら、言ってね?」


「はい。あ、じゃあ、早速一つ質問があります」


「なに?」


「俺、酒やタバコは、大丈夫ですよね? 一応大人だし」


 先生はちょっと困惑の色を顔に載せて、


「え…… それは、一応確認はしてみるけど…… でも、学校の中はだめよ?」


「はい、それはもちろん」


「学校の外でも、ほどほどにね。二日酔いで学校に来るとかは、あり得ないから」


「ははっ。それって、先生でも一緒ですよね? 二日酔いで授業とか、あり得ないでしょ?」


「まあ、それはそうだけど。と、とにかく、気を付けなさい!」


「はい。分かりました」


 この若さで、俺のようなレア生徒を扱うのは、大変だろうな。

 軽く、同情を禁じえない。


「それと、もう一ついいですか?」


「なに?」


「先生、綺麗ですね」


 他に話題がないので、とりあえず頭の中に浮かんだワードを口にした。

 女性を褒めるのはエチケットの一つだし、会話を弾ませるのに役立つのだと、どこかで誰かから、自慢げに聞いた気がするのだ。


「ちょ…… 藤堂君、急に何を……!」


 神代先生の顔が、ほんのりと赤になっていく。


「お、大人をからかうんじゃありません!」


「先生、俺も一応大人です」


「でも、君は私の生徒なんだから…… 先生をからかうんじゃありません!」


「からかってないですよ。本当にそう思っただけで」


「藤堂君、いい加減にして!」


 神代先生の声音が周りに届いたのか、他の先生方が、こちらをチラ見する。


「と、とにかく、職員室でそんな話はやめて……」


「分かりました。じゃあ、他の場所でそうします」


「……藤堂君、そういうことを言ってるんじゃ……」


「じゃあ、どうしたらいいんでしょう? 先生が綺麗なのは本当だし、優しそうだし、大好きになっちゃいました」


 神代先生は顔を赤らめて、あちらこちらに目線を泳がせて、周りに気を配っている。


「あの……お願い、今はやめて……」


 組んだ魅惑的な脚の上に両手を乗せて、肩をすくめる。


 多分先生になりたてだけあって、初々しくていいな。

 もしかして、かなりの照屋さんなのかもな。


 うん、これでちょっとは、先生とは仲良くなれたかな。

 友達はまだ、一人もいないけれど。


 この人と暫くの間同じ教室にいられるのは、楽しみだ。


 慌て気味の神代先生にさよならと挨拶をしてから、教室で重たい荷物を回収して、家路につく。

 

 電車に乗ってから三つ目の駅で降りて、徒歩五分ほど。

 豪華なホテル並みのエントランスに厳重なセキュリティが利いた高層マンション、その上層に俺の部屋がある。


 なんでもその最上階には、芸能人が住んでいるとの噂もあるほどの、高級物件のようだ。


 カードキーを使って中に入って、エレベーターで上へ。

 白亜の廊下を抜けていつもの部屋に入ると、一面ガラス張りのリビングから、街の風景が一望できた。


 別にこんな高級な場所に住みたかった訳ではないけれど、知り合いの人がここを薦めた。

 学校に近いし、セキュリティがしっかりしている方がいいよ、との理由で。


 荷物を床に下してスマホの画面を確認すると、丁度その人から、メッセージが来ていた。


『登校初日、どうだった?』


 ひとまず、何か返しておこう。


『特になにもなく。先生が綺麗な人でした』


 それからスウェットに着替えて、また下に降りてから、いつものランニングと体操。

 小一時間ほど汗を流す。


 いい心地で部屋に戻ってひと風呂浴びてから、またスマホを見やると続きがあって、


『それは良かったわね。ところで、どこかで会える?』


 面倒くさいな。

 とは思ったけど、無視する訳にもいかず。


『なんの御用で?』


『あなたの様子が気になるからよ』


『それだけ?』


『私の上司からも、あなたとはコンタクトしとくように、言われているのよ』


 上司--

 まあ、そういうことなのだろうなと、納得する。 


『じゃあ、断れないですね』


『ごめんね。でもせっかくだから、美味しいご飯でも食べようよ』


『はい。今は暇だから、いつでもいいです』


 彼女は豊芝夏美さんといって、色々と俺のことを気にかけてくれている、若い女性だ。

 この家や学校を世話してくれたのも彼女なので、そのお願いは無下にはできない。

 

 外務省に勤めていて、日本にいないことも多い。

 けれどたまにこうして、連絡をくれたりするのだ。


 目下天外孤独の俺にとっては、ありがたい存在だ。


 父さんの記憶は無く、母さんと一緒に暮らしていたはずだったけれど、少し前に亡くなったと、豊芝さんから聞かされた。

 母さんの顔や思い出は覚えているのでたくさん泣いたけれど、でも母さんが亡くなる時に自分が何をしていたのかは、残念ながら思い出せない。


『やっぱり俺、迷惑かけてませんか、豊芝さんに?』


 いつも思うことだけれど、あらためて問うてみる。


『そんなことないよ』


 予想された応えではあるな。

 

 彼女から、小言を言われたり、不平不満を突き付けられたことは、一度もない。

 けれど、一緒にいる時には時折、俺の後ろに何かを見ている、そんなような目線を送ってくるのだ。


 気になって探りを入れてみても、いつも何も応えてくれない。

 だからこちらも、それ以上は突っ込まない。


 そんな関係が数か月続いている。


 豊芝さんと今度会う日時と場所を決めてから、宅配の夕食を注文した。


 30分ほどしてインターホンのチャイムが鳴ったので、エントランスの錠を遠隔解除して、玄関先まで運んでもらう。

 それを肴に、夜景を眺めながら、缶ビールを煽る。


 今日神代先生に注意されたばかりだしな。

 ほどほどにしておこうか。


 そうだ、明日の準備があった。

 時間割を確認して教科書を鞄に詰め込んで、リュックサックに体操着を入れる。


 これでよし。

 

 今日は登校初日。

 気を使ったためか、心地よい睡魔が、背中にしがみついてくる。


 早めに寝るかな。

 

 そう思っても、中々寝付けない。

 気持ちが高ぶっているのかな。


 仕方ない、コンビニで酒の肴でも買って、一杯やってから寝るか。


 薄着のまま財布とカードキーだけ持ってまた外へ。

 マンションの真向かいにあるコンビニでイカの燻製とウィスキーを購入してから、エントランスでエレベーターが降りてくるのを待つ。


 とそこへ、空気が流れる感触が首筋に伝わる。


 エントランスのガラス戸が開いて、女の人が近づいてくる。

 サングラスをかけて帽子を被っているけれど、普通の人には感じないオーラが滲み出ている。

 水晶のように透き通る素肌にすっと整った鼻筋、小さめの唇の端がきゅっと上がって、ちょっと粗い息づかいだ。


 彼女は俺の隣に立ち止まって、エレベーターのドアが開くと一緒に乗り込み、最上階のボタンを押した。


 もしかして、この人が、噂に聞く芸能人?


 彼女は無言で、俺には一瞥もくれることもない。


 そんな彼女を残して、自分の部屋のある階層で、さっさとエレベーターから降りた。




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