2月14日 Wednesday
ついに、今日という日がやってきてしまった。
何度今日という日が来ないことを希っただろうか。
「おはようございます、カカオくん」
「………おはよぉ、きなこさん」
世界は残酷で、無慈悲だ。
僕の願いを見通すかのように、僕の願いとは反対のことをしてくれる。
『きなこさんがこのまま風邪をひいていてくれれば』なんていう罰当たりなことを考えた僕の願いとは裏腹に、きなこさんは学校にやってきた。
(で、でも、まだチャンスはある………。だって、昨日風邪をひいたせいで、きなこさんは………、)
僕はちゃんと知っている。
バレンタイン当日にチョコをあげない人が世の中には多く存在しているということを。
それでも、心の奥底で叫ばずにはいられない。
きなこさんは今年チョコを渡すのを見送ってくれるんじゃないかって。
「今日の放課後もカカオくんのお家でお菓子を作らせていただいても構いませんか?」
「っ、」
呼吸が止まる。
指先が情けなく震える。
でも、僕はいつも通りのへラリとした当たり障りのない微笑みを浮かべた。
「えぇよぉ」
いつも通り笑えていたはずだ。
振る舞えていたはずだ。
そうであれと、僕は切に願う。
願わざるを得ない。
僕は、彼女にとって“良い人間”として記憶に残っておきたい。
埃を被って、取り出されることが少ない記憶としてでも構わないから、僕はちょっとでも、彼女の心の中に残っていたいのだ。
馬鹿げたことだってちゃんとわかってる。
(でも、願うこともあかんとかは言われへんやろ?願うことぐらいは自由やろ?)
震える僕の指先には、包帯が巻かれている。
今朝、いつも通りの作業をしようとして、邪念が混じったせいで失敗したのだ。
情けない話だ。
彼女のことが一瞬頭によぎった隙に果物ナイフで指先を切り裂いてしまうなんて。
(ほんま、情けのうて泣きたなる)
———きーんこーんかーんこーん、
都合よくなったチャイムに便乗して彼女から視線を外した僕は、今まで甘くて幸せだと思っていた苦々しい匂いにくちびるを噛み締める。
(ほんま、どーしよーもない)
◻︎◇◻︎
放課後、いつも通り、いつもの道を通って、一緒に僕の家に下校する。
そんな生活も今日で終わりかって思うと、ものすごく寂しい。
というか、辛い。
「バレンタイン、明日渡すん?」
作業開始直前、僕はついついきなこさんに質問してしまった。
聞けばもっと惨めになるのに、なぜこんなにも未練がましく縋ってしまうのだろうか。
「いいえ。今日、渡す予定です」
「そっか………、」
卵白にグラニュー糖を加えたものを電動ミキサーで泡だて始めた僕を横目に、彼女は自らの作業を開始し始める。
篩にかけたアーモンドパウダー、粉糖、薄力粉、黄卵を混ぜながら加え、もったりとした生地を作り上げる。彼女のマカロン作りも、順調に進んでいる。
溶かしバターを加えて生地を無心で混ぜていると、横から視線を感じた。
「どないしたん?」
「いいえ、なんで………。昨日置いて帰ってくださったたまご粥とゼリー美味しかったなって思っただけです」
「そうかいな」
210度に予熱してあるオーブンに薄く作った生地を入れ、今度はクリーム作りに取り掛かる。
彼女が作るマカロンに視線を奪われかけながら、僕は柔らかくしておいたバターを空気を含ませるように白っぽくなるまで泡立てた。
同時作業として鍋に牛乳とバニラビーンズをいれて弱火にかけ、沸騰直前まで加熱。鍋を観察しながら、泡だてたバターの入っているボールに卵黄とグラニュー糖を加え、白っぽくなるまでゴムベラで擦り混ぜる。
いい感じになってきたところで牛乳を加えていくと、あっという間にクリームが出来上がった。
時間的には結構立っているが、僕にとっては数分と同義だ。
………焼き上がった生地を冷やしている間、僕は彼女の作業を見つめ続ける。
ミルクティー色の髪が作業するきなこさんの動きに合わせて揺れ動くのを、上手にできた瞬間ラムネ色の瞳が輝くのを、僕は黙って観察し続ける。
ぼーっとしていたら、だいぶ生地の温度がマシになった。
僕は生地の間にバタークリームをたっぷりと乗せながら、3弾ケーキを完成させていく。
粉砂糖とココアをハート型になるように振るいながら、僕は着々とマカロンが出来上がってくるのを見つめる。
彼女にバレンタインをもらえる人間は、多分、人類で1番の幸せものであろう。
「「できた………、」」
声が無駄なところで揃った。
僕ときなこさんは微笑み会う。
「綺麗にできたねぇ。包装もバッチリや。ほら、今日中に渡したいんやろ?さっさと行っておいで」
「………はい。行きますね」
そう言ったきなこさんは、にこっと微笑むと僕の歩く先に立つ。
「カカオくん、わたし、あなたのことが好きです。受け取っていただけますか?」
恥ずかしがり屋なショートケーキみたいな、なんだか甘くて酸っぱくて、綺麗な感じがする。
「カカオくん………、」
今にも泣きそうになった彼女を見て、僕は慌ててマカロンの小袋を受け取る。
「ありがとう」
いまだに頭の中が大困惑でシリアルをぐしゃぐしゃにかき混ぜている。
(ん?なになに?へ?は?)
心の中で大フィーバーを起こしている僕だが、現実世界ではぎゅっときなこさんを抱きしめていた。
鼻腔をマカロン特有の優しい香りが包み込んでくる。
「僕、玉砕せんでええん?」
「?」
「僕も、君のこと好きなんよ」
好きな人にチョコレート作りを教えて欲しいと言われた時の絶望感を、僕は多分一生忘れない。
好きな人が僕にチョコレートを作るために教えを乞うて来たことも、絶対に忘れない。
マカロンを1つ取り出し、口の中に放り込む。
「ん、んまい」
口の中に広がる幸せに、キラコラって輝く世界に、僕は満面の笑みを浮かべるのだった———。
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