第10話「腐蝕の檻」

「はぁ……はぁ……くっ!」


 どくん、どくん。胸の鼓動が脳に直接響く。

 緊張も相まってか、走る足が重い。

 いくら酸素を取り込んでも、息苦しさが消えることはなかった。

 月明かりに照らされる中、目的地もなく走り出した悠真は、この状況を打開する方法がないかと知恵を振り絞っていた。

 ……敵は二人。それも、おそらく魔術師だ。

 今まで一切出会うことのなかった魔術師との初めての邂逅が、まさか命のやり取りになるとは、なんという偶然だろうか。

 ……いや、偶然なんかじゃない。確実に俺を狙って待ち伏せしてたんだ。それに――。

 悠真はずっと、アミスとの会話の中で引っかかっている言葉があった。


 ――正確にはキミじゃない。


 ――と言ったのだ。本命は別にあると言外に言っているようなものだ。

 悠真と繋がりがあり、魔術に関係している人物。

 それらと結びついて思い出されるのは、今朝の召喚未遂騒動だ。

 不審な点と点が繋がり、自ずと答えが導き出される。

 ……狙いは沙希か。

 理由はわからないが、奴らが沙希を狙っているというのであれば、このまま家に帰るわけにはいかない。

 悠真は十字路を自宅とは反対方向へと曲がる。

 この程度で諦めて帰ってくれるような奴等ではないだろう。

 今もきっと、すぐ近くまで追いかけて来ているに違いない。

 幸い体力にはそこそこ自信があった。昔祖父に鍛えられたおかげか、トレーニングの習慣のたまものか……悠真は余力を残したまま走っていられた。

 あえて曲がり角をいくつも曲がりながら、路地裏の狭い道をただひたすらに走り続ける。

 やがて路地を抜け、たどり着いたのは住宅街にある大きな公園だった。ブランコや滑り台、ジャングルジムなどの遊具が置かれた広い公園だ。

 この公園を突っ切って、住宅地を出て行けば、あるいは――。

 ――そんな淡い期待は、文字通り泡のように弾けて消えることとなる。


「――おいおい、マジかよ」

 

 悠真は両足で急ブレーキをかけてその場で止まった。

 視線の先には、待ちくたびれた様子の女性がひとり――。


「また会ったね、少年」

 

 ―公園の真ん中で、アミスがじっとりと張り付くような笑みを浮かべた。隣にはもちろん、仏頂面で斧を担ぐヴォイドの姿があった。 

 先回りされていた事実に、悠真はそれほど動揺しなかった。むしろここまですんなりと逃げられたことが僥倖と言えた。

 悠真が息を整えている間、アミスは退屈そうにあくびをした。


「ふわぁ……鬼ごっこはもう終わりでいい? なんで自分からこんなわかりやすい場所に逃げてきたのかは知んないけど……潔く観念したって顔じゃあないわね」

「……さあ、どうだろうな。ただあんまり余裕こいてると、手痛いしっぺ返しを食らうかもしれないぞ」


 悠真は丸腰だ。だからこそ、見栄とハッタリで勝負するしかない。

 意味もなく右手を背中の裏へと隠すように半身で構える。

 アミスはまだ疑ってかかっているようだが、ヴォイドは少し様子が違った。

 くすぶっていた殺意に火がついてしまっている。視線だけで内臓がひっくり返りそうな威圧感を放っている。

 ……ヤバい。ふ、震えが止まらない……。

 悠真の虚勢を見抜いてか、ヴォイドがにやりと笑う。


「やれるものなら、やってみろ。どうせお前は、ここで死ぬ」


 ――瞬間、ヴォイドの足元の地面が爆ぜた。

 それがヴォイドの地面を蹴った際の砂飛沫だと認識したときには、すでに悠真の目の前で斧が振り上げられていた。


「ガァアアラァッ!」


 もはや斬るというよりも叩き潰すように振るわれる大戦斧ハルバード

 どんな盾をも粉砕してしまいそうな一撃を受ける選択肢は皆無だ。

 悠真はあらかじめ決めていた通りに、無様に転がるようにして斧を躱した。

 あと一瞬動き出しが遅れていれば、今頃悠真の体は挽肉になっていたかもしれない。


「――だから言っただろう。ノロマだってさ」


 ……あっぶなっ。し、死ぬかと思った! ちゃんと動くよな、俺の体……!

