第7話

 週が明け、また同じことを繰り返す八時間が始まった。億劫だ。


 ちゃんと朝起きた俺、偉い。満員電車に挫けなかった俺、偉い。就業時間に余裕を持って出社できた俺、偉い。午前の仕事を乗り切った俺、超偉い。少しのことでも自分を褒めてやらないと、やっていられない。


 そうして迎えた昼休み、俺は蓮と飯を食いつつ緩めの会議をしていた。議題は「演奏会で吹くソロ曲の選定について」である。


「どうすっかなあ……」


 持ち時間は五分程度。なるべく収めてほしいけれど、少しくらいならオーバーしても良いらしい。と言うか、たぶん超えてもバレはしない。観客はプロでも、審査員でもないのだから。


 蓮がスマホを操作しながら言う。


「う~ん……俺はトランペットのソロ曲あんまり知らないけど、有名なやつで言ったら、『トランペット吹きの休日』とか?」

「ああ、あのテンポ速えし音細かいし、ひとつも休日感ないやつな。休日なんだからのんびり休めよ、って全トランペット吹きが思ってるやつ」


 ソロ曲としてももちろん有名だが、運動会のBGMとしても馴染みのある名曲だ。あの曲を聴くと、「白組、速いです! 紅組、頑張ってください!」なんてアナウンスの幻聴がする、という人も少なくない。


 実際のところ、あれは普段、決まったフレーズしか演奏させてもらえないトランペット奏者が、「休日くらい自由に吹かせろ!」と息巻いている曲なのだとか。その背景が分かっていても尚、休日は静かに休めよ、と社畜の俺は思うのだ。どれだけ鬱憤が溜まったらあんな曲を吹こうという気になるのだろう。怖。


「あれ、普通に難しいんだよなあ……。高校の時に挑戦したけど、タンギング(舌で音を区切ること)が全然間に合わなくて、グダグダになったわ」

「ああ。テンポ速いし、一回崩れたら立て直すの苦労しそうだね」

「そうそう。そんで、テンポに遅れないことに必死になってると、今度は音が割れんの。汚い音鳴らすな! って顧問の先生にすげえ怒られた。高校生に無茶言うなよ」

「お疲れ~」


 学生の頃より練習時間が減ったし、その練習だって、それほどきっちりしたメニューを組んでいるわけじゃない。完全なる趣味で続けている今の自分に、全盛期の自分でも満足に吹きこなせなかった曲が吹けるとは、到底思えなかった。悔しさもあるものの、二ヶ月後の演奏会までに仕上げられる保証がない。


「他に有名っぽいのだと、『トランペット協奏曲』とか、『トランペット吹きの子守歌』とか? コンクールじゃないんだし、ポップスやクラシック曲のアレンジもありだよね」

「やっぱ、その辺だよな……」

「あとは~…………あ、これとかどう?」

「?」


 カップラーメンを啜る手と口を止め、蓮が差し出してきたイヤホンを受け取った。端子はスマホに接続されている。どうやら、曲を流すから聴いてみろ、ということらしい。


 俺がイヤホンを装着したのを見届けると、蓮はスマホをタップして曲を流し始めた。


(おお、優し……)


 静かに、ゆったりとしたピアノの伴奏で幕を開けた、その曲。テンポは、結構遅い。バラードか? でも、ポップスって雰囲気でもないな。


 恐らく四拍子の曲で、四小節分のピアノソロが流れてから、いよいよトランペットの音が重なってくる。


 トランペットは華やかで力強い音色が魅力の楽器だ。マーチやファンファーレなんかでは、突き抜けるような音で他のパートをも牽引していく。トランペットの技術が合奏の完成度を左右する、と言っても過言ではない。だからなのか、ソロ曲もそういう華やかさを要求されるケースが多々ある。それこそ、「トランペット吹きの休日」みたいに。


 しかし、今俺の耳に流れている曲は、そのケースには当てはまらないようだった。ピアノが作った優しいリズムを引き継ぎ、壊さないように柔らかい音で主旋律を奏でている。穏やかに、滑らかに、美しく。ともすれば、木管楽器の音なんじゃないかと錯覚するほど温かい。


 耳に痛くない綺麗な高音に、たっぷりと余韻を残すビブラート。それらを駆使して紡がれる旋律が、心地好く全身を満たしていく。曲の中で、なんの変哲もない穏やかな時間が流れているのが分かる。自分一人で居るのか、誰か人と一緒なのか。どちらにしても、大切な何かを噛み締めているような空気感だ。


 時折、ピアノと旋律の受け渡しをしながら、穏やかな曲が続いていく。このままゆったり終わるのかと思ったら、途中で少し様子が変わった。分かりやすく強弱が付き、ボルテージが上がる。ただ、激しくなる、というよりは、大きく膨らむようなイメージだ。曲調自体はブレていない。


 それからまた、先頭のフレーズに戻り、ラスト数小節で変化を付けて、フィナーレ。うわ、最後は高音のロングトーンで締めるのか。終わりまで気が抜けないな。でも、その高音もやっぱり綺麗だ。


 しばらく余韻を堪能してから、イヤホンを返した。


「……良いな、これ。初めて聴いたわ。なんて曲?」

「お、気に入った? これね、『Trumpet Love letter』って言うんだって」

「トランペット……ラブレター?」

「そう。トランペット用に作られた、ラブソングだね」

「ラブソング……」


 ああ、ちょっと納得。穏やかな曲だな、とは思ったが、好きな相手へ手紙を書いていたのか。……それを、俺が吹くのか?


「航大の音、柔らかいから、こういう曲合いそうじゃん」

「あ? 喧嘩売ってんの?」

「え……あ、違う違う。柔らかい音も綺麗に出せるから、吹きこなせそうじゃん」

「よし」


 お前の音は柔らか過ぎて、トランペットの音じゃない。中学時代、顧問の先生に飽きるほど言われた言葉だ。肺活量の問題なのか、演奏技術の問題なのか、昔の俺はトランペットらしい華やかな音を出すのが苦手だった。だから、主旋律の多いパートはあまり割り振られた覚えがない。今はさすがに、そんなことはないと信じたいけれど。


「……うん。選曲に時間かけ過ぎて練習時間が減るのも嫌だし、これにするか」

「了解。曲も楽譜もダウンロードできるから、サイトのURL送るね」

「頼んだ」

「頼まれた~」


 間もなく、俺のスマホにLINEの通知が入った。すぐにトークルームを開き、記載されたURLから曲と楽譜を購入、即ダウンロードする。帰りにコンビニで楽譜を印刷して、家に着いたら譜読みして、曲も聴き直して、蓮とイメージの擦り合わせをして、休日に練習して……。


 ざっくり今後の予定を立てつつ、残りのカップラーメンを啜った。

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