第40話「この一瞬に、すべてを賭けて」
顔を上げ、クライスと目が合った瞬間、フィルフィーネは弾かれるように走り出した。
地面から露出している根を足場にして、『
そんな彼女を叩き落とすべく、『貪婪なる蛇』が動き出す。
鞭のように体をしならせてフィルフィーネを狙う。けれど、彼女はそれを上回る速さで疾走する。
大蛇の牙が届くことはなく、逆に首を足場として利用されてしまう。
フィルフィーネは走りながら詠唱を始める。
「お願い、もう一度力を貸して。――《
三度、光の鷲たちが現れて、クライス目掛け飛翔する。
「キイィーッ!」
牽制か、それとも何かの陽動か。
クライスは一瞬だけ逡巡するが、それこそが狙いなのでは、とすぐに対応を決めた。
「もう見飽きてンだよ! 《
あのときと同じように、《滅壊》によって光の鷲たちが地面へと叩き落される。
光の粒となって消える鷲たちを身ながら、フィルフィーネは下唇を噛んだ。魔術で生み出した疑似的な生物とはいえ、フィルフィーネは彼らに愛着を持っている。戦いのために使い捨てるような真似をしてしまって、申し訳なさと悔しさとが顔に出る。
けれど、止まるわけにはいかない。
フィルフィーネは蛇の体を上って行く。もうクライスまでは目と鼻の先だ。
クライスは《滅壊》を使った直後だ。どうしたって、次の動作までタイムラグが発生する。
……もうこれ以上、魔術は使わせない。この距離なら私の槍の方が早い!
目前に迫った標的へ槍を構える。
最後の数歩は、いつもより大きく踏み込んだ。
「はぁあああああああああッ!」
――
フィルフィーネの槍がクライスの心臓へと突き出される。
必殺必中のタイミング。
右手から伝わる肉を抉る手応えに勝利を確信し、思わず笑みをこぼす。
「……
「――え⁉」
槍はクライスの心臓ではなく、左の脇腹をかすめていた。
……避けられた⁉ あのタイミングで⁉
クライスはそのまま左腕で槍を挟みこむようにして押さえ、一気に引き寄せた。
「なっ……その体のどこにそんな力が……⁉」
「火事場のバカ力ってなァ! オラッ!」
「がっ……かはっ……!」
クライスの拳がフィルフィーネの腹部を強打した。
車が壁に激突したかのような、鈍く重い衝撃音が響く。
……お、重いっ。ただのパンチじゃない……!。
「打撃の瞬間にピンポイントで圧力を加えてある。普通の人間なら、今頃内臓がぐちゃぐちゃになってるところだぜ? 自分の体の頑丈さに感謝するんだなァ」
フィルフィーネは胃の中のものを吐いて、《貪婪なる蛇》の体を転がり地面へと落下していった。
「俺が近寄られた場合の対処法を考えてないとでも思ったのか? そんなクソ甘い考えの奴らを、今まで何人始末してきたと思ってやがる」
クライスは脇腹から流れる血を気にも留めず、フィルフィーネの槍を拾って勝ち誇った。
フィルフィーネの突進は、クライスが反応できない速さとタイミングのはずだった。
しかしそれは、クライスが自分の意志で体を動かしていたらの話だ。
クライスの刻印魔術による圧力操作は、目視さえできていれば簡単に発動できる。出力を上げるにはどうしても時間がかかるが、その逆……ほんの少しだけの力でよければ、指を振るだけでも操作は可能だ。
槍が心臓へ届くまでの刹那に、自分に対し横からの圧力を加えて体の位置をずらせば、それは回避と同じことだ。
魔術の発動が遅すぎれば心臓を穿たれて即死。
早すぎてもフィルフィーネに槍の軌道を修正されるので、これも即死。
非情にシビアなタイミングが要求されるが、クライスには『俺ならできる』という自信があった。
彼が長年メルセイムで培った戦闘経験と、魔術師としての研鑽の賜物である。
だが、まだ気は抜けない。
フィルフィーネとは違う、別の魔力の高まりをクライスは感じ取っていた。