 内心では冷や汗をだらだらと流しながらも、虚勢を張りヴォイドを煽る悠真。

 避けられたのはほとんどまぐれだ。

 本気になったヴォイドの斧を振る速度が、ほんの少しでも悠真の想定を上回っていたら――。考えるだけでゾッとする。

 ……でも、じいちゃんの竹刀の方が早かった……気がする。たぶん。

 悠真は体に付いた砂を払いながら、子どものころ祖父に鍛えられていたときのことを思い出す。

 何度も切り結んだ――一方的にボコボコに殴られ続けただけだが――祖父の竹刀の太刀筋が脳裏に焼き付いているおかげで、ヴォイドの斧にかろうじて反応できている。

 同じような攻撃が続くだけならば、避け続ける自信はあった。

 だが、どこかで打って出なければこの状況は変えられない。

 悠真は、その機会を待った。


「あぁメンドクセェ。もういいよな、アミス」

「好きにしな。近くに他の魔術師が居ないのは確認済みだけど、あんまり時間掛けすぎるなよ」

「わかってる……ガァヘヘッ」


 ヴォイドはアミスになにかの確認を取ると、斧を地面に突き立てた。


「――腐り、ただれ、堕ちる。錆びゆく命を晒し並べろ」


 ヴォイドが魔術の詠唱を始める。

 同時に、悠真はぐっと右手を握りしめた。

 ……来た!

 悠真はこの瞬間を待っていたのだ。

 相手が何かしらの魔術を行使する――その瞬間を。


「餌の時間だ。――《腐蝕の檻ディケージ》」


 ヴォイドが唱えると、斧から霧が溢れ出した。

 霧はみるみるうちに広がっていく。とめどなく溢れ続けて地面に滞留し、やがて公園全体を埋め尽くすほどに充満した。

 煙は徐々に白煙ではなく、濁った沼のような灰緑色へと変化していった。

 悠真は自分の足元に煙が到達するタイミングで、慎重に右手をかざした。


「――《解析アナライズ》ッ!」


 魔術を起動し、ヴォイドが霧を広げているうちに、術式を解読しようと試みる。

 だがそれを黙って見逃してくれるほど敵は甘くない。


「ボウヤ、それは何をしようとしてるんだい?」

「――えっ……⁉」


 いつの間にか隣に立っていたアミスに耳元で囁かれ、悠真は反射的に右手を引っ込めた。

 かざした右手を誤魔化すように拳を握って、アミスに向き直り、


「――なんのことだ……?」


 と、やや震えた声で返答した。

 術式を読み取れたのはほんの数秒だけ。まともな情報を得るには、とてもじゃないが時間が足りなかった。


 ――魔術の術式を読み解く《解析》。

 ――読み解いた術式を書き換える《改編オーバーライト》。


 この二つの魔術以外持ち合わせていない悠真にとって、相手の魔術を利用する以外に勝機はない。

 しかも、相手の魔術が発動するのを待つ必要があるため、常に後手にならざるを得ない。魔術師同士の戦いにおいて、これほど不利なことはない。

 まともな情報は得られず、対抗策もわからぬまま。

 悠真の逆転の芽はあっけなく摘まれてしまった。

 ……このままじゃダメだ。何か他に打開策を考えないと……!


「それよりいいのかい? そんなとこに突っ立ってて」

「え――あ、しまっ……⁉」


 いつの間にか、毒々しい深緑へと染まった霧が悠真の膝丈にまで届いていた。

 悠真は身を強ばらせたが、特に体に変化は起きなかった。

 霧も空気より重いのか、悠真の腰より上には全く上がってこない。

 ……なんなんだ、この魔術は……?

 何かしらの攻撃だと予想していたのに、なんの影響も受けず肩透かしを食らう悠真。 

 視界を遮る煙幕というわけでもなく、ただ足元に滞留しているだけ。

 コンクリートを容易く砕く斧使いが、一体どんな意図で生み出したものなのか。

 ちらりとヴォイドへ視線を飛ばすと、バッチリ目が合った。

 ヴォイドは腕を組んで、ただじっとその場に立っている。

 悠真は嫌な予感がして、とにかくこの霧の外へ逃れようと思った。

 ――が、なぜか足が持ち上がらない。

 足の指先にピリピリと痺れるような感覚があるばかりで、自分の意志では全く思うように動かせなかった。


「……あ、あれ? なんでっ……足が動かない⁉」


 かろうじて太ももの辺りにかすかに力が入るため、すり足程度には足が動くが、それが限界だった。

 これではただのおもりだ。丸太のようなおもりを、二本腰から下にぶら下げているようなものだ。

 動揺が隠せない悠真は、太ももを支えるように両手で持ちながら無理やり足を動かそうとした。

 しかし、どれだけ力を込めても、霧の高さより上には持ち上がらなかった。


「どうした小僧。それは踊ってるのか?」

「……くそっ、この霧のせいか! なんで、こんな……っ!」

「無駄だ。お前は、もう逃げられん」


 ヴォイドは地面に突き立てていた斧を手に取り、悠真に切っ先を向ける。

 悠真の全身の毛が逆立つ。

 死を前にして、体の奥にある生存本能が叫んでいる。

 

 逃げないと死ぬ。

 反撃したら死ぬ。

 防御しても死ぬ。

 

 選択肢など存在しない。

 待っている未来は死だ。


 ……落ち着けっ。パニックになるな。とにかく《解析》を――!


