2月13日Tuesday



 ケーキを焼いて、いつも通りのギリギリカツカツな時間に学校に到着すると、そこに居るはずの人がいなかった。


「———?」


 がらんと空いた隣の席に、僕は大きく首を傾げる。

 いつも誰よりも早く登校してくる彼女が、今日はいない。


(どないしたんやろ)


 チャイムが鳴っても、ミルクティー色の彼女がくる様子は全くなくて、僕の困惑は大きくなる。


 1限目の授業が終わる。


 2限目の授業も終わる。


 けれど、彼女はやってこない。


 一瞬悩んだ僕は、周囲の目を確認してから携帯を取り出し、『姫野きなこ』と律儀な名前に設定されている彼女の連絡先を開く。『また明日』と書かれたスタンプが最後に送られているトークアプリに、僕は新たな文面を追加させる。


『どないしたん?』


 既読はつかない。

 悶々とした調子で携帯を睨みつけていたが、授業が始まったために、慌てて携帯を仕舞う。自由な校風の学校であるとはいえ、授業中に携帯を弄っていたら流石に叱られてしまう。放課後の呼び出しなどまっぴらごめんだ。


「ふぁ、」


 ずっときなこさんのことを考えていたためにどうにか起きていられた授業が、だんだん、だんだんだんだん、眠たくて仕方がなくなってくる。


(ん、寝よ)


 決めた瞬間が吉。

 僕は、またもや授業中に爆睡をかまし、次に起きたら放課後だったなんていう恐ろしいことをやらかしてしまったのだった。


 放課後、目が覚めた僕はあまりにもな事態に血の気を引かせた。


 気がついたら放課後から15分も経っていたのだ。

 これに発狂せずしてどういられようか。


 僕は慌てて携帯を取り出し、トークアプリを開く。


 ———ぽろろん、


『風邪ひきました』


 開けた瞬間に見えた文字に、僕は一瞬固まる。


(僕のせいやね………。僕が昨日、ゲリラ豪雨の中お家に帰してしもたから………、)


 情けなさに胃がキリキリと痛む。

 良心が握り込まれる。


『お見舞い行ってもええ?』


 送ってすぐに後悔した。


(………なんで僕はこんなん送っても打たんやろうか………………)


 付き合ってもいない男からこんなメールが来たら、怖いはずだ。

 慌てて消そうとした僕は、次の瞬間にひょこっと現れた《既読》というマークに絶望した。


 ———ぽろん、


『来て』


 何が書かれているのだろうかと戦々恐々とした僕の携帯に現れた新たな文字に、僕は一瞬だけ固まる。


 しかし、すぐに再起動した。

 いつもはのんびり歩く道を、街道を、滑り落ちるように全力疾走する。

 躓く、転げかける。


 けれど、誰よりも、何よりも、僕の心は幸せだった———。


◻︎◇◻︎


 家に帰った僕は制服の上からエプロンを身につけ、耐熱ボール、ゼラチン、みかん缶、氷を用意してクッキングを開始する。


 ゼラチンと水それぞれ小さじ4を耐熱ボールに入れ、電子レンジで39秒間加熱し、よく混ぜて溶かし、みかん缶に入っているみかんを投入。汁と氷を300cc量ったら、またもや投入。丁寧にゆっくり混ぜてぷるんと固まってきていることを確認したのちに、一口味見。


「んー、はちみつかなぁ?」


 戸棚から取り出した蓮華蜂蜜をとろっとスプーン1杯入れてぐるぐる。

 もう1口食べる。


「ん、こんなもんやね」


 ガラスタッパーに移してから大きな保冷バッグに作ったものと米、卵、ネギ、鶏がらスープの素、水、スポーツドリンク、風邪薬、片手鍋、お玉、使い捨て皿、スプーン、お手拭きを突っ込んで、マスクを身につけた僕は家を飛び出す。


 日曜日のデートで送り届けているから、きなこさんのお家はちゃんと知っている。

 通常はどんなに急いでも15分はかかる道のりを、10分で駆け抜けた僕は、マンションコンシェルジュに頼んできなこさんの部屋に入れてもらう。幸い、話は通っているようだった。


「お邪魔します」


 誰もいないかのように思われる沈黙が支配しているタワマンの上層階の1室で、僕は恐々と歩く。


「こほっ、こほっ、」


 奥の方の部屋から聞こえた咳よりきなこさんの位置を悟った僕は、迷いのない足取りで彼女の元に向かう。


「きなこさん、入ってもええ?」

「どーぞ」


 いつもよりも幾分幼く感じられる声に導かれて、僕は彼女の部屋へと入る。

 ライトブルー壁のお部屋には、純白に塗られた勉強机とベッド、そして本棚だけが悠然と佇んでいた。私情を一切挟まないかのように趣味を伺えない部屋にある大きめのベッドの中心には、しんどそうに荒い息を吐いているきなこさん。