「……なんだァ、この無駄にバカデカい魔力反応は……?」
高まる魔力の出所は、どうやら地上からのようだ。
クライスは少しだけ身を乗り出して、地上の様子を視認する。
そこにあったのは、巨大な氷で造られた弓だった。
氷の弓は地面にしっかりと固定され、矢じりは正確にクライスへと向けられている。
矢は凍気を固めて作られた特製品。触れたもの全てを凍らせ、砕き、貫通する、防御不能の
「私の残りの魔力をすべて注ぎ込みました。正真正銘、全力全開の一矢です。あなたにこの矢が受け止められますか?」
安い挑発だ、と澪依奈は自分で自分の言葉に苦笑する。
けれど、可能性は少しでもあげるべきだ。
澪依奈が弓を引く。氷の弦がキリキリと音を立て限界まで張り詰めたとき、緊迫した戦場に、一瞬の静寂が訪れた。
思わず時間さえ凍ってしまったかのような錯覚の中、
「――地を走り、海を渡れ。
凝縮された冷気が悲鳴をあげて、
「――凍てつく時の呪縛を破り、この矢は必ず、
氷の魔術師は、解放ののろしを打ち上げる。
「――《
バキィンッ……!
矢が放たれると同時に、氷の大弓が砕け散った。
放たれた矢は標的に向かってまっすぐに飛んでいく。
「チッ! 《貪婪なる蛇》、オレを守りやがれッ!」
『貪婪なる蛇』が行く手を阻もうと立ちはだかる。
だが、『貪婪なる蛇』は表皮が矢に触れた瞬間から凍結し、そのまま砕氷の矢によって砕かれてしまう。
「なっ……! なんでこうも簡単に砕けやがる⁉」
驚くクライスを見て、澪依奈はほくそ笑む。
……たしかに、あの蛇の革は硬い。ですが、温度変化ならばどうでしょうか。
――
木の内部の水分が凍結することで体積が膨張し、樹幹が縦に割れてしまうのだ。
見た目は蛇でも、触媒とされたのが世界樹ならば、その性質も木に寄るはずだと考えた澪依奈は、矢の威力よりもとにかく凍気を高めることに注力した。
結果、一瞬で凍ってしまうほどの温度変化により、《貪婪なる蛇》の体の一部に凍裂と同じことが起こった。
あとは単純だ。どれだけ堅牢な壁だろうと、一度ひびが入ってしまえば案外脆いもので。
ほんの些細な亀裂ですら、致命的な弱点となり得るのだ。
「――『魔術師の能力は、魔術の優劣のみによって決まらず』、です。学校での勉強って、案外ばかにならないんですから」
砕氷の矢はなおも速度を落とすことなく、身をていしてクライスを守る『貪婪なる蛇』の首を二本、三本と次々に貫いていく。
四本目の首が貫かれたところで、クライスが動き出した。
……あの氷の矢は、防げない。
だから『貪婪なる蛇』を盾にして、少しずつ勢いを削いだ。
少しずつ、少しずつ……矢に込められた魔力を消費させ、威力を落とすために。
更に二本の首が氷の矢に対し顎を開き、同じようにして砕け散る。
全ての首を犠牲にし、いよいよクライスは砕氷の矢と真正面から対峙する。
「――《
なにも攻撃を完全に無力化する必要はない。
当たらなければいいだけなのだから、矢の軌道をほんの少し変えるだけでいい。
クライスの《滅壊》は重力を操っているわけではない。ある一定の方向へ圧力を加えているだけで、その力のベクトルは自由に選べる。
クライスは矢の軌道を逸らすために、左から右に向かって《滅壊》の力場を形成した。
ボールが風に流されるように、氷の矢はクライスに当たる直前で右へと逸れていき、背後の壁に着弾した。
『オール・モール』の壁が数メートルに渡って凍りつき、氷山のような巨大な氷の結晶となった。
「まさか、そんな……っ」
全身全霊の一矢が外され、澪依奈はその場に膝を付いた。
間一髪で危機を乗り越えたクライスが、冷や汗を流しながら口笛を吹く。
「ヒュー……。危ねェ危ねェ。惜しかったなァ嬢ちゃん。あと一歩……いや、あと一発あれば違ったかもな」
クライスは相も変わらず軽口を叩いているが、決してダメージが無いわけではない。
