第19話「母と息子と、ときどき聖女」

 ――翌日。


 悠真の目が覚めたのは、いつもの起床時間よりも一時間ほど遅れてのことだった。

 時計を見て一瞬慌てた悠真だったが、今日が土曜日だと気づいてほっと胸をなでおろした。

 ……昨日は結局あのまま眠っちゃったのか。よっぽど疲れてたみたいだな……。

 悠真は重い体をベッドから起こすと、ひとまずシャワーを浴びることにした。

 寝ぼけていた意識が熱いお湯によって強制的に覚醒する。

 特別風呂が好きなわけではないが、朝一番のシャワータイムは嫌いではなかった。

 髪と体を手早く洗い、十分もしないうちに浴室を出て、髪をタオルで拭いている間に今日の朝食の献立を考える。

 ……フィーネが居るし、米よりパンのほうがいいか。食パンまだ残ってたっけ。あとはサラだとハムエッグでも添えて簡単に済ませるか。

 洗面所を出てキッチンへ向かう。

 すると、悠真の耳に包丁がリズムよく何かを刻む音が聞こえてきた。

 リビングの扉を開け、キッチンの方へと目を向けると、そこには鼻歌交じりに野菜を切っている母親の姿があった。


「おかえり、母さん。もう帰ってたんだ」


 悠真の母親――藤代千枝ちえは、手を止めることなく息子に朝のあいさつを返した。


「おはよ、悠真。引き継ぎがスムーズに終わったからさっさと帰ってきちゃった。あんた今日は珍しく遅いわね」


 現在時刻は午前八時過ぎ。

 休みの日にしては別段遅くはない時間のはずだが、いつも七時には起きている悠真にとってはやや遅い時間といえる。


「さては夜更かししてたなー?」

「してない。ただちょっと疲れてただけだって。泥のように眠るって言葉の意味をはじめて理解できた気がする」

「なによそれ。ようは爆睡してたってだけでしょ。もうすぐ朝ごはんできるから、沙希起こしてきてくれる? あ、お客さんも一緒なのよね?」

「そうだよ。一緒に起こしてくる」


 昨夜、あらかじめ千枝にはフィルフィーネのことをファストークで連絡済みだ。

 詳しい説明はまだだが、ひとまず海外から来たちょっとワケありな人、ということにしてある。

 ……さて、どう説明しようかなぁ……。

 昨日のこと、異世界のこと、そして聖女のこと。

 自分たちもまだ理解が及ばない事実を、果たして千枝にどう説明したものかと悠真は頭をかきむしる。

 沙希の部屋の前に着くと、いつものように形式的にノックをする。

 どうせ眠りこけているであろう沙希の返事を待つこともなく、流れるようにドアノブに手をかけ入室する。

 沙希だけならばそれで問題なかっただろう。

 今日はいつもとは違うということを、悠真は失念してしまっていた。


「沙希ー、朝だぞ起きろー…………あ」


 昨日と同じように妹の部屋に入った兄は、昨日とは違う光景を目にして固まってしまった。


「……え?」


 フィルフィーネがすでに起きていて、なぜか服を脱いでいる途中だった。

 脱ぎかけのパジャマからちらりと下着が見えてしまっている。

 悠真も健康的な男子高校生である。美人のこんな姿を目撃して、すぐに視線を逸らすことができるだろうか。

 服を脱ぎかけている自身の状態を把握したフィルフィーネは、悲鳴を上げることもなく、頬をほんのりと赤らめて、着ていた服で前を隠しながら口を開いた。


「えぇっと……着替えるから、その……ちょっとだけ部屋の外で待っててもらえると助かるのだけれど……」

「――ご、ごめんっ!」


 思いつく限りの言い訳をしようと頭をフル回転させていた悠真だったが、素直に謝罪し背を向けて立ち去る、という選択肢が最適解だと気付き、すぐに実行した。

 昨日の今日にしてまたしても……と、普段ならばやらないであろう失態を犯してしまったことを深く反省する悠真。

 脳裏には昨日よりもさらにはっきりとフィルフィーネの素肌が目に焼き付いてしまい、朝から悶々もんもんとしてしまう――かと思われたが。

 ……多分、見てはいけないものを見てしまった……。

 下着姿のフィーネの腹部には、刃物で切りつけられたような、深く大きな傷跡があった。

 よくよく考えれば、彼女は悠真が想像もつかないような過酷な世界を生き抜いてきたのだ。魔獣のような危険な生き物も存在するらしいし、傷跡の一つや二つあったとしても不思議ではない。

 けれど、悠真にはあの傷跡が人為的なものに見えた。

 ……まるで、正面から誰かに刺されたような――。


「もう入っていいわよ」

「――あ、あぁ」


 着替え終わったフィルフィーネに声を掛けられ、悠真の思考はそこで中断された。

 悠真がドアを開けると、フィルフィーネは昨日と同じ格好で立っていた。

 何事も無かったかのような空気に悠真は順応することにした。


「昨日と同じ服なんだな」

「えぇ。あいにくこれしか持ってなくてね」

「これしかって……そう言えば、あの槍の他に何も荷物持ってなかったよな? も、もしかして手ぶらでこっちに来たのか?」

「仕方なかったのよ。こっちの世界へ来るための《転移門ゲート》が起動するタイミングは限られてたし、直前まで〈協会〉の魔術師に追われてたから……。一応こっちの世界で活動するために、〈協会〉が破棄した拠点の一つ間借りしてはいたのだけれど……廃墟とは言わないまでも、似たようなものだったわ」