「薬は飲んだ?」

「………じゅじゅっ、おくしゅりなかった」

「そっかぁ。ほれティッシュ。お鼻おかみ」

「ん」


 ちゅんちゅんと必死に鼻を噛む姿に頬を緩ませた僕は、彼女に目線を合わせるために床に座る。


「食欲ある?」

「ん」

「じゃあ、キッチン借りてええ?」

「ん」


 こくんこくんと上気した頬でにへらっと微笑みながら頷く彼女は、風で苦しんでいる彼女には失礼かもしれないが、とっても可愛い。

 あまりの可愛さから後ろ髪を引かれるかのような罪悪感に苛まれながら、僕はIHのキッチンを初めて使用する。


「むずいなぁ………、」


 何ヶ所か弄ってやっと作業を開始させた僕は、とりあえずお米200gと水600ml、鶏がらスープの素小さじ2を熱した鍋に加えて8分間煮る。卵2つを溶き卵としてふんだんに使用してふっくらと優しいおかゆが出来上がったのを確認した僕は、最後の仕上げとして切り刻んだネギをパラパラとかける。


 蓋をした鍋を持って部屋に戻ると、きなこさんはわくわくとベッドに座っていた。


「できたっ?」

「んー、できたよー」


 いつもとは比べものにならないぐらいに積極的な姿に少し驚きながらも、僕は使い捨ての小皿に装ったたまご粥をきなこさんに持たせようとする。

 けれど、彼女は一向に受け取らない。


「食わんの?」

「食べる」

「ん。なら、ほらお取り」

「やっ!」


 プイッと横を向いたきなこさんに、僕は惚ける。


(なに?この可愛ええ生き物はっ!!)


 何をするのが正解かわからない僕は、若干困りながらも、可愛い彼女のせいで全てを許してしまう。


「あー」


 だがしかし、次の瞬間に彼女がとった行動で僕は全てを悟った。


「食べさせてほしん?」

「ん」

「僕なんかが食べさせてええん?」

「ええの」


 可愛いきなこさんのお願いを僕が聞かないわけがない。

 「あ」と無防備に開けられた可愛い可愛いお口の中にふーふーしてしっかり冷ましたたまご粥を、そうっと入れてあげる。


「んっ!美味しい!!」


 嬉しそうにはしゃぐ彼女のお口の中に、何度も何度もたまご粥を入れてやる。

 作った量の半分を食べたところで、彼女はギブをした。


「お菓子はいらん?」

「要るっ!!でも、おなかいっぱい………、」

「ほな、ちょっとだけ食べたら残りは冷蔵庫入れとくな」

「ん!お粥も?」

「そうしとくな」


 言い聞かせるように優しく声をかけると、きなこさんは嬉しそうに反応する。

 行く前に作ったばかりのみかんゼリーを取り出した僕は、また使い捨ての皿に少量ゼリーを装い、そこではたっと気がついた。


(お薬、混ぜていけば難なく飲ませられるんやね?)


 先程から見える赤ちゃん返り状態から言って、彼女は間違いなく薬を飲んでくれない。


 なら、………。


 僕はゼリーの中に風邪薬の錠剤を混ぜる。


 そうして準備を終えた僕は、彼女にニコッと微笑んだ。


「みかんゼリーやでー」

「食べる!」


 あーっとお口を開けた彼女につるんとした喉越しの柔らかいゼリーを流し込む。


「んー!!めちゃめちゃ美味!美味なの!!」

「よかったなぁ」

「うん!」


 ご機嫌に食べていく彼女は、そこにお薬が混ざっていたことにも気が付かず、どんどんどんどんゼリーを食べていく。そして、お皿ははあっという間に空っぽとなった。


「ごちそーさまでした!」

「おそまつさまぁ」


 食べ終わった彼女の頭を撫でると、やっぱりそれなりに熱い。


「親御さんいつ帰ってくるん?」

「………ママとパパはね、きなこのことが嫌いでうとましーんだよ」

「そっか」


 なんとなく闇を感じた僕は、そこで質問をやめた。


「ほな、僕は帰るよ。なんかあったらメールちょうだいな」

「や」

「えー、だめなん?」

「かえっちゃやなの」


 甘えるように服を引っ張られる。

 メタクソ可愛い。


 でも、だが、僕は男で、きなこさんは女だ。

 許されるわけがない。


(頑張れ、僕の理性)


 必死に動員させた僕の理性だが、結構崩壊寸前だ。


「カカオくん」


 甘えたように言われた瞬間、僕のハートは撃ち抜かれた。


「きなこさんが寝るまでな………、」


 結局その日、僕が帰宅することができたのは姫野家のタワマンを訪れてから4時間後の出来事であった———。

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