矢の軌道を十分に逸らすことができなかったために、右腕が矢の放つ冷気に触れてしまった。右腕は肘から先が凍傷を起こしたように、青白くなってだらんと力なく垂れ下がっている。
……かろうじてまだ動かせるが、ほとんど感覚がねェ。ホントに、次があったらヤバかったな。
《月まで射貫け、砕氷の矢》は、その威力ゆえに連射が利かない。土台となる氷の大弓を造り直す必要があるし、放つ矢を用意するのにもかなりの時間と魔力を要する。
そして何より、今の澪依奈には二射目を用意するだけの魔力は残っていない。
クライスはそれがわかっていて、わざと澪依奈を煽っていた。
『貪婪なる蛇』の首が再生すれば、クライスの勝利は盤石なものとなる。
「なんだァ、もうおしまいか? ……歯ごたえがある相手だと思ったのに、拍子抜けだな……」
「まだ終わりじゃないよ!」
澪依奈の傍らで、沙希が叫んだ。
クライスが嘲るように言い返す。
「おーおー、守られるだけの聖女様がよく吠える。どうした、今度は聖女様がお相手してくださるのか?」
「私にそんな力はないよ。あなたの言うとおり、いつもいつも誰かに守られるだけで……でも、そんな私にもできることはあるんだって、お兄ちゃんに教えてもらったからっ!」
「……何の話をしてんだ?」
……なんだ、こいつは何が言いたい? なんでわざわざ前に出てくる。
彼女からは何も感じない。
なのになぜ、こうも胸がざわつくのか。
……なんなんだ、この違和感は。オレァ一体、何を見落としてるってンだ?
『送り人』は撃退し、イレギュラーな氷使いも退けた。
魔力のリソースも十分ではないが、まだ余裕はある。
《貪婪なる蛇》の全壊は予想外だったが、それも時間が経てばすぐに再生する。
だというのに、どうしてこうも嫌な予感が消えないのか。
――お兄ちゃんだから!
「――っ! あのガキはどこ行きやがったッ⁉」
下をいくら見渡してみても、憎たらしい少年の姿はない。
だから上を見た。
根拠はない。
魔術師としてのカンが、彼を突き動かしたのだ。
「げっ、もうバレた⁉」
そこに居るはずのない少年が、鷲の足にしがみついて、空を飛んでいた。
「クソガキがァ……!」
思えば、最初にフィルフィーネが見せた《猛然たる鷲》は三羽だったはずなのに、さっきは二羽しかいなかった。
……最初から一羽はあのボウズの移動用で、オレに動きを悟らせないよう氷使いに大魔術を使わせて、魔力の反応を隠してやがったなァ……!
澪依奈の《月まで射貫け、砕氷の矢》により、魔力の乗った冷気が建物の中に充満している。悠真のひ弱な魔力程度、簡単に紛れてしまう。
おまけに薄いもやがかかった状態だ。クライスの視線は自然と眼下の“見える敵”へと向けられる。
あとは、『貪婪なる蛇』が反応しない高さからクライスへ接近すれば……。
「よし、行ってくれ!」
「キュイィー!」
悠真の言葉に応え、光の鷲が加速する。
悠真をぶら下げたまま、一気に高度を落としてクライスへと接近する。
「叩き落せ、『貪婪なる蛇』! ……どうしたっ、なんで言うことを聞かねェ⁉」
クライスの命令に、『貪婪なる蛇』は従うことができない。
砕け散った首の根元が凍っており、再生に時間が掛かっているのだ。
「倒すことはできずとも、再生の邪魔をすることはできますから。藤代君、あとはお願いしますね」
「クッソアマがァアアアアア!」
これで悠真の接近を邪魔するものは居なくなった。
「いっけえええええええええ! お兄ちゃああああああああん!」
澪依奈と沙希が見守る中、悠真は鷲から手を放し、《貪婪なる蛇》の体の一部であるツルを滑り落ちていく。
狙うのは、クライスの刻印魔術への《
……大元の制御を断ち切るか、魔力供給を止めさえすれば、《貪婪なる蛇》は攻略したも同然だ!
