2月9日Friday
彼女と過ごせる時間は、刻一刻と少なくなってきている———。
いつも通りの時間に起床、今日のケーキを作って、学校にきた僕は、机に突っ伏して望洋とした瞳で彼女の横顔を見つめる。
誰よりも美しい彼女は、今日も誰よりも輝いている。
ふんわりと靡くミルクティーブラウンの綿飴髪に、涼しげで宝石みたいな輝きを持つラムネ色の瞳。そして何より、洗練された飴細工のような美しさを持つ完璧な美。
彼女は史上最高のパティシエが作り上げた夢のようなお菓子のように美しく、そして何よりも、甘い。
「おはようございます、カカオくん」
思考の声音はまるでとろける蜂蜜を使った甘い甘いワッフルみたいで、僕の心をぐずぐずに溶かしていく。
ん?カカオくん?
ブラックチョコみたいなアーモンド型の僕の瞳は、限界まで見開かれる。
多分、否、絶対に、きなこさんは僕の名前を初めて呼んだ。
桜餅色のほっぺたで淡く微笑むきなこさんは、“姫”というあだ名に相応しく、美しくて、儚げで、とにかく可愛い。
彼女の微笑みで落ちない男なんて、否、彼女に落ちるのにもはや性別なんて必要ない。だからもっと大胆に断言する。彼女に落ちない人間はいないはずだ、と。
———キーンコーンカーンコーン、
軽やかな音色と共に授業が始まり、慌ただしく授業内容が進んでいく。目まぐるしい黒板の変化に一瞬でついていけなくなった僕は、例に漏れずいつも通り眠り始める。
正直に言うと、将来は父のパティスリーを継ぐ予定の僕には勉強なんて全く持って必要ない。
将来、フランスにスイーツ修行に行きたいとは思っているからフランス語の勉強はしているけれど、正直それ以外の勉強は無意味とさえ思っている。世の中を生きるのに必要な勉強はぶっちゃけ小学校で十分に身についているものだ。四則計算に基本的な日本語の読み書き、簡単な理科や社会を学んでおけば、人間どこでも生き抜ける。
「ん………、」
そう思うと眠さは一層増して行き、僕はとうとう寝落ちした。
そして、次に目が覚めると学校が終わっていた。
「僕ってば天才やんねぇ」
「………“ある意味”という言葉を足しておくべきかと」
のほほんと思っていることを口に出したら、隣に座っているきなこさんに訂正された。
うん、やっぱり、訂正姿すらも可愛らしい。
あまりにもなベタ惚れ具合に我ながら苦笑をこぼしていると、彼女はぶすーっと頬を膨らませた。
「授業中はお昼寝時間では無いのですよ?」
「ん〜」
「聞いていませんね?」
「聞いてるけど、僕には必要のない言葉かなーって」
カラカラ笑っていると、彼女は心底不服そうな表情をした。
やっぱりそんな姿すらも様になってしまうのだから、美少女というのは、否、きなこさんという存在そのものが罪だ。
(まあ、僕の勝手な判断やけど)
溜め息を吐きたいのをものすっごく我慢した僕は、ぐーっと背伸びをしてからふぁうっとあくびをこぼす。寝過ぎてしまったからかとても眠たい。
———ぎゅるるるるるるぅー、
「………………」
「………………………」
僕のお腹から響いたなかなかに良い音に、僕はぴたっと固まった。
きなこさんも何も言ってくれない。
沈黙が、………つらい。
「………お、お昼食べ損ねてもうたさかい、ちょぉーっとお腹空いとるんよ」
「………………」
「あは、あはははは………、はは」
本当に、沈黙がつらい。
「えっと………、その………、………………ごめん」
我ながら、もっとマシな言葉はなかったのだろうか。
「………今日は、寄り道してから帰りませんか?」
自己嫌悪に陥り始めた僕に、至極真面目な顔をしたきなこさんはいきなりそんなことを言ってきた。
正直、お話が読めへん。
「寄り道?」
「はい。わたし、『ファストフード』というものを食してみたいのです」
一瞬意味がわからなかった。
ぱちぱちと瞬きを重ねてしまう。
「食べたことないん?ほんまに?」
「はい」
何度も何度もラムネ色の瞳を期待に輝かせて頷く彼女に、堕ちない男なんて絶対いない。
