第18話「コイバナの気配」

 フィルフィーネは微笑みながらも、少しだけ不安に思っていた。

 ……ユーマに戦う術を教えるのは、本当に正しいことなのかしら。

 守るための力が欲しい、と彼は言った。

 それはかつて、彼女が同じように願ったものでもあった。

 〈協会〉に与えられたものではなく、自分自身が初めて心の底から欲したものだ。

 ……だからこそでしょ。

 あの時の自分は間違っていたのだと証明するために、悠真には正しい力を授けなければならない。

 たとえそれが、辛く険しい茨の道だとしても。 


「それじゃあもう一度魔力を流すわよ。今度はさっきよりも強めに流すから、ユーマもなるべく制御するように」

「どんとこいっ!」


 悠真とフィルフィーネは再び手を握り直す。

 体勢は変わらず、お互い向かい合ったままだ。

 テンションが上がっているせいか、ふたりとも何の違和感もなくこの状態を保っている。

 悠真は先ほどよりも強い魔力を受ける。

 暴れ馬の手綱たづなを握るように、魔力を優しく丁寧に操ろうと全神経を集中させた――。


 ――その時、部屋の扉が勢いよく開け放たれた。


「お兄ちゃーん、お風呂あがったよー! 次どうぞー……って、あれ?」

「さ、沙希……?」


 ようやく長風呂から上がった沙希が声を張り上げて部屋に入ってきた。

 まだ少し濡れたままの髪をそのままに、首にタオルをかけてお気に入りのフード付き珍獣パジャマに身を包んでいた。

 ……おやぁ?

 沙希の目には不思議な光景が映った。

 今日知り合ったばかりの女性と兄が、兄の部屋のベッドの上で体を重ねている。

 具体的に言うと、女性が兄の上にまたがって、恋人繋ぎをして向かい合っているではないか。

 荒んだ情報社会を生きる沙希の灰色の頭脳をもってすれば、これらの状況証拠から答えを導き出すことなど造作もない。

 ――つまりそうこれは、愛する男女の逢瀬おうせに違いない!


「おじゃましました! どうぞごゆっくりぃ~♪」

「待て待て待て待てッ! なにを勝手に勘違いしてるんだお前はぁ⁉」


 扉を閉めて立ち去ろうとする沙希を必死に呼び止める悠真。

 このままでは兄の沽券こけんに関わってしまう。


「フィーネとは魔力操作の特訓をしてただけだ! やましいことなんて何も……!」

「そんな必死に誤魔化さなくてもいいのに~。ねぇフィーちゃん?」

「ゆ、ユーマの言う通りよ! ホントになんでもないから!」

「じゃあなんでわざわざそんな体勢なの?」

「これはその、魔力の制御に失敗すると危ないから、その対策で……!」

「へぇ~~。そうなんだ~~」


 にやにやと笑う沙希の問いにフィルフィーネはたじたじ。頬を赤く染めながら「ホントのことなのにー!」と抗議している。

 悠真はベッドから飛び上がって、沙希の腕を掴んで逆襲を始める。


「それより、お前また髪を中途半端に乾かした状態で出てきたな。もう昔みたいに髪短くないんだからちゃんと乾かせっていつも言ってるだろうが。あと化粧水塗ったか? 毎日ケアしろって朋花に言われてるんだろ。それから……」

「わーわーわー! 聞ーこーえーなーいーっ!」

「いいからっ、大人しくそこに座れ。ほら、髪乾かすからじっとしてろ」


 沙希を机の椅子に座らせると、悠真は衣装棚の中からドライヤーとタオルを取り出して沙希の髪を乾かし始めた。

 子どもの頃から髪を乾かしている間、暇だ暇だと言って走って逃げていた沙希を、悠真は自分の部屋でよく髪を乾かしてやっていた。その名残で、今も悠真の部屋には沙希用のドライヤーが備え付けられている。

 兄妹の仲睦まじい姿を見ながら、フィルフィーネは小さく笑うと同時に、少し寂しい気持ちになった。


「――私もシオリによく髪を拭いてもらったっけ」

「ん? どうかしたフィーちゃん?」

「……いいえ、なんでもないわ。サキとユーマってホントに仲がいいんだなーって、そう思っただけ」

「えへへ、まぁそんなことあるかな」

「あるのかよ⁉」


 沙希とフィルフィーネの笑い声が部屋に響く。

 あんなことがあった後だというのに、今日初めて会ったフィルフィーネとこんなにも親しく笑いあえているなんて……と、悠真は今まで感じていた焦燥感がなくなっていることに気付いた。

 フィルフィーネのことを完全に信用したワケではないし、これからのことを思うと不安でたまらない。けれど、こうして笑う沙希を見ていると、そんな不安がどこかへ飛んで行ってしまうような気がして。

 ――こういう時間も悪くないなと、本気で思っていた。

 穏やかな時間はあっという間に過ぎてゆき、気が付けば二十三時を回ろうとしていた。


「フィーネの寝る場所はどうしようか。リビングに布団持っていくか?」

「私は庭でも構わないわよ」

「こっちが構うんだよ。外はダメだ」


 冗談なのか本気なのかわからない返答を、悠真は即断で切り捨てる。

 ……家に泊めると言っておきながら、庭で野宿させるようなこと許すはずがないだろ。


「だったら私の部屋においでよ! 眠たくなるまで一緒におしゃべりしよ。メルセイムのこととかもっと聞きたいし!」

「いいの? 私が一緒で――」

「もっちろん! フィーちゃんのことは全面的に信頼するって決めてるから。……それとも、フィーちゃんはいや?」

「そ、そんなことない! 嬉しいわ、本当に……それじゃあ、お言葉に甘えようかしら」

「やったー! あっ、先に少し部屋を片づけてくるから、ちょっと待ってて!」


 言うやいなや、沙希は自室へと移動し片付けを始めた。

 壁ごしにドッタンバッタンと何かを運んだり隠したりしている音が聞こえてくる。一体何をどう片付けているのか。

 とはいえ、沙希の部屋はすでに悠真がある程度片付けているはずなので。


「おまたせフィーちゃん。ささっ、どうぞどうぞ」


 沙希はものの数十秒で戻って来て、フィーネを部屋へと招いた。

 フィルフィーネが沙希に背中を押されながら部屋を出ていく。


「それじゃ、おやすみユーマ」

「おやすみーお兄ちゃーん」

「あぁ、おやすみ」


 バタンと扉が閉まったことを確認してから、悠真は自分のベッドに身を投げた。

 一人になって緊張の糸が切れたのか、今日一日の疲れが一気にやってきた。

 生死の境を反復横跳びするような夜だった。

 よく無事で帰って来られたなとしみじみ思う。

 久しぶりに魔術を行使したことも相まって、心身ともに疲れ切っていた。

 ……あぁ、風呂入らなきゃ。明日は母さんに事情を話して、それから……。


「ふわぁ……」


 押し寄せる睡魔には抗えず、大きなあくびをした。

 さっきまで何を考えていたのかさえ分からなくなってきて。

 ふと脳裏に浮かんだのは、数分前の出来事だった。


「……いい匂いがする」


 悠真はベッドに残ったフィルフィーネの香りに包まれて、あっという間に意識を手放すと、夢の中へ落ちていった。

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