刻印魔術の術式なら、悠真はもう何度も視ている。
必ずできるという確信と、必ずやり遂げるという覚悟でもって、少年は全身に魔力を走らせる。
クライスは『貪婪なる蛇』を捨て置き、自身の魔術で迎撃しようとするが――。
「――がっ、はっ……クッソがァ……ッ!」
……こんな時に……!
胸を押さえて苦しむクライスの目の前に降下した悠真は、前かがみになって苦しむクライスの頭に触れ、ありったけの魔力を流し込み、魔術を起動する。
「――《
魔術が展開し、クライスの刻印魔術へと干渉する。
膨大な術式が、ダムが決壊したかのように、次から次へと流れ出ていく。
その直後、突然『貪婪なる蛇』の刻印魔術が明滅し、白い光が悠真とクライスを飲み込んだ。
「え⁉ な、なんだ⁉」
「こいつは、あの時の……!」
視界が白く染まる中、悠真の意識は何かに引っ張られた。
体を置き去りにして、精神だけがどこかへ飛ばされてしまう。
自分の後ろ姿を自分で見ているような錯覚と、謎の浮遊感がやってきて……。
――悠真の意識は、そこで途切れた。
†
目を開けると、そこは燃えるような真っ赤な森の中だった。
秋の情景を思わせる紅葉が、空を隠すように頭上で葉を揺らしている。足元には落ち葉が敷きつめられ、歩く度にザクザクと小気味よい音を鳴らした。
「ここは、一体……?」
……俺はさっきまで、クライスと戦ってたはずじゃ……。
「沙希! フィーネ! 鷹嘴!」
辺りを見渡して名前を呼ぶが、反応はない。
この森も、一見ただの森のように思えたが、まったくもって普通ではない。
なぜならば――。
「でかい……」
一際異様で異質な、巨大すぎる樹がそびえ立っていたからだ。
ただの木ではない。それだけは悠真も一目見ただけでわかった。
言葉ではとても言い表せないが……強いて言えば、神々しさのようなものが、その大樹にはあったように思う。
何年経てばこれほどまでに大きく育つのか。悠真には検討もつかない。
悠真は大樹の根本にまで近寄ると、上を見上げてまた驚いた。首をグイっと持ち上げても、木のてっぺんはまるで見えない。
けれど、代わりに別のものを見つけた。
「……人?」
木の幹から伸びる無数の太い枝。そのうちの一本に、一人の少女が腰掛けていた。
どこかの学校の制服だろうか。紺色のブレザーを羽織っていて、胸元には特徴的な大きなリボンが揺れている。チェック柄のスカートはどこか見覚えのあるもので、けれどはっきりとは思い出せなかった。履いているローファーも、女子高生としてはよくある感じの靴だが、汚れ一つないように見える。
とにもかくにも、この森とはひどく不釣合いな格好だ。
遠目からだと、コラ画像か何かとさえ思えてしまうほどに、少女の姿は浮いていた。
「――おや?」
少女は悠真に気づくと、足をぶらんと下ろしたまま、楽しそうにパタパタと足を揺らして微笑んだ。
「やっと来てくれたね。会いたかったよ、藤代悠真くん」
「……だ、誰だ? どうして、俺の名前を……」
「どうしても何も全部見てたからなんだけど……っと、その前に自己紹介をしなきゃだね」
にへへ、と少女は笑いながら風になびく髪も耳に掛けた。
「私は
悠真と同い年くらいの自称女子高生は、いぇーい、とピースをしながら、屈託なく笑ったのだった。
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