僕はリュックに荷物を纏めてひょいっと背負う。
靴の先をとんっと床で叩くと、ずれていた靴がすっぽりはまる。
「カカオくん?」
不思議そうにこてんと首を傾げた彼女に、僕は悪戯っ子のような笑みを浮かべる。
ちょっと悪い顔っていう表現の方がいいかもしれない。
「行くんやろ、ファストフード店」
瞬間、彼女のラムネがパチンと弾ける。
真夏の海で見る、売店で販売されているようなきらきらとしたラムネが、楽しげに煌めく。
「うん!!」
輝いた笑顔に、ふわふわ楽しそうに揺れるミルクティーの髪に、僕は唾を飲み込んだ。
あまりにも不誠実すぎる自分に、嫌気がさす。
泣きそうになりながら一生懸命に微笑んだ僕は、上手に“そこそこに便利な男”を演じられていたのだろうか。
残念ながら、今の僕には演じられていない気がした———。
◻︎◇◻︎
学生のお小遣いというものは世知辛い。
僕の場合は月2000円という薄給で文具まで買い揃えて生活しなければならないのだから、正直に言うと無駄遣いなんてこれっぽっちもできない。
お菓子作りの本はそれなりに値が張るし、趣味で制作したいと思うものについては家の手伝いの経費として落ちないものも多い。
だから、お嬢さまを連れて行ったファストフード店が安いと有名な某ハンバーガー店であっても、一切文句を言われる筋合いなどないと思うのだ。
「うわぁー!!」
それに、ゴージャスなウエディングケーキ並み輝いて喜んでいるのだから、たとえちょっとお安い場所であったとしても万事解決だ。
僕は彼女の手を引いてカウンターへと向かう。
「で?どれ食べたいん?」
「え、あ、ふぇ!?」
「ん?」
明らかに顔を青くして戸惑い始めたきなこさんに、僕は首を傾げた。
「どないしたん?食べてみたかったんやろ?」
「………………………」
眉をハの字にした彼女は、困りきったように僕のブレザーの裾をくいっくいっと引っ張ってきている。
「………わかんない、です」
「分かんない?」
「どれ、食べればいいかわかんないです」
「あぁ。そう言うこと?んー、どれ食べてみたい?テキトーに指差してみ」
「えっと、これと、これと、これと、あれも、それも!!」
ぱっぱっぱと指さされた商品を実家の手伝いで培った商品判断スキルで咄嗟に判別し、僕は頭の中の算盤を弾く。最も安く済む組み合わせをサクッと計算、そして一瞬ののちに注文する。
「じゃあチーズバーガーセットでショコラシェイクとナゲットセットのバニラシェイクをください」
「かしこまりました。店内ですか?それとも、お持ち帰りですか?」
「店内で」
「かしこまりました。お会計は………」
「げ」「カードでお願いします」
僕が財布を取り出すより早く、彼女が一歩前に出て、一般庶民は見たことがないカードをすっと店員に差し出す。店員さんはカードに一瞬ギョッとした顔をしたあと、何事もなかったかのように決済を進めていく。
「キナコサン………?」
「これはわたしのワガママです。カカオくんの懐を痛めるわけにはいきません」
ツンとした表情で至極当然のことのように言われてしまうと、僕には対処できなかった。
「それに、………このカードは親のお金から落ちるものです。一切気にする必要はありません」
「いや、それ逆じゃ………」
「いいんです!!あんな人たちなんかの事を気にすることなんか、あ………、と、っとにかく!使っちゃっていいんです!というか!ばんばん使うぐらいがちょうどいいんです!!」
あまりにも泣きそうな表情で必死になって捲し立てられた僕は、結局何も言えなかった。
「………そっかぁ。それじゃあ、席で待とうか」
「はい」
僕がそれ以上追求することはないと分かって安心したのか、きなこさんはほっとしたような顔をして肩の力を抜いた。
数分後、席に座っていた僕たちの元に、無事注文通りやってきたチーズバーガー、Sサイズポテト2つ、ナゲット、2種類のシェイクに、きなこさんは顔を輝かせた。
