第8話

「うわ、すげえな……なんだこれ……」


 それが、新しく迎えた楽譜を見た俺の、素直な感想だった。


 「Trumpet Love letter」。その名の通り、大切な人への想いを綴る際の心情を表した、トランペット用のソロ曲だ。元は、ZOORASIANズーラシアンBLASSブラスという楽団のアルバムに収録されているオリジナルナンバーである。


 この楽団は、小さな子供がクラシック音楽に触れる為の入り口になりたい、という思想から発足されたのだとか。その手段の一つとして、なんと演奏者たちも指揮者も、全員が動物の格好をしている。それぞれが動物の被り物をしてステージに上がり、そのまま楽器を演奏するのだ。視界も悪いし、息も籠るだろうに、子供たちを楽しませる為に見た目のインパクトまでも追求したらしい。


 楽団として多くの受賞歴を誇り、海外にファンクラブもあるそうだ。世界規模で見ても、こんな楽団なかなか無いだろ。芸術とエンタメの両立。めちゃくちゃ格好良い。


 そんな楽団のトランペット奏者用に作られた「Trumpet Love letter」の楽譜が今、俺の目の前にあるわけだが、さてどうしたものか。


 パッと見、楽譜が白い。普通なら「テンポはこのくらいで」「強弱はこのくらいで」「ここまで吹いたらあっちへ戻って」みたいな指示を出す音楽記号が並ぶものだが、この曲にはそれらがほとんど無い。気持ち程度にクレッシェンド(段々強く)とデクレッシェンド(段々弱く)が一ヶ所ずつと、たまに思い出したかのようにrit(段々遅く)やallargando(段々遅く、段々強く)が差し込まれているくらいだ。


 その他は、Calm sea(穏やかな海のように)、Secret episodes(秘密の思い出)、Overflowing emotion(溢れる感情)、To the sky(空へ)、といった、情景描写や心理描写しか書かれていない。テンポも強弱も、厳密な指示が何一つないから、全て演奏者の解釈に委ねられているのだろう。free-articulation(自由に音を繋いで)とまで書いてある。


 こんなに自由度の高い楽譜、初めて見た。どうやって練習すれば良いんだ、これ。楽譜通りに演奏したとしても、演奏者が十人いたら、きっとそれぞれ全く違う十通りの曲が出来上がる。音源はあるものの、これも十通りの内の一つでしかないのだと思う。正解が分からない。


(どんな曲に仕上げるかは、俺次第ってことか。……マジか……)


 本番まで、およそ二ヶ月。みっちり練習できるのなんて土日・祝日くらいだから、あんまり余裕はない。楽譜を暗記するのはそんなに難しくないけれど、そこからどう個性を出していくかが課題になる。難しくて溜め息が出た。




 翌日の昼休み。曲の解釈について打ち合わせというか、相談がしたくて、蓮の姿を探した。部署が違うので細かい勤務状況も把握できないし、LINEしても既読にならない。面倒だな。


 ウロウロ歩き回っていると、ちょっとしたミーティングや休憩の時に使える談話スペースに目的の人物がいるのを見つけた。あいつ一人じゃなくて、女性も一緒にいる。確か、人事部の課長だ。


「早川君って、休日は何をして過ごしてるの?」

「家のことやってたら、いつの間にか一日が終わってますね」

「へえ、大変そうね。今度、手伝いに行ってあげましょうか?」

「あ、いえ、大丈夫です。自分でできるので……」

「遠慮しなくて良いのに」


 うわ、またナンパされてる。でもあの人、俺たちと二回り以上歳が離れている上に、既婚者じゃなかったっけ。禁煙派の蓮の目の前で堂々と煙草ふかしてるし。なんだあれ、地獄か?


 蓮も相手にしたくないんだろうな。実際は休日も平日も音楽漬けなの、黙ってる。


「私ね、最近K-POPにハマってるのよ。早川君は、K-POP聴く?」

「ああ、はい。たまに聴きますよ。ダンスミュージックの要素が強くて面白いですよね。ベースやドラムが格好良くて、好きです」

「どのグループの子もすっごく顔が可愛くて、スタイルも抜群なの! 憧れちゃうわあ……」

「あー……まあ、そうですね……」

「うふふ。私たち、趣味が合うわね」

「そう、ですかね……?」


 いや、全然噛み合ってないだろ。蓮はたぶん、歌とか曲とかダンスとか表情の作り方とか、音楽的な部分を楽しんでいるのであって、パフォーマーの顔やスタイルまでは見ていないと思う。入口も楽しみ方も人それぞれだが、あの二人の趣味が合っているとは、とても思えない。


 モテるのは腹が立つけれど、さすがに可哀想になってきたな。仕方ない、助けてやるか。


「お疲れ様です。少し、よろしいですか?」

「!」

「は? 誰よ、あなた」


 会話の切れ目を狙って声をかければ、パッと蓮の表情が明るくなった。対称的に、課長の表情は険しくなる。怖。


「総務部の井口です。早川さんに来客が見えているそうで、呼んでくるよう頼まれました。案内致しますので、ご同行願えますか」

「はい、承知致しました! それでは課長、失礼しますね」

「あ、ちょっと……!」


 不服そうな課長を置いて、談話スペースを後にする。蓮があからさまにホッとした顔をしていて、ちょっと笑ってしまった。


 エントランスホールまで歩いて、空いていた椅子に二人で腰掛ける。あーあ。曲の相談したかったのに、もうあんまり時間ないな。明日にするか。


「ありがとうございます、井口さん」

「どういたしまして、早川さん。音楽談義に花が咲いていたようですが、お邪魔でしたか?」

「全然。俺、ジャンルとしてはK-POPも好きだけど、歌手が可愛いかどうかまでは、覚えてないや」

「だと思った。俺は普通に目いくけどなあ。K-POPの歌手って、みんな小顔でスタイル良いじゃん。本当に同じ人間か? って疑うレベル」

「そうなんだ」

「反応、薄っ。何、ああいうスレンダーな感じは好みじゃねえの?」

「ううん……女の子の顔とか体型とか、あんまり気にしたことないなあ。本人が自信持ってて、健康なら、それで良いんじゃない?」

「いや、まあ、そうだけどさ。じゃあお前、どんな子が好みなの?」

「……人のピアノ、殴らない子」

「それはそう」


 取り留めのない話をダラダラ続けていたら、あっという間に昼休みが終わった。

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