第5話

「はー……。ちょっと休憩」

「え、もう? 早くない?」


 口の準備体操をして、マウスピースで更に慣らして、音出しして、チューニングして、軽く基礎練して、それから。俺たちは思うままに音を奏でた。俺が適当なメロディーを吹けば、蓮がそれに合わせてコードを弾く。蓮が学生時代のコンクールの課題曲を弾けば、俺がそれに合わせて足りないパートを吹く。どちらも即興でやっている為、途中でグダグダになってしまったけれど、楽しいから気にしない。


 そうしてしばらく演奏し続けていたが、唇に微かな疲労を感じた俺は素直に休憩を申し出た。どのくらい時間が経っていたのか、壁掛け時計を見て確認する。


「早くねえよ、もう二時間もぶっ通しで吹いてんじゃん。疲れるわけだわ。トランペットは三十分吹いたら十分休むのが基本なんだよ」

「ああ、部活やってた時に同じこと言われたかも」

「管楽器は大体そうだろ」


 金管楽器は、息を吹き込む唇の形を正しく保つことが重要だ。疲れてくると、無意識に唇の形が崩れてくる。そしてそのまま無理やり吹き続けた場合、口にも、体にも、楽器にも、変な癖がついてしまう。良い音を出すには、質の良い練習と十分な休息が必要なのだ。


 こいつも管楽器の経験者だし、その辺りの事情が呑み込めないはずはない。多少渋ってはいたが、ちゃんと引き下がってくれた。管に溜まった唾液を足元の雑巾に染み込ませ、スタンドに相棒を立てて俺自身も床へ座り込む。ずっと立っていたから、足も結構疲れていたみたいだ。今度、パイプ椅子とか持って来て良いかな。さすがに邪魔だって怒られるかな。


 鞄からペットボトルを取り出し、中身のお茶を勢いよく呷った。やや温くなってしまっているけれど、十分に美味い。喉が潤い、癒されていく感じがする。


 ぷはっ、と口を離した時、本当にたまたま、横に鎮座するピアノの側板に小さな傷が入っているのが見えた。塗装が微妙に剥がれているし、ちょっと凹んでいる。蓮も俺と同じで楽器を何よりも大切にしているのに、珍しい。


「なあ。これ、どうしたんだ?」

「ん、何?」


 該当箇所を指さすと、蓮はひょこっと顔を覗かせて俺の視線を追い、やがて盛大に眉を顰めた。


「ああ、それ……前に別れた彼女が、ゴツい装飾が付いた鞄で殴りやがった」

「うわ、マジ? 何したんだよ、お前」

「何も。教えてないし呼んでもいないのに、会社から勝手に家まで着いて来て、居座られたんだよね。で、いつも通りピアノ弾いてたら、『私よりピアノが好きなの!?』って、ブチ切れて出て行った」

「おお……きっつ……。なんて言うか、凄い人と付き合ってたんだな」

「二週間くらいの付き合いだったけどね。しかもその人、最初になんて言い寄ってきたと思う? 『ピアノ弾けるなんて格好良い~! 私も好きなんですよ~!』とか言ってたんだよ」

「絶対嘘じゃん……」


 本当に楽器や音楽が好きなら、人の楽器を殴るなんて真似はしない。蓮の気を引く為に音楽の話題を振るのは道理だと思うが、興味もないのに「自分も好きだ」と口にしたのは悪手だったな、その人。そもそもこいつと付き合うのに、音楽に理解がない、というハンデは痛すぎる。


 今の説明では省かれていたのだろうけれど、たぶんこいつもブチ切れて修羅場ったんじゃねえかな。まあ俺だって、同じことをされたら間違いなくブチ切れるけれども。


「つーかさあ、お前はその人のこと、本当に好きだったわけ? 短期間でも付き合ってたんだし、少なくとも惹かれる部分はあったんだろ?」

「いや、別に。そのうち好きになれるかなあ、って思って」

「なんだ、それ。モテる奴の思考は分かんねえわ」

「分かんなくて良いよ」


 モテることは否定しないの、腹立つ。今さら謙遜されても、それはそれで腹が立つけれど。何もしなくてもモテる奴、滅びろマジで。


「……可哀想に。お前はなんにも悪くないのにな」


 労わるように、傷付いた側板を指でなぞる。すげえ痛そう。持ち主が不誠実なばっかりに、とばっちりを食らっちまうなんて、あまりにも不憫だ。ストライキとか起こしても良いんだぞ、お前。俺と相棒も力になるぜ。


 そんなことを思いながらピアノを撫でる俺を、蓮は何も言わずにただ真っ直ぐ眺めていた。

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