まるで食花で彩ったショートケーキみたいに純粋無垢で華やかな雰囲気に、僕は頬が緩むのを感じた。
「ほな、食べよか」
「えっと………、」
またまた困惑顔の彼女に、僕は合点承知と言わんばかりに頷いてみせる。
「とりあえず、シェイクは先に一口ずつ飲んで、好きな方を選んでな。ハンバーガーとナゲットは半分ずつ、ポテトは一袋食べたらええさかいな」
「いいのですか?」
「どれも全部食べてみたいんやろ?多かったら残し。僕食べるさかい」
「………ありがとうございます」
ふわっと微笑んだ彼女は、とっても美しい。
可愛いのに、美しくて、まるでゼリーみたいだ。
早速ショコラシェイクにストローを差し込み一口飲み込んだ彼女は、想像を超える冷たさに目を見開いたのちに頬を上気させ、パタパタと手足を小さくばたつかせた。
「甘いです!」
「シェイクやからね」
次にバニラシェイクを飲み、彼女はもう1度手足をパタパタさせる。
「甘いです!!」
「それ、さっきも聞いたでー」
苦笑していると、彼女はものすごく悩み始めた。
「ど、どちらか選ばないといけないだなんて………っ」
世にも恐ろしい残酷な選択を迫られているかのような苦悩の表情を浮かべた彼女に苦笑した僕は、とりあえずポテトを口の中に含みながらきなこさんの決定を気長に待つ。
何度も何度も『どーちーらーにーしーよーおーかーなー』なんていう選び歌を口ずさんでいる姿すらも可愛いし、絵になる。
「き、決めました」
「ん、どないする?」
「………………どちらも諦めます」
………?
一瞬意味がわからなかった。
でも、次の瞬間に涙目で両方のシェイクを差し出してきた彼女を見て、僕は色々と状況を悟った。
(まさかどっちか選べんからって両方選ばんって言う選択をするなんか、流石の僕でも思いもせんかったわ………)
苦笑した僕は、彼女の表情がより輝いていたと感じたバニラシェイクが彼女の手に残るよう、ショコラシェイクを手に取る。
「流石の僕でも、お腹壊すからシェイク2つは飲めんよ。やから、僕が飲みたい思うショコラシェイクだけもらうわ。バニラシェイクの消費は任せるで?」
「分かりました」
『責任重大だ!』と言わんばかりに厳かに頷いた彼女に苦笑しながら、僕は彼女がチーズバーガーの包み紙をこれでもかと言うほどに丁寧に丁寧に剥がしていくのを見つめて、………慌てて止めに入った。
「紙は全部取らずに、手が汚れんよう持ち手にするもんやで。そこでストップや」
「そ、そうなんですね」
慌てたように包み紙を半分まで剥がしたところに戻したきなこさんは、口を大きめに開け、かぷっとハンバーガーに齧り付く。
表情がふわっと綻ぶ。
まるでメレンゲのクッキーが口の中でほろほろと蕩けていくかのように、柔らかく、繊細に、彼女は表情を変えていく。
その光景があまりにも美しくて、僕はただただぼーっと彼女のことを見つめてしまった。
あっという間にハンバーガー3分の1とナゲット3分の1、ポテト1袋にシェイクを平らげたきなこさんは、とっても満足そうな顔をしている。
僕もそこそこの量を胃に納めさせてもらったから、とっても満足だ。
「6時かぁ………、今日はお菓子作りやめとく?」
「いいえ、カカオくんさえよろしければ、ぜひやらせてください」
「あいよー」
店を出てのんびり街道を歩き、ほんの少し住宅街寄りの通りに足を踏み入れると、やがて僕の家はその堂々たるメルヘンチックな佇まいをあらわにする。
ひとめ見て『パティスリー』と分かる居住まいに、僕は友人を連れて帰るたびに毎度毎度、ほんの少しだけ恥ずかしくなる。
「それじゃあ、頑張ろっか」
「はい」
穏やかに微笑んで頷いた彼女は、今日、3日目にして見た目は爆笑を軽く超えた失笑ものながらも、初めて、口に入れても問題ないお菓子を作ることに成功したのだった———。
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