「《解析》!」


 悠真は自分に言い聞かせながら、決死の思いで霧に手をかざし、再び術式の解読を試みた。

 今度はアミスの邪魔は入らなかった。今更何をしても無駄だと思っているのか、充満する霧の外から悠真のことを眺めている。

 必死で術式を読み解いていく。複雑な術式だが、どこかで見たことのあるような、特徴的な術式をしていた。それが何なのか、どこで見たのかを思い出すよりも先に、悠真は自分の体に起きている異変について理解した。


「――神経系の麻痺毒⁉」


 ヴォイドがふんっ、と鼻で笑った。


 ――『腐蝕の檻』。


 ヴォイドが扱う腐食魔術の一つ。霧を媒介に対象の神経系を侵食し、機能不全を引き起こす。魔力を帯びた霧は空気よりも重く地上に滞留するため、自然に霧散することはほとんどない。おまけに拡散範囲は術者が任意で広げられるため、こと近接戦闘においてこの霧から逃れる術はない。

 どこか建物に避難するか、空を飛ぶか、あるいはなんらかの方法によって霧を無理やり拡散させるか……。対抗策はいくつかあるが、どれも今の悠真には難しかった。

 この魔術の最大の欠点は対象を選べないこと。味方が同じ空間にいる場合、同様に神経を侵してしまう危険がある。

 そのため、アミスは遠くからこの光景を傍観するに徹していたのだ。


……そりゃ遠くでふんぞり返ってるワケだ!


「急いで書き換え……って、あれ……?」


 《改編》で神経への影響を無くそうと考えた悠真だったが、その時あることに気がついた。

 この霧の中、ヴォイドは斧を携え悠々と悠真に向かって歩いてくる。

 《腐蝕の檻》の効果対象は敵味方問わず無差別だ。

 それは術師自身も例外ではない。

 ――にも関わらず、ヴォイドは獲物を前に平然と歩いている。


「どうして……なんでお前は平気なんだ⁉」

「教えるはずがないだろ。――もう黙って死ね」


 ヴォイドが斧を振り上げる。

 公園の灯りや月の光を遮るように、悠真を死の影が覆い隠す。

 ……ダメだ、書き換えが間に合わな――。


「少しは歯ごたえがあると思ったが……期待外れだったな」


 悠真の《改編》が終わるよりも早く、命を刈り取る凶器が彼の頭上へと落とされた――その瞬間。

 

 ――ガキィィン……!


 鉄と鉄が打ちつけられたような甲高い音が響く。

 空気を切り裂く音と共に、どこからか高速で飛んできた物体が、斧の側面を叩き弾き飛ばしたのだ。

 悠真は何が起きたかわからず、反射的に上げた両腕の隙間から驚くヴォイドの顔を見た。


「――誰だ!」

「ヴォイド、上だ!」


 アミスが遠くからヴォイドに警告を飛ばした。

 声に従いヴォイドが頭上を見ると、月の中に隠れるように、誰かが夜空を舞っていた。

 影はひらりと体をひねると、ヴォイド目掛けて踵を振り下ろした。


「よいしょっ!」

「ふんッ!」


 ヴォイドは斧でこれを防いだ。

 とてつもない反射神経だ。

 だが両腕を上げたせいで、胴体ががら空きだ。

 謎の影はくるりと身をひねり、今度はヴォイドの横腹を痛烈に蹴り飛ばした。


「ぐァッ……!」


 ドゴォッ、という聞いたこともない打撃音が悠真の耳に届いた。

 ヴォイドは地面を数度跳ねて公園の奥まで吹き飛んでいった。

 蹴った衝撃の余波で、周囲の霧が霧散してしまっている。

 ……ど、どんな威力の蹴りだよ⁉


「い、今のうちに……って、おわあっ!」


 霧が晴れたことにより、足の感覚を取り戻した悠真だったが、まだ少し痺れが残っていたようだ。頭と実際の体の動きがちぐはぐなために、バランスを崩してその場にこけてしまう。


「いてて……まだ毒が抜けきってないってことか」


 尻もちをつく悠真に、先ほどの人影が近づいてきた。


「間一髪だったわね」

「……え?」


 それはとても聞き覚えのある声だった。

 どこか儚さを含んだ、凛々しくも透き通った声。

 悠真はゆっくりと顔を上げる。

 雲から顔を出した月の光に照らされて、徐々に彼女の輪郭が鮮明になる。

 その女性は、被っていた白いフードを脱ぐと悠真に手を差し伸べて、


「もう大丈夫。私が、キミを守ってあげるから」


 翡翠ひすい色の髪をきらめかせながら、そう言った。

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