 肩をすくめるフィルフィーネ。

 彼女の言う〈協会〉の拠点とは、こちらの世界で活動するために、〈協会〉の斥候せっこう部隊が用意した仮設の住居だ。山奥の小屋だったり、寂れた商店街の一角にある朽ちた家だったり、空きテナントだらけの廃ビルだったりと、場所や建物の種類も様々だ。

 フィルフィーネが実際に間借りしていた拠点は、隣町の山奥にある小さな小屋だった。

 〈協会〉の活動拠点が街の中心に移ってからは、打ち捨てられたも同然の場所で、彼女はそんな場所で道具や食料もない、ただ屋根があるだけの素泊まり生活を送ってきた、というわけである。


「……フィーネがこっちに来たのってたしか――」

「四日前ね」


 ……四日間も、そんな場所でサバイバル生活をしてたってのか?。

 悠真は事情を改めて理解すると同時に、同情した。

 もしまだ悠真たちに出会っていなければ、フィルフィーネは今も山奥のボロ小屋で寝泊りしていたということになる。

 昨夜は運命的な出会いをしたと思っていた悠真だったが、事情を知ってしまった今はむしろフィルフィーネを保護したような気持ちになってしまっている。


「久しぶりにふかふかな布団で眠れたから、いつもより大分長く寝ちゃったわ。ありがとね、ユーマ」

「気にしなくていいさ。別に俺の家ってワケでもないし。それに、まだ起きてないヤツがここにいるわけだしな」

 悠真とフィルフィーネが同時に沙希を見る。

 ベッドの上で未だすやすやと眠りこけている姿は、まさしく眠り姫のそれである。

 幸せそうな顔でよだれを垂らしている沙希に、フィルフィーネは優しい笑みを浮かべる。


「本当によく眠ってるわ。起こすのがなんだか気が引けてきちゃう」


 沙希の頭を撫でるフィルフィーネ。

 まるで姉妹のようだ。


「でも今日は母さんが帰って来てるから起こさなきゃ。タイミングが合う時はなるべく一緒に食事を取るって決めてるんだ」


 仕事の都合上、なかなか母親との生活リズムが合わないことが多い悠真たちは、少しでもコミュニケーションを取るために、お互いが家にいるときはなるべく一緒に食事を取るというルールを作った。

 なので、ルールを守るためにも沙希には起きてもらわなければならない。

 そもそもこのルールを提案した本人なのである。一人だけ寝坊など許されない。


「母親が帰って来てるのね。あとでご挨拶しなきゃ」

「下に降りたときに紹介するよ。だからとりあえず……さっさと起きやがれっ!」


 掛け布団を引っぺがす。それでも沙希は起きない。

 いつものことなので、体を揺すって追撃しようとする。

 その前に、フィルフィーネが悠真の肩に手を置いて、


「ここは私に任せて」


 と、自信満々に宣言した。


「お、おう……?」


 昨日の夜、勇ましく表れた時のような自身に満ち溢れた表情をしていた。

 何か秘策でもあるのだろうか。悠真はよくわからないまま一歩下がる。

 フィルフィーネが沙希の額の側に手を伸ばして――、


 ――パチンッ!


「ふにゃっ⁉」


 頭の上で指パッチンをされた沙希があっという間に目を覚ました。それどころか、飛び起きて目を丸くさせている。


「にゃ、にゃになに⁉ なにごちょ⁉」


 寝起きでややろれつが回らないまま、慌てふためく沙希を見て悠真も驚いている。


「い、一発で起きた……何やったんだ?」

「ふっふーん。私オリジナルの目覚ましマジックよ。ちょーっと指先に魔力を集めて弾けさせただけなんだけどね。寝起きの悪い聖女様には、これが一番効くんだから」


 フィルフィーネはどや顔でそう語った。

 悠真は関心しつつ、自分も同じことができるだろうか、とちょっと試してみたが、普通の指パッチンすらうまく鳴らせなかったので一瞬で諦めた。


「おはよ、沙希。母さんもう帰って来てるぞ」

「おはよぉ。わかった……すぐ起きるから、さきに下りてて」


 まだやや寝ぼけてはいるが、いつもよりはるかに寝起きがいい。

 悠真は沙希が着替え始めたのを確認してから、フィルフィーネと一緒に階段を下りた。

 千枝はフィルフィーネと目を合わせると笑顔になり、おたまを持ったままあいさつを始めた。


「はじめまして。悠真と沙希の母親の千枝です」

「お初にお目にかかります、お母様。私はフィルフィーネと申します。こちらに泊めていただいたのには少し複雑な事情があるのですが……」

「悠真からなんとな~くは聞いてるわ。別に詮索せんさくしたりしないから安心して。ここを自分の家だと思って、自由に過ごしてくれて構わないからね」


 予想外の反応に少し戸惑いながらも、フィルフィーネは頭を下げた。


「ありがとうございます。そう言ってもらると助かります」


 あははーうふふー、と笑い合うふたり。

 悠真はおっかなびっくりふたりの話を聞いていたが、異世界の話やら沙希の話には詳しく触れないようで、少し安心していた。

 母親に心配を掛けたくないし、何より千枝が本気で沙希を心配すると、どんな手に出るかわかったものではないのである。

 ……これで心置きなく朝飯が食える。

 悠真が空腹に意識を傾けたとき、二階から降りてきた沙希がまぶたをこすりながら、まるで天気の話でもするかのようにこう言った。


「おかえりーお母さん。……あのね、お母さん――わたし、聖女なんだって」

「……なんの話?」

「勘弁してくれ……」


 藤代家の平和な食卓に、爆弾が投下されたのであった。

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